記憶の底

 親子連れでにぎわう遊園地。

 一緒に乗ろうという誘いを丁重にお断りした。

 私の周りには若いママたちやお婆ちゃんたち。

 クルクル回るメリーゴーランドに乗って手を振る子供たちの中に、ひとり、大人の女性が笑顔で手を振る。


「ママぁ」「おばぁちゃぁん」のかけ声に混じって、

「カオリちゃぁ~ん! カオリちゃぁ~ん! バイバぁ~イ、カオリちゃぁ~ん!」

 子供よりはしゃいでいる。

 その異様な光景に、隣の老婦人が、

「元気なお姉さんねぇ…ほほほっ」と、引きつった笑顔で私を見る。


「姉じゃないです! ただの友達…て言うか、他人です!」

 思わずムキになる。

「あら、よく似てらっしゃるわよ」

 老婦人は、両手を振って大声で私の名を呼ぶ由香里と私を交互に見た。

 冗談じゃない!

 あんな田舎から出てきた変わり者と同類に見られるなんてごめんだ!

 私はその場から立ち去った。


「カオリちゃん!」

 背中で聞こえる由香里の声に私は振り向きもしなかった。

「いなくなっちゃったから、びっくりしたよ。どこに行ったのかと思った」

 そう言いながら由香里は隣に座った。

 私はテーブルにひじをつき、乱暴にストローでアイスコーヒーをかき混ぜる。

「アイスコーヒー買ってくれたんだ。いくらだった?」

「別にいいよ。それに、もう氷が溶けてうす~くなってるし」

 由香里は、ストローでアイスコーヒーをかき混ぜ一口すする。

「美味しい! このくらい氷が溶けてるのがちょうどいいよ」

 またコーヒーをすすり、うんうんとうなずいている。


「初めてなの?」と、不機嫌さを全面に出して聞いてみる。

「何が?」

「遊園地に来たの、初めて?」

「ううん」

 由香里は首を左右に振った。

「幼稚園とか小学校の…」

「遠足で来たことがあるのね」と由香里の言葉の後に続ける。

 私が聞きたいのはそんなことではない。

 なぜ行き当たりばったりの旅行で、動物園と遊園地なのか。

 それも、彼氏と行くならともかくナンパした女子高生と一緒にだ。


「家族で行ったことがないの」

 由香里が私の気持ちを察したように言う。

「2歳の時、親が離婚してさ、祖父母に育てられたようなもんだから…」

「お母さんは?」

「父に引き取られたの」

 私の瞳に同情の色を感じとったのだろう、由香里は呆れたような笑いをもらす。


「これが、とんでもないオヤジでさ。父親の自覚ゼロ。人より10年遅れて大人になって再婚した時には、こっちはもう中学生だよ。今さらオヤジ面したって遅いっつーの!」

 由香里はおどけたように唇をゆがめる。

「若い奥さんと一緒に休みのたびに遊園地だ、動物園だ、おもちゃ屋さんだって、小学生の妹と弟を連れ出して… 今はわりといいオヤジやってるよ」


 私は由香里のどうしようもない父親よりも、2歳の娘を置いて出て行った母親のほうが気になった。

「2歳の娘をよく置いていけたね」

 母親に対する非難をあらわにした私に、由香里は優しく微笑んだ。

「カオリちゃんは、2歳の時の記憶ってある?」

 2歳の記憶…

 あるとしたら、生まれて初めての記憶になるだろうか。


 私の最初の記憶は、多分3歳くらいの頃。

 犬に追いかけられて母に泣きながら抱きついている思い出がある。

 追いかけられると言っても実際はじゃれている程度だったのだろうが、3歳の私には強烈な恐怖体験として残っている。

 トラウマになってはいけないと、両親はプードルの子犬を買ってきた。

 母は、その犬にユリッペと名付けた。


「人生最初の記憶が恐怖体験なんて最悪でしょ」

 そう言って口をとがらす私の前で、何がおかしいのか、由香里は涙を流してキャハハと高い声を出して笑っている。

「だってだって、ユリッペって、すご~い!私、自分のことをそう呼んでたぁ! 犬と同じぃ! キャハハハッ」

 この人の笑いのツボについて行けない…


「それで! 由香里さんの2歳の記憶は? あるわけ?」

 由香里は笑いながらうんとうなずいた。

「母と電車に乗った。電車の中で母の作ったおにぎりと卵焼きを食べたの覚えてるよ。黄色いキレイな色の…」

 由香里は遠い昔に帰っているような、懐かしく切ない目で宙を見た。

「…置いていかれたんじゃないよ、私。あの時母は、確かに私を抱いて連れて出たんだと思う。あんまり覚えてないけど、絶対そう思う」

 つまり、由香里の人生最初の記憶は、母親が自分を連れて父親から逃げ出した記憶。

 そして、その記憶が由香里にとって母親の愛情を信じるより所になっているのだろうか。


 哀れである。

 母親の愛情が海よりも深く空よりも高いなんて幻想だ。

 世の中には、自分の幸せのために子供を踏み台にしている親が大勢いる。

 由香里の母親だって由香里のことなど忘れて、今ごろは新しい家族の中で幸せに微笑んでいるに違いない。

 しかし、そんなことを由香里に言うほど冷酷にはなれなかった。


 私は小さくため息をついた。

「それで、明日はどこ行くの? おもちゃ屋さん? それとも、もう帰るの?」

「おもちゃ屋さんっ!」

 速攻で彼女の無邪気な声が返ってきた。

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