第一章 天狗連 その2

 歯車が狂いだしたのは、第二工場を建てるという話が出てきてからだ。昭和三年の十二月におこなわれる、天皇陛下即位の御大典景気を見越した計画だった。


 そのころ、落合製菓には陸軍退役将校の山下という上得意がいた。どういうつながりなのか、最後までわからなかったが、落合製菓は、この人物に有利な条件で製品を卸していた。


 第二工場建設の話は山下の耳にも届いたようで、あるときから、駒沢方面は地価、地代が安いからと熱心に誘ってきた。


 私の兄は、その話を聞いて、「菓子問屋は日本橋、京橋方面に集中してるんだから、亀戸あたりに建てるべきだ。駒沢じゃ製品の搬出やいろんなことで、時間的にも労力的にもロスになり、地価、地代なんかは問題でなくなる。」と言って反対したが、落合氏は、山下の建設資金を出資するからという誘いに乗ってしまった。


 当初、山下の出資金は、やがて合資会社にするときの株金に充当し、後から資金を引き揚げるようなことはしない条件だった。


 ところが、工場の建設が始まると、「これは融資だから貸借の形じゃないと金は出せない。」と言ってきた。落合氏は困ったが、工場建設は始まっている。結局、山下に言われるがままに、貸借の公正証書を作成したのだった。


 そればかりか、山下は、落合氏が資金繰りにもたついているのを知ると、内容証明を各取引先の問屋に送りつけ、落合製菓の売掛代金を取り立て、ついには、新工場も差し押さえて競売に掛け、自分の手中に収めてしまった。


 難局に直面した落合製菓だったが、注文が殺到するであろう十月までに新工場が完成すれば、何とか乗り越えられるはずだった。


 ところが、ここで新たな問題が発生した。製品製造の許可が下りなかったのだ。


 原因は警察の腐敗にあった。


 いつまで経っても許可は出ないが、御大典は刻一刻と迫っている。どうすることもできず、やきもきしていたとき、警察署の工場係に贈賄するようにと知恵を貸す者がいた。


 落合氏が、すぐ工場係の自宅を訪問し、袖の下を使ったところ、工場係は「大いに頑張りたまえ。」と激励したばかりか、翌日、自ら工場に許可証を届けてきたのだった。


 しかし、時、既に遅く、新工場建設は出遅れてしまっていた。問屋筋からの注文に応えることもできず、落合氏は、八方に陳弁して回らざるをえなかった。


 新工場が完成したときには、十月も過ぎ去っており、夢にまで見た御大典には、ついに間に合わなかった。その結果、収支のバランスは崩れ、落合製菓は赤字の上に、高利貸しに追われる羽目になってしまった。


 四苦八苦の落合氏に、更なる悲劇が訪れたのは、新工場が稼働して、しばらく経った頃だった。ガス会社の集金人が「今すぐにも料金を支払わなければ、ガスを止める。」と言ってきたのだ。


 落合氏は原料の山を見せ、「半日だけ使う時間をくれれば、製品を現金に換えて、夕方までには必ず支払います。」と懇願した。


 だが、ガス会社は、断固として聞き入れず、無情にもガスの元栓を閉めてしまった。後から分かったことだが、これも山下が画策したもので、ガス会社に落合氏の内情を告げ、信用が落ちるように仕向けていたのだった。


 ガスが止まった製菓工場など、ただの箱にすぎない。一方、本所の旧工場は、弟の落合正作さんに譲渡していたため、今さら帰るわけにもいかない。落合氏は、駒沢の新工場でやり繰りするほかない状況に陥っていた。


 万事休すの落合製菓は、新工場の工員(男工二十名、女工十六名)のうち、女工全員と男工の半数を解雇した。納得のいかない十名の男工は、気苦労の連続でまいっている落合氏を激しく責め立てた。


 落合氏の妻と義妹は狼狽するばかり。私は落合氏に味方し、彼らが不穏な行動に出るようなら、身を盾にしてでも闘ってやろうと、落合氏の側にぴたりと座っていた。


 落合氏もあれこれ打開策を講じたが、新工場の夢は儚く潰えた。結局、落合氏一家は、旧工場で狭い間借り生活をすることとなった。私を含む残った職人は、弟の工場に勤めることになり、そこで寂しく年を越したのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る