義憤に燃えて
@kikuzirou
プロローグ その1
一九三二年(昭和七年)二月九日午後七時半過ぎ、肌寒い曇天の夜。一台の黒塗り高級車が、エンジン音も軽やかに入ってきて、静かに止まった。ルームランプが三人の人影を浮き上がらせる。車の後部ドアが開かれると、井上準之助を中に挟んで、三人が降りてきた。念のため、忍ばせていた紙片のナンバーと自動車のナンバーを見比べた。ぴったり符合する。
三人は、そのまま横に並び、通用門に向かっていく。四、五人の供と思われる人々が先を歩いているが、後ろは、がら空きだ。
私は懐に右手を入れ、ピストルの安全錠を外した。三人の背後に迫る。というよりも、吸いつけられたといった方が正しいかもしれない。
井上準之助が通用門に差しかかった。私は井上の背後に身を擦り付けるようにして近寄り、懐から、拳銃を握った右手を出した。右腰に押し当て、「南無妙法蓮華経」と心で唱えながら、引き金に指をかける。ぐっと引き締めた瞬間、銃口から、辺りを照らすほどの鮮烈な火が噴きあがった。三発つづけざまに放つ。井上が斜めに傾いていく。成功を確信した瞬間、私の頭に重い衝撃が走った。
気が付けば、私は四つん這いにさせられ、群衆から殴られ、蹴り飛ばされていた。目の前にピストルが転がっていた。必死になって取ろうとするが、手が届かない。焦れば焦るほど、届かなかった。そのうち、誰かの非情な手が伸びて、ピストルは私の視界から消えた。それと同時に、ちらほらと舞う白いものが目に飛び込んできた。雪だった。見上げれば、円タクのライトに照らされ、一つ一つが輝いている。幻想でも見ているような気分に陥ったとき、喧騒の中に静寂が訪れ、私の意識は遠のいていった。
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