3回目 夏の日は気づかない
7月22日。
俺は妙な圧迫感と、じわぁっと広がる暑さに目を覚ました。
「…………」
目を瞑った明日香の顔がすぐ目の前にあった。
その顔は、俺が目を覚ますと少しずつ離れていき、そして明日香は目を開けてふふっと笑った。
「おはよ」
「……おはよー」
「反応うすいなー。愛しの彼女のキスだよ?」
「自分で言うな。ってか暑いし重い」
「うわー、さいてー。モテないぞー」
「明日香がいてくれるならそれでいいよ」
「……はいはい」
明日香は俺の上から降り、そのままベッドからも降りた。
「はいはいって」
「ほーら、早く準備しないと遅刻するぞー」
「準備に時間かかるのは明日香だろ」
「伊織ものんびりしていつもぎりぎりになるじゃない」
「あーあー、聞こえなーい」
俺は枕の脇に置いていたスマホを確認した。画面には7時38分と映し出されている。ゆっくりと身体を起こし、俺はベッドから降りた。
そのままのんびりとした足取りで窓の方に向かい、目を細くしながらカーテンを開ける。
空に太陽の光を遮るものは何もなく、アスファルトが殺人的な熱を帯びていそうなことは、外に出なくてもなんとなくわかった。
そして窓一枚の隔たりの中でも聞こえてくるセミの声が、暑さを一層助長している。
一つため息をついて窓から離れ、俺はテレビをつけた。
「……事件の容疑者は、いまだ逃走を続けており……」
しかしテレビをつけたからと言って、しっかり見るわけではない。情報はほとんど右から左だ。少し耳を傾けると言えば、気象予報ぐらいだな。今日も暑いらしい。あー嫌だ。
俺は冷蔵庫から水を出して飲んだあと、皿に入れたグラノーラに牛乳をかける。
「伊織ー、私もー」
顔を整えている明日香は、自分で準備する時間が取れないのだろう。いや、めんどくさいだけか。
しかしこれはいつものことだ。今更特に気に障るとかはない。女子は大変だなぁと思いながら、俺は明日香の分も準備した。
朝食を食べたあと、俺たちは一緒に家を出て大学へと向かう。
「あつい……」
「いちいち言わなくてもいいでしょ」
家を出たばかりなのに、もう汗をかきそうだ。
「じゃあ私は先行っとくねー」
「おう」
やっと大学に着いた。
と言っても、歩いて15分程度だが。
明日香はそのまま教室へと向かい、俺はキャンパス内のコンビニに入った。
汗をぬぐい、文明の利器で涼んで、そしていつもと同じ水を買う。
顔なじみとなったレジのおばちゃんと「梅雨が明けたねぇ」なんて他愛もない会話をしてコンビニを出た。
一限の前だというのに人が多いな。
でもたぶん、ほとんどが一、二年生だろうな。
三年生以上になると、一限から来る機会は少ないだろう。
かくいう俺も三年生だが、一限から来るのは週に一度、今日だけだ。
学校に来るのも週に三回だけ。一、二年生の時に単位を稼いだおかげである。
「きゃっ」
コンビニの前で水を飲んでいると、少し離れたところから女性の声が聞こえてきた。
目をやると、一人の女子学生が自身の服の左肩を右手でつまんでいた。
よーく見ると、少し白っぽいものがついている。
自身に視線が集まっているのが嫌なのか、それとも出来事が嫌だったのか、女子学生は「さいあく」とつぶやいてその場を離れた。
「鳥のフンにでも当たったか?」
他人事のように(事実そうである)呟いて、俺は一限の教室へと向かった。
「おはよー伊織」
「おう、おはよ」
教室に着くと、いつもと同じ席、明日香の隣に座った。
「伊織くん、おはよう」
「はよっすイオリ」
カバンを置くと、前に座る
「おう」
大学にいる時はこの四人でいることが多い。
もちろんすべての授業が同じというわけではないが、同じ学部、学科なので、被る確率は高い。そして大体一番最後に来るのが俺だ。
ちなみに朱莉ちゃんと祥吾には、明日香と付き合っていることを隠している。
特別理由があるわけではないが、なんとなく恥ずかしい。それだけだ。
「なぁイオリ、明日ヒマ?」
「なんで?」
「伊織くんが来る前に、みんなで海に行こうって話してたの」
「おぉ、海か。いいな! 明日はバイトないからいけるぜ」
「よし、じゃあ決まりだな!」
「うっみ、うっみ」と祥吾はウキウキしている。海ってのは夏ならではのイベントだ。テンションが上がる気持ちもよくわかる。さすがにそこまで露骨には出さんけど。
「ねぇ伊織」
「ん?」
明日香がこそっと話しかけてきた。
「今日大学が終わったあと空いてる?」
「バイトまでは暇だけど」
「じゃあ一緒に水着買いにいこうよ」
「断る」
「はい決定」
「聞いてた?」
「なに?」
「……なんでもない」
言うだけ無駄だなこれは。
この様子を朱莉ちゃんが肩越しにチラッと見ていたことに、俺と明日香は気づいていなかった。
「伊織くん、どっちがいいと思う?」
「ど、どっちでもいいんじゃないか?」
「えー、どっちか選んでよぉ」
白色のものと、薄いピンクのビキニを目の前に掲げられ、俺は言葉に詰まった。正直どっちでもいい。明らかにこっちの方が似合う、とかだったら選択は可能だが、どちらも似合うんじゃないか、となってくると、もはや拷問だ。自分の好みで選ぶわけにもいかない。
「朱莉ならピンクの方が似合うんじゃない?」
だって明日香のではなく朱莉ちゃんの水着なのだから。
「そうかなぁ。伊織くんはどう思う?」
「えっ、と」
明日香の助け船も沈没し、ミサイルはまたしても俺に飛んでくる。
「俺もピンクの方がいいと思うよ?」
「そう? じゃあピンクにしよ~」
やれやれ。
「どうしてこうなった」
「いや~、大学出る時に朱莉に捕まってさ」
ごめんね~と頬を掻く明日香。当初は明日香と俺の二人で買いに来る予定だったのだが、付き合っていることを隠している手前、断れなかったのだろう。とは言っても、明日香は何も朱莉ちゃんが嫌いというわけではないし、もちろんそれは俺もそうだ。そこまで問題にすることでもないだろう。ただちょっとだけ、本当にちょっとだけ、二人でいたかったなぁと思うところはある。本当にちょっとだけ。
「なぁなぁアスカちゃん、どっちの水着がいいと思う?」
「あっちの赤のブーメランなんてどうだ?」
「俺はアスカちゃんに聞いてんの!」
そして朱莉ちゃんと一緒にいた祥吾も流れでついてきたというわけだ。結局いつもの四人組じゃねぇか。まぁいいんですけどね。
「祥吾くんならこっちの青の方が似合うんじゃないかな?」
「そう? 俺はこっちのオレンジの方が好きだったんだけど」
「じゃあそっちでいいだろ」
「俺はアスカちゃんに選んで欲しいんだ!」
「じゃあ素直に青にしとけよ」
「でもオレンジも捨てがたいんだよなぁ」
「……勝手にやってろ」
結局「うーん」と一人で悩む祥吾。明日香に聞いた意味は何だったんだよ。
「これじゃ伊織に選んでもらうのは難しいかなぁ」
「明日香ならなんだって似合うだろ」
「選んでもらうことに意義があるの」
「そういうもんか?」
「そういうもんなの」
わかってないなぁ、と一つ息を吐く明日香を横目に、俺は徐に女性水着売り場に向かった。
「伊織?」
「こういうの結構好きかもなぁ……」
俺はマネキンが着ている、濃い水色で下にパレオが巻いてあるビキニを見ながら、さも独り言であるかのように呟いた。
「さぁて、俺はどんなのを買おうかねぇ」
そしてすぐにその場を離れ、男性の水着売り場に向かう。
俺がその場を離れたあと、明日香は少し跳ねるようにマネキンの方へと歩いていった。
「このあとどうする? 軽く飲みにでも行く?」
それぞれの水着や浮き輪などを買い終わり、時刻は17時を過ぎたころ。夏と言っても少し日が傾き、オレンジが混ざった空になっている。
「いいね! 行こうよ!」
祥吾の提案に朱莉ちゃんは間髪を入れずに乗ってきた。
「わるい、俺今からバイトだわ」
「えー」
しかし俺が来ないとなった瞬間に、明らかにテンションが下がる朱莉ちゃん。露骨すぎませんかねぇ。
「まじかぁ、しゃーないな。アスカちゃんはどうする?」
私は……、と明日香は俺の方をチラッと見た。好きにしなさいな。
「……行こっかな」
どうせ家に帰っても、俺がバイトでいないのならば、暇だろうしな。時間潰しには丁度いいんじゃないか?
「じゃあ三人でいくか。イオリもまた行こうぜ!」
「おう」
軽く手を振って、俺はその場を後にした。
しかし、少し進んだところで足を止める。
「伊織?」
俺の様子を不思議に思った明日香が声をかけてきた。
そして俺は徐に振り返る。
「イオリ?」
「伊織くん?」
三人は少し訝しげに俺を見る。そんな顔で見られても困るのだが。
「いや、なんでもない。ただのデジャヴだわ」
「なんだよ。急に頭でもいかれたのかと思ったぜ」
「言い過ぎだろ」
「デジャヴって何?」
「あれ、なんかこれ前にも見たな? って感じのことだよ」
デジャヴがわからない朱莉ちゃんに教えてあげる明日香。しかし、朱莉ちゃんはなぜか少し文句ありげな顔をしていた。
「じゃあバイト行くわ」
「おう」
「伊織くんがんばれ~」
俺はまた軽く手を振ってバイトに向かった。
「お疲れ様でーす」
時刻は22時過ぎ。
俺はバイト先の塾を出た。
当然の如く空は暗く、夜だと言うのに蒸し暑い。
暗い帰路につきながら、俺はポケットからスマホを取り出す。通知を確認してみると、明日香から連絡が来ていた。
「お酒買ってきて? なんかあったのか?」
飲みに行ったはずなのに、まだお酒が飲みたいというのは、少し疑問が残る。明日香は特別お酒に弱いわけでもないが、そこまで飲む方でもない。
何があったか少し気にはなるが、帰って聞けば済むことだ。とりあえず了解と返信しておこう。もとより、俺はまだご飯を食べていない。コンビニには寄る予定だったから丁度いい。
中に入ると、同い年ぐらいだろうか? アルバイトであろう男性がやる気なさげにいらっしゃいませと言ってきた。入店音が鳴ったので言った、言わば条件反射のようなものだろう。
ただ、なぜかその様子が少し引っかかった。まぁだからと言って、特別アクションを起こすわけではないけどな。
お酒のコーナーに行き、明日香の好きなチューハイを数本、籠に入れる。
「俺も飲もうかな」
自分用にビール一本とチューハイを籠に入れ、軽くおつまみと弁当も入れてレジに向かう。
先ほどの店員が、可もなく不可もなく、元気でもないし元気がないわけでもない、なんとも平坦に言葉を紡ぎながら会計をする。
少し大きめのレジ袋を携え、俺は店を出た。
あっつい。外と店内との気温差で、身体が今にもバテてしまいそうだ。
コンビニに寄ったと言っても、帰路がそこまで変わるわけじゃない。むしろコンビニに寄ることがほとんどだ。
歩き慣れた道である。
迷うことなんてない。
多少の気の緩みで、今更どうなるわけでもない。
――そう思っていた。
不注意だったわけじゃない。
歩きスマホをしていたわけでもない。
信号はちゃんと青だった。
ただ何も気にすることなく横断歩道を渡ろうとした時。
俺の身体は強い光に包まれる。
大きなトラックが、すぐそこまで来ていた。
「え」
身体に強い衝撃を受ける。
その刹那。
痛いのか痛くないのかもわからない。
浮いたような、つぶされたような。
よくわからない感覚とともに。
俺の意識は旅立った。
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