紙人間の詩

 紙人間は隔絶された部屋で眠りから覚めた。今日も仕事の時間だ。

 紙人間の部屋は簡素で手狭な造りである。黒白の市松模様のタイル床。眠るための寝台。作業用のテーブル。そして外界へと通ずるたったひとつの窓。扉はない。紙人間がこの部屋を出ることはない。だれかが訪ねてくることもない。

 窓の外はどこまでも続く海。海鳥の舞う抜けるような青空。高層階に位置しているとはいえ、この窓から見える景色といえばそればかりだ。毎日見ても変わることのない空と海と鳥。あるいは、毎日見るたび表情を変える空と海と鳥。どちらととるかは、紙人間のその日の気分による。

 紙人間の朝は軽いストレッチから始まる。紙人間は、その名のとおり、紙で出来ている。全身のっぺらぼうの、雪のように白い紙。動くとさわさわと空気が揺れる。

 ストレッチを終えると、紙人間はテーブルの前の椅子に座る。そして自分の手をじっと見る。手相などない紙のたなごころを、それでもそこに刻まれた運命を探し求めるかのように、じっと見つめる。

 甲斐のない占いを終えてしまうと、紙人間は、彼に課せられた仕事に取りかかる。ノルマはすでにテーブルに積み上げられている。紙人間が目を覚ますと、いつもノルマはそこに積み上げられている。

 紙人間は、その紙の山から最初の一枚を、本日の初仕事の素材を手に取る。そして隅々まで丁寧に触れて、慈しむように撫でさする。それからゆっくりと紙を折り始める。赤子をあやすように、まごころを込めて折る。

 小一時間ばかりもかけて、やっと紙人間は一羽の鳥を生み出した。紙で折られた、肌理きめ細かな純白の鳥。

 紙人間はいちど伸びをしてから背筋をほぐし、椅子から立ち上がった。そして、折り紙の鳥を手にのせて、窓辺に歩み寄る。

 ふっ、と紙人間は、鳥に息を吹き込んだ。すると白い紙製の鳥は、瞬く間に全身が赤く染まり、ぴくっと震え、くりくりと眼を動かし始めた。試すように羽根を揺らせて、甲高くさえずると、紙人間の手から飛び立ち、窓を抜け出て、海上に広がる空へとかけていった。

 紙人間は鳥のその赤い後ろ姿を見送りながら、一仕事を終えた満足感と同時に、一抹の寂しさがわきあがるのを感じた。

 自分は生涯、この部屋から出ることはないだろう。この窓の外へ出ることはないだろう。自分が日々に生み出す鳥は、自分が決して見ることのできない光景を見てから死ぬことになるのだ。

 そのことに、紙人間は少しばかりの羨望を覚える。

 だが、そんな憧憬を抱くのも、わずかの時間だ。紙人間は勤勉な性格をしている。今日のノルマはまだ山積みだ。感傷にふける前に、終わらせなくては。

 紙人間は窓辺からテーブルへ戻り、紙の山から次の一枚を手に取って、黙々と紙を折り始めた。


 紙人間がこの世界について知っている事柄はあまりにも少ない。生まれた時からいまに至るまでこの部屋を出たことがないので、それも無理からぬことではあった。

 ただし、自分に課せられた使命は理解している。

 世界から鳥が滅びようとしている。空を支配していた有翼の天使たちが、次々と墜ちて息絶えていく。

 鳥のいない世界とはすなわち死んだ世界だ。だれかがそれを阻止しなくてはならない。紙人間は、そのために生み出された尖兵せんぺいなのだ。

 紙人間は鳥を折り、仮初めの生命を吹き込み、空へと放つ。紙製の鳥が、果たして鳥の滅亡を食い止める足がかりとなってくれるのか、紙人間にはわからない。そんなことを考える暇があるなら、一羽でも多く鳥を折るだけだ。

 紙人間はさまざまな色の鳥を窓から放つ。赤、青、黄、緑、紫、金、銀、黒。しかし白だけは鳥に与えない。白は紙人間だけの特権であり、神に与えられた色彩なのだ。

 紙人間は彼だけではない。海にそびえるこの城砦には、彼以外にも大勢の紙人間がいる。同じような部屋、同じような窓、同じような作業。そして、だれも他の紙人間と出会うことはない。

 彼には個人としての名前はないが、所有する番号はある。三○五四八というのが彼の識別番号である。ただ、だれとも出会うこともない彼にとって、名前などは必要ないし、そんな番号も意味をなさない。彼はおびただしく生み出された紙人間のひとりであり、この世でたったひとりしかいない紙人間でもあるのだ。


 紙人間が今日のノルマをすべて済ませる頃には、夕暮れが空と海を染めていた。窓から覗き見る、今日という世界の終わりの光景。いつもと同じ、薄暮の終末。

 紙人間は寝台に横になる。いつもこの時間には眠ってしまい、目覚める頃には朝となっているので、紙人間は夜を見たことがない。しかし、イメージは刻まれていた。それは暗く、優しく、残酷で、憂いに満ちた時間だと、だれに教えられたわけでなくとも、理解はしていた。

 いちども見たことのない夜を夢見ながら、紙人間は今日も柔らかな眠りにつく。


 紙人間がいつもどおりに朝のストレッチをこなしている時に、その客人はやってきた。

「……おい……おおい、そこのおまえ……」

 どこからともなく呼びかけてくる、不可解なかすれた声。紙人間はきょろきょろと辺りを見まわすと、窓の外に、彼とは別の紙人間の顔が見えた。上からぶら下がるようにして、この部屋を覗いている。

「よっ、と」

 客人は、窓から部屋へと入ってきた。紙人間はストレッチの途中のねじれた姿勢のまま、驚きに固まっている。

「そんな顔するなよ、ご同輩。お互い同じ紙人間じゃないか。仲良くしようぜ」

「きみは誰だい? どうしてぼくの部屋に?」

「誰だって言われても、名前なんかないよ。番号を名乗るのもごめんだね。そんなことはどうでもいいじゃないか。強いて言うなら、俺は好奇心の強い紙人間だよ。ある日の朝、海の向こうを眺めていると、好奇心がむくむくとわいてしまって、窓の外へと出ちまったわけさ。以来、城砦の壁を這いずりまわって、いろんな部屋を覗きまわっている。ほら、これを見ろよ」

 そう言って、客人は背負っていたリュックサックをおろし、中からごそごそとさまざまな物品を取り出した。

「管理人の部屋からくすねた戦利品さ。寝台、テーブル、椅子、折り紙……。俺たちの部屋にはそんなものしか用意されていないが、この世にはそれ以外にもおもしろい玩具があるんだぜ」

 リュックサックから次々に飛び出す、紙人間が知識としては知っていても、一度も目にしたことはなかった品々。ビー玉、羽根ペン、懐中電灯、詩集、古写真、古手紙、ラジオ、少女人形、包帯、インク、百科事典、ヘッドホン、貝殻……。客人のリュックサックは、まるで魔法の鞄のようだった。

 紙人間はそれらを惚れ惚れと眺めた。

「すごいなあ……。でも、きみはこれをどうするつもりなの?」

「どうするつもりもないよ。ただ集めるのを楽しんでいるだけさ。なんだったら、いくつかおまえにやるよ」

「本当かい?」

「かわりといっちゃなんだけど……なあ、俺についてこないか?」

「ついていくって、窓の外にかい?」

「ああ。城砦の壁をめぐる日々は、楽しいぜ。部屋にこもっていつまでもせっせと鳥を創って、それでなんになるんだ? それをしている限り俺たちは不死でいられるけれど、そんな生に価値はあるのか? だから俺は窓の外に出たんだ。たとえ背信者には死が待つとわかっていてもな。でもさ、たまに寂しくなるんだ。部屋でひとりでいる頃は感じなかったのに、壁をひとりでさすらうようになると、心細さを感じるようになった。仲間がほしくなるんだよ。なあ、俺と一緒に城砦を旅しないか? ひと目みてわかったよ。おまえも、なにかを求めているんだろ? 一緒に来いよ」

 紙人間は、その誘いについてしばらく黙って考えた。そして、首を振った。

「……悪いけど」

 客人は傷ついたようだった。

「ごめんよ」

「いいんだ。おまえもやっぱり、他のやつと同じ、退屈な紙人間でしかなかったってだけだ」

 客人は珍奇な品々をばらまいたままに、リュックサックを背負い、窓から外へと姿を消した。

「……ぼくは、城砦には興味がないんだ。ぼくが興味を持っているのは……」

 海の向こうを見つめながら語られたその言葉は、消え入るように途絶えた。語りかける相手もすでにいなかった。

 紙人間は、今日の仕事に取りかかった。しかし、客人の残したものが気にかかり、思うようには進まなかった。


 今日も陽が沈もうとしている。今日という世界が終わろうとしている。そしていまや、彼もまた、好奇心によって窓の外へと旅立とうとしている。

 あの客人は、ある日の朝に、窓の外へ出たと言っていた。自分は夕暮れの光に誘われて、窓の外へと向かおうとしている。

 今日のノルマは結局こなせなかった。客人の残した品々に夢中だったのだ。

 床にはビー玉、少女人形、懐中電灯、ラジオ、貝殻……。そして、紙人間が一日中くりかえしめくっていた、古ぼけた詩集。

 紙人間は椅子に座り、羽根ペンを手にしていた。ペン先をインクに浸すと、彼はペンを握っていない方の手に、なにかを書き始めた。まるで手相を書き込むように、まるで自らの運命を書き込むように、言葉を書き込んでいく。

 それは詩だった。彼の想いを託した、彼にしか解き明かせない、魔法の言葉。

 手が文字で埋まると、彼は腕にも書き、胸にも書き、足にも書き、そうして、紙人間たる彼の全身を、彼の詩で埋めつくした。

 彼もまた、永遠に続く変わらない日常を捨て去ることを決意したのだ。不死の生を諦めたのだ。なにも伝えない生よりも、なにかを伝える死を選んだのだ。

 紙とペンさえあれば、詩が書ける。紙はわが肉体、詩はわが魂。その紙片が彼の生きた証だった。その詩篇が彼の生きたすべてだった。

 そして彼は言葉で埋めつくした自らの肉体を折り始めた。紙人間は、自らを折り畳み、詩を運ぶ鳥へと生まれ変わった。

 夕暮れの城砦にはおびただしい数の窓が並んでいた。その窓のひとつから、一羽の鳥が巣立っていくのが見える。

 海の向こうを目指して、詩を運ぶ鳥は羽ばたいた。

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