喪犬
生まれてみると、犬だった。なぜかはわからない。人間だって、自分がなぜ人間か、知って生まれるわけでもない。ある日きがつくと、人間だった。それだけの話だ。そうして彼は、犬だった。それだけの違いだ。
生まれてみると、地が揺れていた。地震というそうだ。震災とも呼ぶ。御一新のごたごたからこの方、これほどの天変地異はなかったという。流言で外来の人が殺されたりもしたそうだ。なんでも、井戸に毒を入れたとか。毒を入れたのだから、殺してしまおう。そういうことだったらしい。犬もたびたび毒殺されるが、人は人にも毒を盛るらしい。盛ってなくても、盛ったと言われれば、殺されることもあるらしい。殺生なことだ。
ところで彼は、食わない犬だった。生まれたときからなにも食べていない。母から分娩されてこの方、肉の一片も口にしていない。乳も飲まなかったそうだ。飲まず食わずでありながら、勝手に成長して、勝手に大きくなった。母はたいそう気味悪がった。
食わない犬なんて犬じゃないよ、模範的雑食家である母犬はそう言って、すげなく彼を追い払った。彼もべつだん不服はなかった。そういうものかと思った。生まれたくて生まれたわけでもないし、食いたくなくて食わないわけでもなかったが、おまえの居場所はここではないと言われれば、別の場所を探すしかなかった。
それでまあ、彼は野犬のうろつく界隈に入り混じってそこかしこを歩いたわけだが、食わなければ死ぬというのが、他の犬どころか、他の生き物全般にも通じる鉄則であるようだった。実際、がりがりに痩せ細った死骸も目にした。犬のものも人のものもあった。
しかしどういうわけか、彼は食わないのに死ななかった。食いたくないと思っているわけではないが、食ってみたいとも思わなかった。隣を歩いていた犬が、肉のにおいによだれをたらして、たまらない、そそられるな、と同意を誘うように卑猥に笑ったが、なにも共感できなかった。彼は生来ぼんやりした質なので、欲望というものがあまりぴんと来なかった。おまけに極度のものぐさだ。食わなくて生きられるなら、食わなくていいではないかと、それなり放っておいたまま、気がつけば十年二十年と生きていた。
生きることの大半は、食うことに結びついている。彼は食わなくてよかったので、景色を見たり、においを嗅いだりしながら、ぼんやりとただ無為に過ごした。そうしていると、時間が過ぎるのも早かった。歳月が経っても、彼は老いを感じなかった。そのくらいの時が経つと、他の犬はたいていくたばるか、よぼよぼになるのが普通だが、彼は別段の変化もなかった。これも食わないためだろうか。食わない彼を気味悪がった母は、もうとっくに死んだだろうか。
そうこうするうち、人間が物騒になってきた。なんでも戦争が始まったという。群れ同士の大がかりな喧嘩だ。この辺の群れなす人間たちは、はじめはのほほんと楽観視していたようだが、街に爆弾が落ちるようにもなって、だんだん誰もが暗い顔をし、暗い声で話すようになった。
人間も食わなければ死ぬ。ところが最近は食うものが足りない。食うものだけではなく、着るもの、燃やすもの、ものはなんでも足りないようだった。で、犬を飼っている家は、犬を差し出せ、ということになった。毛皮や肉を役立てるそうである。彼は飼われてはいなかったが、たまに軒先で話したりじゃれたりしていた犬が、連れていかれてそのまま帰って来なかった。人と住んでると楽だよ、食い物持ってきてくれるんだから、そうのたまっていたデブ犬は、彼と同じくたいそうぼんやりした犬で、なかなか気が合うところがあったので、惜しいことではあった。彼も往来をぶらついていると、血眼で追いかけてくる人間によく出くわした。人間から逃げたり隠れたりしながら、なおもぼんやり過ごしていると、いつのまにか戦争は終わったようだった。
終わっても、食うものはやっぱり足りないようだった。駅のまわりには、野良犬みたいな浮浪児がさまよって、たまに死んでいることもあった。やっぱりがりがりに痩せ細っていた。
そのころ知り合った痩せ犬も、いつも餓えていた。おまえはいいよな、食わなくていいんだから、と、恨めしそうに睨まれた。殺伐とした眼の近寄りがたい犬だったが、なぜだか彼とは気が合った。食うことにぎらついている痩せ犬も、食わない彼には毒気を抜かれたのかもしれない。
おまえは、おれを意地汚いやつだと思ってるんだろうな、と、あるとき痩せ犬は自嘲するように言った。別にそんなことは思わない、彼はそう答えたが、痩せ犬はかぶりを振った。食わないおまえには、わからないだろうさ。食わなきゃ生きられない、おれの気持ちなんか。でも、食わないおまえだから、こうやっておれと友達になれたんだろうけど……。痩せ犬は皮肉げに笑った。
ほどなくして、痩せ犬はジープに轢かれて死んでしまった。してみると、目端の利きそうだった痩せ犬にも、どこかぼんやりしたところがあったのだろうか。いまとなってはわからない。
破壊されて瓦礫だらけだった街も、だんだんと復興がすすんできた。今度はまた別の大がかりな騒ぎが始まった。なんでも、オリンピックだということである。平和の祭典だそうである。そのわりに、やることは人間同士を競わせて、勝った負けたを楽しむらしいが、殺し合わないだけマシなのだろう。
で、外来の人が来てもみっともなくないように、とのことで、野犬が次々に毒殺された。客人をおもてなしするために、皿の内側を潔くするわけだ。人間は毒を盛るのがたいそう好きなようである。そんなわけで、往来から野良犬の姿は減っていった。食わない彼は、毒も逃れた。
これだけ長いこと生きていても、彼は相変わらずぼんやりしたままだった。生き甲斐も目的もない。食うためにあくせくすることもない。風に吹かれて、空を眺めて、四季をめぐる、そのくりかえし。生まれたくて生まれたわけではないし、生きたくて生きているわけでもないし、食いたくなくて食わないわけでもない。食わなくても生きられるから、ただ生きているというだけだ。
あの瓦礫の街が嘘だったように、墓石みたいなビルが林立し、歩く人間の服も派手になった。食うものも着るものも、有り余っているようだった。とはいえ、おこぼれにあずかれない落伍者はいつでもいるようで、家のない人間が橋の下でうずくまっていたり、やっぱり死骸は時おり見かけた。
あるとき、西から来たという犬から、地が揺れた話を聞いた。震災というものらしかった。彼は、生まれたばかりのころを、少しだけ懐かしんだ。西から来た犬は、崩れていく街から命からがら逃げて、ほうほうの体でさまよって、こんな遠くまで来てしまったわけだが、この街に来てからも、奇妙な風景に出会うことになった。なんでも、駅のまわりで人がたくさん倒れていて、救急車だのパトカーだの(かつて痩せ犬を轢いた自動車の仲間だ)、そういった車両が行き交い、人間たちがパニックを起こしていたという。駅のまわりで倒れている人間と聞いて、彼は以前に見た浮浪児の死体を思い出した。またぞろ戦争でも起こったのかと思ったが、そうではなく、人間が人間に対して、地下鉄とかいうもぐらの穴みたいな狭いところで、毒をまいたらしい。戦争ではないとのことだが、戦争みたいな風景だと思えた。
とはいえ、世情が殺伐としようが、人間が不安におののこうが、食わない彼には関係なかった。彼はなにとも関係がなかった。たまには犬と知り合い、語り、じゃれ合うこともあるが、食うために生きる他の犬たちは、食わない彼とは根本的にわかりあえなかった。彼もそんなことは期待していなかった。ただ、あるときとつぜん、彼ににじり寄ってくる、風変わりな牝犬が現れた。
牝犬は、彼が食わないことに興味を抱いたようだった。あなたは他の犬とは違う、そう言って、彼の後ろをついてまわった。食わないと知りながらも、自分の食い物を分け与えて、彼女なりの好意を示した。母からの愛情も受けなかった彼は、そんなふうになつかれたのは始めてだったので、だんだんと妙な気持ちがつのってきた。情感の乏しい彼らしくもなく、その牝犬のために生きるのも悪くないか、などと考えたりした。
とはいえ、やはり彼女も食う犬なので、最終的にはやはりわかりあえなかった。あなたは結局、と、牝犬は言った。生きていないだけなのね。
そうして牝犬はどこかへ去ってしまった。彼はまた、生き甲斐も目的もない無為な日々に戻った。腑抜けのような有り様だったが、ぼんやりしているという意味では、以前となにも変わりがなかった。ただ、傷口のない痛みが加わっただけだ。
あいかわらず、時は、ぼんやりと、ぼんやりと、うすぼんやりと、経っていった。彼はもう、ろくにものを考えないし、ろくになにかを想いもしない。気がつくと、生まれてから百年近くが過ぎていた。
そのぼんやりした日々のなかで、また地の揺れに出くわした。生まれたころの記憶が、否応なくフラッシュバックした。そして、自分の前から姿を消してしまった、母犬、デブ犬、痩せ犬、牝犬たちの記憶も。
揺れは、北の方ではもっとひどかったらしい。これもまた、震災と呼ばれる天変地異だったそうだ。学者に飼われている、物知りな犬から聞いたところによると、百年近く前の震災は火災がひどく、西で起こった震災は倒壊がひどく、北で起こった震災は津波がひどかったらしい。百年近く生きている彼よりも、その犬はよほど賢そうに見えた。自分の百年間はなんだったのだろう、と彼は思い、なにがおかしいのか、笑いがこみ上げてきた。
ぼんやりぼんやり、時は過ぎる。その震災からも、もう何年か過ぎた。近ごろもやはり、人間は暗い顔で、暗い声をしているように見える。それとも、それは彼のこころがささくれているから、そう見えるだけなのか。とはいえ、人間とは違い犬たちは、みんなのほほんとしているようにも見える。彼自身をのぞいては。
彼は、生を喪ってしまった。生きてはいたが、生きてはいなかった。食わない彼は、不死なのかもしれない。いくらでも長く生きられるのかもしれない。それでも、それは生ではなかった。死のない生に、意味はなかった。
暗い顔で暗い声の人間たちだが、近くまた、お祭りさわぎをするつもりらしい。なんでも、オリンピックだということである。平和の祭典だそうである。してみると、また犬が殺されることになるのだろうか。それとも人間は、半世紀ほどの歳月を経て、なにかが変わったのだろうか。彼とは違って、賢くなれたのだろうか。
とはいえ、それもあまり興味のあることではない。彼はもう、なにごとにもあまり興味がわかない。母犬を、デブ犬を、痩せ犬を、牝犬を、いなくなっただれかを、ぼんやりとぼんやりと思い浮かべては、懐かしさと痛みに耐えるだけだ。彼は、遅まきながら、死に魅かれていた。
きょう、彼は初めて肉を食べてみた。美味かった。
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