第7話
次の日の二時間目が終わった後の長い休みに、朋彦は教室を移動するために廊下に出た。階段を登り始めると、踊り場の向こうの折り返した高いところから身を投げ出す哉子の姿が見えた。
手前にはサッカー部の福田がいて、階段の折り返しの手摺ごしに何か渡しあっているようだ。哉子が身を投げ出した格好のまま、元気に朋彦に挨拶する。
朋彦は、いつもどおりになるよう挨拶を返す。階段の踊り場から二階を望むと、ちょうど下の男にモノを渡そうと投げ出された哉子の脚と、二階から降りてきた一年生の野球部が眼に入る(坊主だからそうわかるのだ)。
一年の野球部は脚を見てから、それを朋彦に見られていたことを知って、視線をあわてて前に戻す。
部活はこの日も遅番の日で、朋彦はランニングののち、手際良く体育館の更衣室に潜り込む。運動用のマットが重ねられており、そこでいつも通り本を読む。
読んでいる社会学に関する新書は、初めの方は目的や手法などがはっきりと示されており読みやすい。だがページも中盤から後半に差し掛かると、専門的な内容に踏みいっており、朋彦にとっては少々手ごわいものになっていた。
朋彦の読む大抵の書物がそうだった。だから朋彦は、自らの性質・性格が飽きっぽくて、読書の後半にダレてしまうのではないかとも思っていたし、あるいは大抵の人間がそうであるのかもしれないとも感じていた。こういうことは、友達には尋ねにくい事柄だ。あやふやな問い。
外は、今日は静かだ。
朋彦は、どうして《視覚透過装置》を家に持って帰って、どうして哉子のことを覗こうと思ったのか思い起こそうとしていた。余計なことを考えるものだから、読むスピードがより鈍くなる。本の中身が頭に入っていないままページをめくってしまい、元のページを開いて、三段落前くらいから読みなおす。
もう一度、と思って朋彦はまだらに覚えていたところを読み返す。こういうのは、一つ一つ積み重ねていかなくてはならない。飛ばしてしまっては、どこかで齟齬を来すのだ。数学の勉強と同じ。……と頭の中で考えていることに気づいて、朋彦はまた文章に集中できていないことを自覚する。
コト、と何かの音がした。視線をあげると、更衣室に少し入りこちらを覗いている女がいることに気がつく。
まぎれもない、森川芳野だ。
朋彦を覗く彼女には表情がないように見えた。いくら美しい芳野であっても、普段誰も来ないこの場所で黙って立っていては、驚かないわけはなかった。朋彦は小さく声を出してたじろく。
芳野はすぐに、相手を驚かせてしまったと気付いて、息をつくように小さく口を開ける。そして表情が戻り、いつもの学年一の美少女の立ち居振る舞いを取り戻す。バレーボールの練習着に上だけジャージを着ている。学年の色である赤色。
「ごめんなさい。驚かせてしまった」
「いや、大丈夫。……実際、驚いたけど」
「ごめんね」恥じらうように少しだけ眼を伏せて、手振りを加えて芳野は謝る。
「どうしたのこんなところに」
朋彦がそう尋ねると、芳野は朋彦のいるマットレスの所にとことこと近付いてくる。朋彦は先程の恐怖を少しだけ思い出す。
「あの、……荒木君はいつもここで本読んでいるよね?」
「うん」
いつも口角に笑みのようなものを帯びている芳野の表情が、再び何も無くなる。際立つ瞳の、その双眸を伏せる。
「もし違ったら、聴かなかったことにしてほしいんだけれど……。荒木君、《視覚透過装置》をここらへんで見なかった?」
「え?」
《視覚透過装置》についていきなり問われて、朋彦は言葉が見つからなかった。クラスの大人しい三番目のグループにいる芳野だったが、自分の武器については生得的にわかっているかのように朋彦には思えた。僅かに首をかしげてじっ、と朋彦のことを見つめる。そうすると、朋彦は嘘をついたりごまかしたりはとうてい出来ないように思えた。
しばらくの沈黙が芳野に確信をもたらした。
「荒木君、知ってるんだ」
「……サッカー部がこの近くの草むらに隠した」
「そう、それ」
そこまで聴いて、初めて芳野は更衣室の朋彦から見て右側にあるパイプ椅子に腰掛け、そして流れる仕草で左を上に脚を組み、「使ったの?」とクラスで話すようないつものような声色で尋ねる。
朋彦は言葉を選ぶために黙っている。黙って前を見ている。芳野は芳野で目の前の何もないところに視線を移す。
ついに耐えきれなくなって、朋彦が「一回使った」と言って、芳野の方を見る。
芳野は可愛らしく微笑んで朋彦の方を少し向いて、また眼を朋彦とは逆の方に逸らして伏せる。芳野が先程からなにかもじもじしているのに朋彦はやっと気づいて、色々尋ね返すことにした。
「ええと、森川さん。どうして森川さんこそ《視覚透過装置》のことを知っているの?」
「あ、あのね。あれをサッカー部の人たちから見えないように隠したのは私なんだ」
「どうして?」
芳野は黙ってしまった。朋彦は悪いことをしてしまったと何故だか感じて「言いにくいことだったら……」と言葉を添える。 芳野はそれを聴いて、首を振る。セミロングの髪が愛らしく振るう。
「荒木君は、私が隠したのを見てたわけじゃないんだよね?」
「うん、サッカー部が窓の外で探しているのが気になって、いなくなってから調べて見つけた」
「そっか」
芳野は視線を真っすぐ壁に向けたまま語る。
「私と川上君が付き合ってるのは知っているよね」
「うん」
「川上君と付き合う前、サッカー部の卒業した先輩から何回か付き合わないかって言われて。それで断っていたんだけれど、川上君と付き合うようになってからサッカー部の人からいたずらをされるようになった」
「いたずら?」
「深く聴かないでほしい。靴とか、鞄とかに、ね」
「なんていうか、大変だね」朋彦は語調に気をつけて言葉を発した。
「それで、そういうのって部活の練習前にやられたりするから、一昨日もサッカー部の人たちが集まって何かしそうな感じだったからこっそり跡をつけたの。そしたら火事のあった倉庫から《視覚透過装置》を持ってきたのが見えて……私、とっても嫌な心地がして。それでサッカー部が練習前にそこの茂みに隠したのを、場所を移してわからないようにしたんだ。遠くへは運べなかったんだけど」
「そっか。だからサッカー部は茂みを探してたんだ」
「そう。それに気付いた荒木君が《視覚透過装置》を持って帰った。彼らが使うことはなかった。それで……お願いがある、の」
「なに」
「私に《視覚透過装置》を使わせてほしい」
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