そして戦いの果ての地で……
寸陳ハウスのオカア・ハン
1.名を捨てた聖女
朝、子供の声で目が覚めた。
笑顔が朝陽にきらめく。私が「おはよう」と言うと、また笑顔が弾けた。
出産後の日々はあっという間だった。腹を痛めて産んだ命は、胸に抱いていた小さな体は、乳離れしたと思ったらいつの間にか一人で歩くようになっていた。まだ言葉こそ出ないが、澄んだ瞳から伝わるその思いには、日々驚かされてばかりである。
着替え、朝食の準備に取りかかろうとしたとき、誰かが家の扉を叩いた。
よく知った声が私の名を呼ぶ。しかし名前の違和感はまだ拭えなかった。
家の扉を開け、隣人を招き入れる。一振りの剣を佩いた、男と並んでも劣らぬ体躯の女性が、小さく一礼し笑顔を見せる。
朝食を作る間、訪れた隣人に子供の面倒を見てもらった。
かつて命を懸けてこの身を守ってくれた隣人の背中は、新たな生活を送るうえでとても大きな支えだった。彼女はかつては聖女に仕える騎士だった。彼女は戦場で剣を振るって戦い、血みどろの負け戦を生き延び、共に敵国の捕虜となった。そして今もこうしてそばにいる。
ありがたい反面、申し訳なくも思った。戦後、ほとんどの捕虜は交渉により帰国したし、彼女にもその選択肢はあった。それなのに彼女は主従の誓いに殉じた。己の全てを犠牲にして、もはや何者でもなくなった私のそばに残る道を選んだ。
強き北風が吹き荒ぶ戦場を共に生き抜いた。今、互いの古い名を呼ぶことはない。時は移ろい、すでに新たな人生を歩んでいる。
窓辺の朝陽が眩しくなるにつれ、街の雑踏が賑やさを増していく。
宮廷での生活とは比べるべくもない、庶民の生活である。家は粗末で、侍女や使用人などいない。料理は自分で作るし、労働もする。子供の父親から生活に困らないだけの資金援助はあるが、身籠って以降は会っていないし、恐らく今後も会うことはない。もちろん周りの手助けはあるが、この状況で子供を育てるには自分自身の力で生きていかねばならない。
戦後、私は敵国の判断により公的には死んだとされた。同時に、故国の聖女の席からは名を抹消された。ただの傀儡ゆえに、故国に帰っても敗戦責任を問われ処刑されるのは目に見えていたので、結果的には敵国に助けられた。
死に、名を捨て、そして子を産んだ。
敵国だった地での出産と子育てに抵抗はなかった。かつては神の御名の許、意味も考えず故国の正義と大義を唱え、敵国の悪逆無道を非難するプロパガンダを民衆に焚きつけてはいたが、結局のところ主義主張など後づけに過ぎず、闘争に理由などないことをある時点で理解した。何より、出産後は余計な思索に耽る間もなかった。
朝食を作り終え、三人で食卓を囲う。嬉しそうにはしゃぐ子供をあやしながら、形式として神への祈りを添える。
言葉はなかった。やはり神の名は忘れてしまった。
かつて私は聖女の一人として声高に神の名を称え、人々にその教えを説く信仰の象徴であった。しかし私はその意味すら考えたことのない、高位聖職者の傀儡でしかなかった。やがて戦争が始まると、私は自らの名を冠した遠征軍の旗印となり、軍を率いて敵国へと攻め入った。だが結果は大敗し、捕らえられた。
血みどろの北風が吹き荒ぶ戦場で私は必死に祈り続けたが、しかし神の奇跡はついに起こらなかった。神は勝利を約束するどころか、夥しい破壊と殺戮をもたらしただけで、挙句誰も救いはしなかった。そして戦いの途中で私は信仰を捨てた。
言葉なき神への祈りが終わる。子供がまたはしゃぎ出し、食卓に明るい色を灯す。
子供の笑顔を見るたび、戦場の死が脳裏を過ぎる──多くの死を見た。敵も味方も、誰もが大切な人を失った。そして多くの犠牲の上に、この命は生かされた。
人はいつか死ぬ。全てのものに終わりはある。やがて時は流れ、焼きついたこの戦いの色さえもいつかは薄れてしまうのかもしれない。そこで確かに生きていた人々の意志も、いずれ語られることもなくなり、どこかに消えてしまうのかもしれない。
ふと、あの戦いは何だったのかと考えた。考えたが、やはりその本質が何たるかを真に理解できることはないように思えた。
聖女としての私は死んだ。しかし私は生きている。確かに生きた者たちの名と共に、新しい命と共に、これからも……。
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