聖域

 三学期が終われば春休みを経て二年生になる。「来年も同じクラスになれたらいい」という類の声を何件か聞きはしたが、文理でクラスが別れる為どう願っても同じクラスになれない者たちもいる。

 そういった事情もあって終業式終了後にクラス会のようなものが自然と催される流れとなり、お誘いを受けて響樹も参加した。吉乃のクラスでも同様で、彼女も参加したそうだ。


 その為響樹が吉乃の部屋を訪ねたのは互いの夕食が済んだ後。

 明日からは春休みであるので今までよりも多く時間を共にできるのだが、それでも一年生最後の日という事で――そうでなくともではあるが――響樹は吉乃と過ごしたかったし、吉乃も響樹に訪ねて来てほしいと要望を口にした。


 会える時間はそう長くないが、それでも会いたいという思いを共有できる事が嬉しい。そんな風に少し浮ついた自分に気付き、響樹は玄関のチャイムを鳴らす前に意識して顔を引き締めた。しかし――


「……いらっしゃい。こんばんは、響樹君」

「ああ。こんばんは、吉乃さん」


 ドアを開けてくれた吉乃の様子が普段と違う。

 響樹の顔を見てから口を開くまでが少し遅かったし、僅かに染めた頬と浮かべられたはにかみは、何かがあるのだろうと察するには十分だった。


「お邪魔します」


 いつもよりも響樹をちらちらと窺う吉乃を見て微笑ましい気持ちになりながら上がらせてもらい、そのままいつものようにソファーへ向かおうとするが、そんな響樹の手にやわらかなものが触れた。

 早速切り出してくれるのだなと思いながら「どうかしたか?」と尋ねてみれば、吉乃がまっすぐに響樹と目を合わせ、両手で包んでいた響樹の右手から片手を離し、指先まで綺麗に伸ばした手のひらを見せる。


「今日は、あちらでお話しませんか?」


 先程までよりも顔に熱を集め、僅かに瞳を潤ませ、リビングの側面にあるドアを示しながら。

 説明を受けた事は無かったが、そのナチュラルブラウンの扉がどこへ繋がるかは当然分かっている。


 即答をしたかったが上手く言葉を出せなかった響樹はどんな表情をしていたのだろうか。吉乃はこちらを見て口元を押さえながらふふっと笑った後、小悪魔の笑みを浮かべてみせた。


「来てくれないと、優月さんに先を越されてしまいますよ?」

「……それは嫌だな」


 響樹としては本来そこの順序にこだわりはないのだが、吉乃は響樹を一番に招きたいと思ってくれた。だから、今となっては一番以外を受け入れるつもりはない。

 苦笑してみせながら「案内してくれ」と伝えると、吉乃は「はい」と顔を綻ばせて響樹の手を引いた。


 何度も響樹を振り返りながら進む吉乃、見せてくれる愛らしい微笑みとは裏腹にやわらかな手からは緊張が少し伝わる。

 リビングから目的地まではほんの数メートル。それなのに吉乃の歩みはゆっくりで、それがまるで焦らすかのようで。だからきっと響樹の手からも彼女に緊張が伝わったのだろう、振り返った吉乃が嬉しそうに頬を緩め、繋いだ手に少し力を込めた。


「緊張していますか?」

「するに決まってるだろ」


 ほんの少し眉尻を下げながら首を傾げた吉乃は、「私もです」とどこか嬉しそうに微笑み、「では」とドアのハンドルに手をかけた。

 一刻も早く中を見たい気持ちを抑え、ゆっくりと開かれるドアを尻目にはにかみを浮かべる吉乃と目を合わせ続け、彼女の「どうぞ」の言葉を待って一歩、足を踏み入れた。


「吉乃さんらしい部屋だな」


 ほのかに甘い花の香りも、モノトーンを基調とした落ち着いた雰囲気もリビングまでと同じ。

 異なるのは配置された家具の種類。ソファーとテーブル、テレビなどの置かれたリビングとは違い、こちらの部屋には机や本棚などが配置されており、吉乃の私室なのだという意識が強まる。


 そしてそれだけでなく、どうしても目に入ってしまうベッドとタンス。響樹のように1K住まいならば客を招く空間と一体ではあるので意識しなかったのだが、当然ここは吉乃の寝室も兼ねている。

 寝室を兼ねる私室に招かれたという事はつまり、一歩吉乃のプライベートに踏み込んだ事を意味するのだと、その認識が響樹の心を逸らせた。吉乃らしい部屋だと言った言葉に嘘は無いが、その吉乃らしい空間がどうしても彼女の生活を想起させ、響樹の平静を乱す。


「ありがとうございます。そう言ってもらえてホッとしています」


 一歩遅れて入って来た吉乃は緊張を解いたようにやわらかな笑みを浮かべ、「嬉しいです」とドアを閉め、再び響樹の手に両手を重ねた。それが余計に心拍を上げる。

 隣まで歩を進めた吉乃はそんな響樹を見上げ、気付いたのだろう。くすりと笑って小首を傾げた。


「響樹君、先程までより緊張していませんか?」

「するなって言うのも無理な話だろ」

「響樹君のご実家を訪ねた時の私の気持ちが分かりましたか?」

「多分……少しは」


 言われてあの時の吉乃の様子を思い出し、なるほどなという気持ちを抱く。頭では理解したつもりでいたが、実際に経験してみれば中々冷静でいられないものだ。


「あ、すみません。こちらにはソファーがありませんので、そうですね……すみませんが一緒にベッドに座りませんか?」

「……わざとらしい」


 意趣返しのつもりなのだろう。いまだ落ち着けないでいる響樹に小悪魔の笑みを向けながら吉乃は響樹の手を引く、彼女のベッドの方へ。まるでホテルのベッドメイクのようにパリッとした仕上がりなのは吉乃の性格故なのだろうが、ただでさえも意識させられている状況ではそれがより抵抗感を増す。


「あー……あれ」

「……ええ。私の宝物です」


 何か誤魔化せないかと視線を動かした先にあったのは、吉乃の机の上に飾られたクリスマスツリーとプリザーブドフラワー。どちらも響樹が贈った物だ。

 響樹の視線を追った吉乃は優しく目を細め、響樹から手を離してクリスマスツリーを撫で、しなやかな指で小さなベルをそっと鳴らした。


「大切にしてくれてるんだな」

「ええ、それはもう」


 ツリーから視線を響樹に移した吉乃はやわらかな笑みを浮かべる。


「ありがとう、吉乃さん」

「こちらこそですよ。ありがとうございます、響樹君」


 そう言って濡羽色の綺麗な髪を揺らした吉乃に、今度は何を贈ったら喜んでくれるだろうか。恐らく彼女の次の誕生日になるのだろうが、それが悩ましい。それなのに、楽しみで仕方がない。

 そんな事を思いながら机から戻って来た吉乃の髪にそっと触れると、彼女はくすぐったそうに目を細め、「響樹君」と囁くような声を出し、響樹の手を取った。


「続きは座ってからしてください」

「……はい」


 ニコリと笑う吉乃に今度こそ逆らいようがなく、響樹は覚悟を決めて頷いた。

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