第13話 約束と信用と、賞賛と靄と

 あの後の買い物の最中も吉乃は「カラオケ」と何度か小さな声を出した。恐らく本当に無意識だったのだろう、響樹が視線を向けても「どうかしましたか?」と不思議そうな顔をしているくらいだった。

 これが目に見えてウキウキしているようなら響樹もからかいを口にしたのかもしれないが、初めて行くテーマパークを楽しみにする子どものような吉乃にそんな事を言うのは憚られた。


 そんな風に前日の事を思い出していた響樹のところに、自分の席に荷物を置いた海がやって来る。


「よう」

「ああ」


 まだ空いている響樹の隣の席に腰を下ろした海と短い朝の挨拶を済ませたが、「よう」のたった二文字でさえ声が少しかすれているのがわかる。


「ダメだったみたいだな」

「ああ。優月が張り切ってた。もう痛みは無いんだけどな」


「あいつは全然平気なのにな」と苦笑いを作った表情には、それとは違う感情が浮かんでいた。


「そう言えばカラオケって駅前のとこか?」

「いや、反対方向だな。優月の……優月がクーポン持ってたから」

「へえ。そっち方向にもあったんだな」

「ああ。駐車場付きで、客層的にはそっち向けなんじゃないか」

「なるほどな」



「という事で場所はここでどうだ?」


 放課後、前日の段階で図書室にいると聞いていた吉乃の元を訪ねてスマホを見せた。画面上のマップに表示されているのは海が言っていたカラオケ店。


「駅前に行くよりはちょっとだけ近い」


 響樹の家と高校は最寄り駅の南側にあり、カラオケ店は高校から更に南下していった辺りにある。響樹のアパートからならば通学とさほど変わらない距離になるし、恐らく吉乃の家からもそうだろう。

 更に言えば駅周辺よりも同じ高校の生徒に会う確率はだいぶ小さくなるだろう。吉乃にとっても響樹にとってもその方が都合はいいはずだ。


「私は付き添いなので、天羽君が行きたいお店に付いて行きますよ?」

「……そうだったな、じゃあここで」

「ええ」


 あざとく可愛らしい表情を作った吉乃に、そう言えばそういう設定だったなと思い出す。その言葉を口にする前に響樹のスマホをじっと見つめていたのは見ていなかった事にしてやろうと思い、スマホをしまった。吉乃ならばもう覚えた事だろう。


「日取りはいつにしますか?」

「そっちの都合に合わせる。一緒に来てもらう訳だから」

「そうですね、それでは」


 そう口にした響樹にふふっと笑い、吉乃が鞄から取り出した手帳を開く。

 パステルピンクでありながら落ち着いた形状の手帳。吉乃以外の女子も似たような物を使っていたのを見た事があったような気がする。

 いつも図書室にいるらしい吉乃にスケジュール帳の必要があるのかと、一瞬そんな失礼な――しかも自分を棚に上げた――事を考えてしまったのだが、どこか楽しそうにペンを持ち替えた彼女を前にそんなものは追い出した。


「平日の放課後は夕食の支度もあるので避けたいのですけど、土日は空いていますか?」

「どっちも空いてるな」

「それでしたら……日曜の午後からで構いませんか?」


 広げた手帳の後ろから覗いたどこか遠慮がちな上目遣いの視線。しかし昨日のようにおずおずとしたものではなく、楽しみだという感情が伝わってきて可愛らしいなと思った。


「ああ、それでいい」

「食後すぐに歌うのはあまり良くないそうなので、14時くらいでいいでしょうか?」

「了解」


 頷いた響樹に目を細め、吉乃は片手で持った手帳にサラサラとペンを走らせた。その様子が楽しそうで微笑ましく思う。


「じゃあ14時現地って事でいいか?」

「ええ、わかりました」


 そう言った吉乃はふふっと笑い、何故かまたペンを持ち替えてこれまた楽しそうに手帳に書き足していた。


(時間と集合場所で色分けしたのか?)


 授業中に板書を写す時なども男子に比べて女子はペンをよく持ち替えており、色分けに対して拘っている印象がある。

 吉乃もそうなのだろうか。貰った献立表は割とシンプルな色使いで書かれていたので少し意外だった。


「あとは、そうですね。連絡先の交換をしておきましょうか」

「……いいのか?」

「天羽君は変なところに気を遣い過ぎです」


 突然の言葉に反応が少し遅れた響樹に、吉乃は肩を竦めて小さなため息をついた。


「待ち合わせをする以上相手の連絡先を知っておくのは当然の事でしょう? 不測の事態が無いとも言えませんし」

「まあ、そうなんだけど……」

「私に合理性を説いた人とは思えませんね」


 別に響樹は女尊男卑思想など一切持っていないが、個人情報に関する諸々のリスクは女性の方が大きいとは思っている。

 しかも吉乃だ。連絡先を知りたいと思う人間は数多くいるだろうし、だからこそ響樹が軽々に聞いていいものかと考えてしまうのだが――


「そもそも、連絡先を教えたくない相手とカラオケになんて行きますか?」

「……ごもっとも」


 眉根を寄せて唇を僅かに尖らせながらも、吉乃が口にしたのはまたも響樹への信用を表す言葉。

 女子と連絡先を交換した経験など無い響樹からすれば慎重になって仕方ない行為ではあるが、吉乃を侮ってしまったように思えて恥ずかしくなった。


「悪かった」


 素直に頭を下げると、「それでいいんです」と満足げに笑った吉乃が白い手帳型のケースに入れたスマホを取り出していた。

 響樹も慌てて鞄からスマホを取り出すと、その様子を見てか吉乃がくすりと笑い、バツが悪い。


「そ、れじゃ、俺は帰るから。勉強中に邪魔して悪かった」

 

 女子と初めての連絡先交換を終えたせいで上昇した心拍ゆえか感情の振れ幅故か、もつれそうになった舌を無理矢理働かせて誤魔化すように言葉を発した。そんな響樹に吉乃はまたもくすりと笑う。


「前の時もそうでしたけど、天羽君に謝ってもらう理由がありませんよ。邪魔だなんて思っていませんから」

「それでも時間使わせたのは事実だからな。点数が落ちたなんて言われたら困るだろ」

「落としませんし、仮に落ちたとしても人のせいにはしませんよ」


 吉乃が口元を押さえてふふっと笑う。やわらかな笑みには自信の色が見えた。


「点数と言えば天羽君。試験、凄かったですね。順位もそうですけど、一度の試験で15点上げるのは中々大変だったでしょう?」

「順位表見たのか。別に、運が良かっただけだから」

「それでもですよ」

「それでもまだ50点近く差がある奴に褒められてもな」


 僅かに目を細めた、嬉しそうに見える吉乃からの褒め言葉に、響樹は肩を竦めながら軽口で返した。吉乃はそんな響樹に「天羽君は素直じゃありませんね」とほんの少し楽しげに笑う。

 そう、響樹は素直に受け取れない。吉乃の言葉に嫌味が無く純粋な賛辞だという事はわかるし、自身の感情として嬉しい自覚は大いにあるのにだ。

 その理由は照れ隠しなのかと最初思ったのだが、多分違うと気付く。何故かもやもやとした感情が胸を覆っている、理由こそわからないがそれを自覚した。

 だが結局はその根源がわからず、響樹は軽く頭を振った。


「まあとりあえずだ。日曜の14時、よろしく頼む」

「ええ、楽しみにしています」


 言葉だけでなく表情もそう言ってくれている吉乃を見て、靄が晴れたような感覚を覚えた。自分が何を気にしていたのか結局わからなかったが、今気にするべきは週末の事だろう。


「ああ、それじゃあな」

「ええ、また」


 軽く手を挙げた響樹に対して、吉乃はやわらかな笑みを湛えながら軽く頭を下げ、濡羽色の美しい髪を少し揺らした。

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