両手で掴むもの

「……森林領を出るか?」


 ダンがそう切り出したのは、アーシュさんが帰った次の日の夕食の時だった。


「…………え?」


 まさか、このタイミングでそう切り出されるとは思っていなかったので、ポカンと口を開けてダンを見つめる。


「今は外に見張りがいるが、逃げるなら手段はなくもねぇ」


 ……逃げる? 


「…………あ……」


 思ってもいなかったことを提案されて、咄嗟に頭が回らず、目を見開いて無意味に口をパクパクさせる。


「ここにいるとまた狙われるだろう」


 続けられたダンの言葉にビクリとする。

 そうだ。今回の誘拐事件は確実に、わたしがお城にいると分かった上で起こったのだ。お城の方はアンドレアス様がいろいろ動いてくれているが、この家が見つかるのも時間の問題で、ここで攫われて一気に森に入られてしまったら、きっと今度は逃げられない。3月の契約が終了すれば家に戻るのだ。危険が増すのは目に見えている。


「……名前を変えれば、まだ他所でなら普通の生活もできるかもしれねぇ」


 普通の生活という言葉に心が揺れる。


 ……元に、戻れる? 


 また、ダンと2人だけの生活に戻れるのだろうか。穀倉領での生活のように、ただ楽しいだけの生活に戻れるだろうか。


「ただ、神呪はもう描けねぇ」


 ダンの言葉にハッとして視線を上げる。

 ダンの表情は静かで、答えを迫る様子はない。ただ、淡々と、現実の話をしているだけだ。


 ……神呪が、描けなくなる。


「まぁ、お前なら神呪がなくても他に何か食ってく手段は見つけられるだろうけどな」

「食ってく手段……」


 森林領に来た頃は、神呪を全然描いていなかった。それでも、木の実のハチミツ漬けを作ったりクレープを作ったり、神呪が必要ない方法でお金を稼ぐ手段を見つけることができていた。

 あの頃に、戻るだけだ。


「でも……」


 あの頃に戻るだけだと頭では分かっていても、心が抵抗する。ここ数ヶ月、毎日神呪に触れていたので、それを手放すことを想像することができない。


 ……読めない本を読むことも、礼儀作法のお勉強も、必要なくなる。でも、ハチミツ商品の納品は? コスティは? クリストフさんやヴィルヘルミナさんも……。


 そこまで考えて、ようやくヴィルヘルミナさんのことに思い至る。わたしを連れて逃げるということは、ヴィルヘルミナさんとはもう会えなくなるということだ。


「ダンは……いいの?」

「あん?」

「……ここに来たのは……何か理由があったんじゃないの?」


 ……ああ、もう!


 どうしてもヴィルヘルミナさんのことをストレートに聞けない自分のヘタレっぷりに、内心で罵倒する。なんだかペトラに似てきたかも知れない。


「ああ、まぁ……いや。もうそれはなくなった。オレの方は特に問題ねぇ」

「問題……ないの……?」


 ダンの言葉に咄嗟に喜んで、すぐに自己嫌悪する。ヴィルヘルミナさんは悪い人じゃないのに。むしろすごく、いい人なのに。どうしても、ヴィルヘルミナさんを排除したがってしまう。こんな考えは、嫌なのに。そんな考えで頭をいっぱいにしたくなんてないのに。


「ああ。お前がどうしたいかだけだ」


 ……わたし自身が、どうしたいのか。


 考えるまでもなく、一番に出て来るのはやっぱりダンと以前のように暮らしたいということだ。わたしは今でもやっぱり、ダンに甘えて、何も考えずに暮らしたいのだ。せめて成人するまでの間だけでも。


「……神呪を描かなければ、危険なことはなくなる?」


 ダンにべったりよりかかって、嘘を吐いたり人を疑ったり、考えなければならない重い苦しいものが、なくなるだろうか。


「……分からねぇ。お前の情報がどこまで知られてるのか分からねぇからな。穀倉領でも森林領でも……たとえ神呪がなくてもお前は目立つ。目立った末に、お前がランプを作った奴だと結び付けられる可能性はなくはない」

「でも、成人くらいまでは持つ?」


 ……わたしがもっと大きく強くなって、重いものも苦しいものも、ちゃんと自分で背負えるようになるまで。


「かもな」

「……そうやって生活して、わたしが成人したら……ダンはどうするの?」


 ……わたしはあと、どれくらいダンに甘えることが、許されるんだろう。


「さぁな。そん時に考えるが……まぁ、お前のことは心配だからな。近くにはいるだろ」


 ダンの言葉に息を飲む。嬉しくて、胸が詰まる。だって、ダンはずっと一緒にいてくれるつもりなのだ。

 もしかしたら、近くにはいるけれど、ダンは結婚しているかもしれない。子どもができたりもするかもしれない。そうして、わたしだけに構っている暇はなくなってしまうかもしれない。でも、わたしのことも、ずっと見守ってくれるつもりでいるのだ。


 ……ダンは、手を離したりしない。


 いつか、クリストフさんが言っていた言葉を思い出す。


「ダン…………、わたしね。アンドレアス様に、追う側に回れって言われたの」

「ああ」


 その言葉の意味を、ダンはすぐに察したようだった。そもそも、わたしに多くのものを見て学べと言った時点で、ダンも同じように考えていたのだろう。


 ……追われる立場をどこかで入れ替えて、追う側に回らなければならない。


 わたしが自由を手にするために、必要なことだ。


「追う側に回るために、力と知識を身に付けろって」

「……そうだな」


 ダンがしっかりと掴んでいてくれるのなら、わたしは安心して両手を空けられる。しがみ付いていなくても放り出されたりしない、その安心を、ダンはわたしに与えてくれる。


「……わたしね、街灯を作りたいんだ」

「……ん? ああ」


 それなら、わたしは空いた両手を目いっぱい伸ばして、たくさんの人や物に触れることができる。自由に、知識や経験に触れられる。だって、いつだってダンの元に戻って来られるのだから。


「作ってしまったら、もしかしたら今よりもっと目立っちゃうかもしれない」

「そうだろうな」


 目立つことは危険だが、街灯を作ることは森林領にとっても必要なことのはずだ。きっと出来上がるまでは、アンドレアス様が守ってくれる。アンドレアス様は、ちゃんと領民のことを考えてくれる領主だ。そもそも、きっともう事態が大きくなり過ぎて、ダンだけの手には負えなくなってきている。だから、あの光の中で、迎えに来たのはダンじゃなかったのだ。


「でも、街灯ができるといろんな人が助かると思うの」

「そうだな」


 ヒューベルトさんが迎えに来てくれた時の、あの暗く凝った闇を砕くような光を、みんなにも届けたい。光があるだけで、人の心はあんなにも希望を見出す。わたしはいつだって、誰かの助けになる神呪を考えたいのだ。


 一つ、深呼吸する。例えダンの手が及ばなくなって、わたしを守る人がダンじゃなくなったとしても、それでもダンはいつだって、私の保護者だ。


「ダン。わたし、ここに残る。残って街灯を作る」


 今みたいに離れ離れになってしまっていても、ダンがどこかで見守ってくれていると分かっているならば、わたしはそれに支えられる。どこへ行っていても、結局帰る場所は、ダンの元なのだから。

 

 ……わたしだって成長した分、できることが増えている。


 わたし自身が何とかできなくても、何とかできる力を持った人たちと、知り合うことができた。穀倉領にいた時にはなかったものだ。わたしにだって、できることがある。


「とりあえず、アンドレアス様を脅して護衛を増やしてもらえばいいかな?」

「………………脅すなっ。普通に頼め」


 久しぶりに頭をスパーンと叩かれた。






 それから数日、わたしは家から一歩も出ずに過ごした。それこそ、ランプを作った時以上の集中力で神呪と向き合った。いや、正確には、神呪のために古代文字と向き合った。


「アキ殿、姿勢が崩れている」


 ヒューベルトさんとリニュスさんは交代でやって来て、わたしの監視兼護衛兼手伝いをしてくれる。ヒューベルトさんの監視の仕事の中には礼儀作法の監視も含まれていると思われる。自主的に。


「ヒューベルトさん。この文字ある?」


 わたしが指した文字を辞書で探すヒューベルトさん。武官も一応筆記のテストがあるらしく、ヒューベルトさんもリニュスさんも辞書を引くのに慣れている。


「…………ないな」

「またぁ~?」


 ……ペッレルヴォ様、ホントに研究してたのかな? 


 今のところ、辞書はほぼ役に立っていない。


「ハァ。ええーっと…………渡す……? 託す? 与える?」

「どれだ?」

「うーん……一応、託すと与えるの両方書いといて」

「了解」


 2人の手伝いは、わたしの解釈を辞書に書き込む手伝いだ。1人で読んで調べて考えて書いてを繰り返していたら信じられないくらい効率が悪かったので、手伝ってもらうことにした。どうせわたしはこの部屋からほとんど出ないのだ。そうそう危険なこともなく、2人とも暇そうだったのでちょうど良かった。


「…………そういえば、ペッレルヴォ様なんて言ってたんだっけ……」

「たしか、準備されたものを使うのがどうとか仰っていたぞ」

「……準備されたもの…………」


 準備してないものを使うということだろうか。そういえば、その後に見せられた一文は、何かが土の中から生まれるというような文章だった気がする。ペッレルヴォ様は作ると解釈したと言っていたが、作ると生まれるだと、誰が、の部分が全然違う。


「土から生まれる…………土…………金属?」


 そういえば、火山領では宝石が採れるのだったか。


「物って、どうやってできるんだろう?」


 考えてみたら、砂糖とか塩も、石から採れる。砂糖石と塩石は世界中どこででも採れるものだが、採れる場所が決まっていて、それ以外の場所には出てこないそうだ。そういう場所があちこちに点在していて、どれだけ採っても、すぐにまた増えるのだと聞いた。だから、重くて運ぶのが大変なのにも関わらず値段が安く、採集して来る仕事は貧民しかやらないのだそうだ。


「塩石が採れる場所に行ってみたいなぁ……」

「うーむ。どこで採れるか、クリストフ殿に聞いてみると良いかもな」


 明日はもう都の日なので、行くなら明日しかない。今日中にクリストフさんに聞きに行かなければならない。


「ん~…………ううん。それはお城に戻ってからでいい。ラウレンス様に聞けば、何か知ってるかもしれないし」

「そうか」

「うーん……土から生まれる、かぁ…………。そういえば、水はどうだろうなぁ……」

「水? そういえば、森に迎えに行った時に噴出していたあの水はなんだ?」


 ヒューベルトさんが思い出したように顔を上げた。


「ああ、あれは地下の水管から直接水を吸い上げる神呪なんだよ」

「水管から直接?」

「うん。動具を地面に直接付けるとね、その延長線上にある水管の水が真上に…………」

「……どうした?」

 

 急に固まったわたしにヒューベルトさんが怪訝そうな顔をする。目の前で手をヒラヒラされるけど、そんなもの、意識に入って来ない。


「なんで、必ず水が出るんだろ……」

「は? ……そういう神呪なのだろう?」

「そうなんだけど……だって、水がないと出るはずないんだよ」

「水管から引き出すのだろう?」

「そうなんだけど…………」


 この違和感をヒューベルトさんに伝えるのが難しい。そもそも、そんなことができること自体が不自然なことだと、神呪師なら自然に分かるのだが、神呪師じゃない人には分かりにくいかもしれない。


「……ラウレンス様って領都に住んでるんだよね…………」

「いや、私は知らんが……」

「たしか、雑貨屋さんなんだよ」

 

 以前、クリストフさんと領都に行った時に偶然バッタリ出会ったあの雑貨屋さんが、ラウレンス様のお家のはずだ。


「明日は都の日だよね」

「そうだな」

「ラウレンス様、きっとお家にいるんだよ」

「まぁ、休日だからな」


 生真面目なヒューベルトさんがいちいち真面目に頷く。


「よし、明日は領都に行こう!」

「は?」


 そうと決まれば早く寝よう。冬なので、領都へは馬を飛ばしてもらっても鐘一つ分以上かかる。寒いからスピードが出せないのだ。


「明日は始めの4の鐘で出ようね!」


 ラウレンス様と一緒に考えれば、何かいいアイディアが浮かぶかもしれない。


 ……周囲と協調ってやつだね。アンドレアス様に報告して褒めてもらおう!





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