ジ・インジニアス・ミスターフェアチャイルド  作・網代陸

※この小説は同誌に掲載されている「ブルーヘブン」という小説の続編です。未読の方は必ず、先にそちらをご一読ください。




 *****




 俺が青峰との再会を果たしたのは、あれから二十一年後で、俺が三十歳のとき、つまり今年の出来事で、もっと言えばそれは今日の出来事だった。




「木寺公平さんですか……?」




 ガソリンスタンドで働いていた俺に、小柄な女性がいきなり声をかけてきたのだ。周囲には、ほかの人はいなかった。


「は、はい。そうですけど……」


「あの、覚えてますか? 私、青峰です。青峰幸子」


 正直に言うと、はじめ、すぐにはその名前を思い出すことができなかった。だけど、青峰という名字を頭の中で反芻するうちに、ぼんやりと記憶が戻ってきた。


「ああ……! 小学校の時の!」


 俺がそう答えると、彼女は微笑みを返してくれた。どこか憂いを帯びたような、色っぽいその笑顔に、俺は不覚にもきゅんとしてしまう。


 だけど、俺は次の瞬間には我に返っていた。見知らぬ女性と仲良く話しているところを職場の仲間に見られでもしたら、たまったものじゃない。


「あの、俺、あと一時間で仕事上がれるんで、都合よかったらそのあとでお話しませんか! 近くに喫茶店あるので、そこででも!」


 青峰は、少し考える素振りを見せた後で、「分かりました」と言って、また微笑んだ。




 青峰が喫茶店の方へ歩いていく後ろ姿を見ながら俺は、ゆっくりと当時のことを思い出していた。


 母親からひどい虐待を受けていた俺は、近隣住民の通報によって、小学三年生の時にその地獄から逃げ出すことができた。そして、その地獄のような日々を過ごしたあの町を出るその日に、俺が告白したのが、青峰だった。


「そうか、あの子か……」


 どこか自分と似た瞳を持っていた彼女のことを、俺は一年生の時からずっと好きだったんだ。


 だんだんと、記憶がはっきりしてくる。そうだ、確か青峰も親から虐待を受けていて……。あれ、そんな事実を、俺はどこで知ったんだったか……。それに、俺は最後にあの子に何かを残していったような気もする。それは何だっただろうか……。


 ピースの足りないパズルと格闘していると、終業の時間になったので、俺は急いで準備をし、喫茶店へと向かった。




 *****




「改めて、お久しぶりです」


 青峰は、俺の目の前で、丁寧に頭を下げた。


 そんなにかしこまった態度を取られると、こちらも困ってしまう。俺の知っている青峰幸子ではないみたいだ。


 だが、それも当然だと思えた。二十一年の歳月がたっていることは勿論だが、それ以前に俺は、つい先ほどまで彼女のことなど、記憶の片隅にも置いていなかったのだから。


「いや、こっちこそ、お久しぶりです」


 無難な言葉を返す。


 青峰は、そんな俺を見て、優しく微笑む。もしかしてこういう風に笑顔を作ることに、彼女は慣れているのかもしれない、と感じた。


「あの、青峰……さんは、いま何をされてるんですか?」


「私ですか? 栃木のキャバレーで働いているんですよ。これでもナンバーワンなんです」


「そうなんですか……」


 どおりで笑顔が色っぽいと思った。水商売を若いころからやっているのだろう。


「青峰さんも、大変だったんですね……」


 自分は、奇跡的に恵まれていたな、と俺は自分の半生を振り返りながら思う。施設にいた大人はみんな優しかったし、そこでは友達もできた。友達の紹介で、こうやって稼ぎは少ないながらもまともに仕事ができている。それに……。


 そんな風に自分のことについて考えていると、青峰が返事をした。


「大変なこともあったけれど、辛くはなかったですよ。だって、私はずっと木寺さんに会いたくてここまで頑張ってきたんですから」


「そんなことを言ってくれるなんて、嬉しいです」


 と、俺は笑ったけれど、何か狂気めいたものを彼女に感じたのもまた事実だった。そして、そのことについて考える暇を与えさせないかのように、青峰は次の言葉を発した。


「しばらくは東京のホテルに泊まろうと思ってるんです。もしよかったら連絡してください」


「は、はい……」


 青峰は、ホテルの電話番号をメモした紙を、俺に手渡した。


 そのとき俺は、何か得体の知れない怖さを感じた。うまく言葉にできないけれど、嫌な予感がした。


「あ、ごめん! ちょっと用事を思い出しちゃって」


 俺はそう言って、慌てて席を立つ。そして財布の中から五百円札を取り出し、机の上に置いた。


「そうですか」


 青峰は、残念そうにそう言って、こちらに手を振った。俺は何かから逃げるように、喫茶店を後にした。


 車に乗って、自宅への道のりを走りながら、俺は考える。


 彼女はいったい、何が目的で、俺との再会を望んだのだろう。




 *****




 三日後、俺は都心にある、青峰が宿泊しているというホテルの一室を訪れていた。


 本当はあまり気が進まなかったのだが、やむにやまれぬ事情があった。俺が仕事を休んでいた昨日にも、彼女が職場であるガソリンスタンドを訪れ、俺の連絡先をしつこく問いただしたらしい。


 そうまでするのか、と怖くなったが、そのおかげで、「はっきり言わなくては」という決心がついたのも事実だった。


「木寺さん、待ってたわ。入って」


「お、お邪魔します」


 ホテルの部屋は、たばこの匂いが充満していた。お世辞にもきれいに片づけているとはいえず、あたかも自分の部屋のように使っているな、と感じた。


「ビールでも飲む? それともお茶?」


「じゃあ、お茶をお願い」


 丸く小さいテーブルのそばにある椅子に、腰かけると、青峰も正面に座った。


 青峰の顔を正面から見ると、なんだか申し訳なくなってくる。だけど、俺は俺の今の気持ちをはっきりと告げなければいけない。


 緊張でのどと唇が渇く。差し出されたお茶をごくりと飲んでから、俺は話を切り出した。




「青峰、ごめん俺、実は結婚してるんだ」




 青峰は、何も言わずにこちらを見て微笑んでいる。彼女を怒らせてしまうのは怖かったけれど、俺は言葉を続ける。


「五年前に出会った女性と、結婚した。あのとき青峰のことを好きだ、って言ったのは嘘じゃない。だけど、俺は俺で幸せになる道を選んだんだ」


 やはり青峰は、何も言わない。


「せっかく会いに来てくれたのに、本当にごめん。俺は、お前とは一緒になれない!」


 俺はそう言って、深く頭を下げた。ホテルの部屋に、長い沈黙が流れた。その沈黙に耐え切れず、俺は頭を上げる。


 そこには、鬼の形相をした青峰の顔があった。


「ごめん? ごめん、ですって? 笑わせるわ」


 申し訳なさが俺の心を刺したけれど、それでも彼女に語りかけないわけにはいかなかった。


「忘れていたんだ。勝手に結婚して、本当にすまない」


 しかし、彼女が次に返した言葉は、予想外のものだった。




「ちがうちがう! お前が謝罪するべきはそんなことじゃない! あの時だってそうだ!お前は勝手に勘違いして……! もっと重い! お前の罪は! お前は、私からすべてを奪ったんだ!」




 そのヒステリックさは、俺に、幼少期の母からの虐待を思い出させるほどだった。激高した彼女は、立ち上がり、傍にあった彼女のカバンから、一冊のノートのようなものを取り出し、丸テーブルに叩きつけた。


「覚えてないのか! これを……」


 そこには「日記帳」と記されていた。


 見た瞬間に、思い出した。俺はあの日、青峰の机に告白の手紙を入れようとした。そのときにこの「日記帳」を見つけて、彼女が虐待を受けていると知ったんだ。


「そうだ、これを読んだ担任のなんとかって先生に虐待のことがバレて、青峰は……」


 俺が思い出したことを口にした瞬間、青峰は丸テーブルを思いきり蹴り上げた。驚いた俺は、声を上げることもできない。




「ちがう! 虐待はバレてなんかいなかった! お前がくだらねぇ勘違いをしたせいで、幸子は余計な心配をした!」




 俺は彼女の言葉に、耳を疑った。青峰幸子は、目の前にいるこの女じゃないのか……?




「私の母親と、幸子の担任の上戸はデキてたんだ! お前が話してるのを見たって、この『日記帳』には書いてあったけどな! それは虐待について揉めてたんじゃない! 母親のお腹にいた子供についてだった!」




 そう言われた瞬間に、俺の記憶はだんだんと蘇り始めていた。失くしていたピースを、取り戻していく感覚。


 あのとき読んだ「日記帳」。青峰幸子は、母親の具合が悪かったと記していて、俺はそれを虐待が判明したことに対する苦悩だと捉えた。だけど実際は……。


「母親は妊娠してるかもと思って、酒を断ってたんだ。たしかに妊娠の初期症状でイライラしてる時もあったけど、それでも、前よりずっと平和だったんだ! それなのにお前が……」


 それを聞いて、俺はさらにまた一つピースを手に入れた。


 彼女のお母さんが病院に行っていたという話。俺はそれを心神喪失の可能性を確かめるためだと思っていたが、あれはきっと妊娠の有無を診察しに行ったんだ。当時はまだ、一般向けの妊娠検査薬など無かった……。


 だが。まだ分からないことがある。混乱したまま、俺は青峰、いや、目の前にいる女に問いかける。


「だけど、そんな勘違いが、どうしたっていうんだよ。いくら青峰幸子が心配したとはいえ、そんな誤解、一週間もあれば解けるんじゃ……」


 目の前にいた女はまた鬼の形相になり、俺の胸倉をつかんだ。俺は思わず息をのむ。




「一週間、そう、ちょうど一週間だった! だけどな、お前が妹を殺すのに、一週間は十分すぎた!」




 俺はいよいよ訳が分からなくなった。妹? ということは、こいつは青峰幸子の姉か! だけど、「妹を殺す」? 俺が青峰幸子を殺したとでもいうのか?




「私が買ってあげた『日記帳』に幸子が全部書いてくれていたよ。お前が町から逃げ出すその日に、倉庫に連れてったんだってな」


「ああ。だ、だけど、連れて行っただけだ。俺は何も……!」




「あの倉庫の地下室には、放射線治療機の残骸が大量に放置されていた! 百瀬病院のクソ院長が、廃棄にかかる金をケチって、コネを使ってあそこに全部違法で捨てていたんだ!」




「まさか……」


 たしかにその病院の名前には、聞き覚えがあった。だけど……。戸惑う俺をよそに、女はさらに続ける。


「幸子はあの日から一週間、夕方や夜になると、そこに出かけて行った。そして放射能を浴びながら寝ていたんだ!」


 にわかに信じがたい話だった。たしかに、あの場所は「立ち入り禁止」だったけれど、まさかそんな……。


「気が付いた時にはもう遅かった。幸子の体はぼろぼろになっていて、一か月後に死んだ」


「で、でも、そんな大事件が起こったなんて話、聞いたことが無いぞ! ニュースで取り上げないはずがない!」


 俺がそう叫ぶと、女は掴んでいた俺の胸倉をつかんでいた手を乱暴に離し、吐き捨てるようにこう言った。


「隠ぺいされたんだよ! あの後、知っていたのは、地元の警察と、クソ院長と、私たち家族、それに幸子の担任の上戸だけだった! 母親はショックで流産しちまって心を病んで、口すら聞けなくなっちまった。上戸だって、生徒の親とデキてたなんて知られたくないから口をつぐんだ! あとは全部、あの院長の言いなりだ! 幸子と私は、転校したって扱いになって、私は一人で施設行きさ!」


 俺はもはや、ほとんどその説明を聞いてはいなかった。俺が考えていたのは、三日前に自宅に帰る車の中で浮かんだ疑問についてだった。




 彼女は何の目的で、俺に会いに来たのか?




「幸子は内側から体を壊されていって死んだ。お前もそうなればいい」




 目の前の女は、座った俺に背を向けたまま、そう言った。俺は反射的に自分の飲んだお茶を見た。毒か……!


「ま、待て……」


 俺は立ち上がろうとするも、その場に倒れてしまった。薄れてゆく視界に、部屋から去ろうとする女の姿が映る。


 やがて眼には何も映らなくなり、俺の頭の中に、あるイメージが浮かんできた。淡い青色の光の中に、青峰幸子の姿があり、こちらにむかって手招きをしている。




 このまま俺は、彼女のいるところへ行くのだろうか。もし行くことができたとして、彼女はどんな反応をするのだろうか。再会を喜んでくれるのか、それとも……。




 そして次の瞬間、俺の目の前にあった青色の世界は、燃えるような赤に塗りつぶされた。

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