ウォール・オブ・グラス 作・有明榮
「ポテトサラダくらい自分で作ったらどうだ」
不意に懐かしい声がしたので、猿島(さしま)淳はパック入りのポテトサラダを持ったまま、声の聞こえた方を振り返った。そこには、彼の予想通り、銀縁眼鏡とスーツのよく似合う痩身の男がいた。が、彼の記憶のなかでは、この男は長い銀髪を後ろで結んでいた筈だった。
「……別にいいじゃないですか、惣菜を買って済ませるくらい」と淳はぶっきらぼうに言った。
「なんだ? せっかくひさしぶりにあったんだからもう少し愛想よくしたまえよ。それはそうとだな、美味いポテトサラダを作れるのは駅近くで一人暮らしをする男に必須のスキルだぜ。飲み会の後にねらい目の女の子にポテトサラダでも出してみな、もうイチコロよ」
「それ先輩の経験談ですか?」
「いや全然」
まるでつかみどころのない返答に、淳は半ば呆れて、この男は――京都(みやこ)貴晴は二年前となんら変わっていないな、と思った。あからさまに肩を竦めて背を向けると、貴晴は「おいおいおい」と焦ったそぶりで淳に歩調を合わせてきた。
「……ところで何してるんですか? 夏休みはとっくに終わってますし、配属先もこっちとは聞いていませんよ」
「実家の方に野暮用があったんだ。それでたまたまここに立ち寄ったってワケ」
それならば、と淳の中で合点がいった。貴晴は二年前に大学を卒業して、関東の大手商社に就職した。就活シーズンは髪を黒く染め、短く刈り込んでいたが、内定が決まると、「おれには似合わねえ」と言ってサッサと銀に染め直してしまった。やはりアーティストというのはああいう奔放な性格なのだろうか……と、自分には無縁な世界の人間の様子を見て、淳は独りごちたのだった。
「こっちに寄ったんだから、また飲みに行こうや。まだやってんだろ? 駅前の小さい居酒屋」
「そんなにすぐ潰れるようなところでもないでしょう。いつまでこちらにいらっしゃるんです?」
「予定では一週間。週末空けてるが、行くか?」
「まあ、空いてないことはないですが……」と淳が返答に詰まったのをみて、貴晴はああそうか、と呟いた。
「今年は卒論を書かないといけないんだったな」
「そうなんですよ。それで一応、土曜日に教授のところに相談しに行くことになってて……その結果次第って感じですかね。やることが大幅に増えさえしなければ、行きますよ」
「世間ではそれを『社交辞令』っていうんだぜ。まあ期待しないで待っておくよ」と言って、貴晴はわざとらしく両手を上げてみせた。
「……おれはそういう人間じゃありませんよ」と淳の眉間にしわが寄った。
「まあそう怖い顔するなって。わかったわかった、それじゃ卒論頑張ってな」
一方的に貴晴が切り上げて去っていったので、淳は呆気に取られた気分だった。
マンション三階にある部屋のドアを開け、レジ袋を放り投げると、薄暗い部屋の中で、淳の脳裏にいろいろな記憶がまざまざと蘇ってきた。思い出したくない記憶。抑圧しておきたかった記憶。なんだかイライラして、淳は部屋の明かりも点けずにベッドに倒れ込んだ。仰向けになると、天井の蛍光灯が揺らいでいた。そのまま壁に向かったテーブルの方に目をやると、ウィンストン・キャスターの、白いパッケージが目に入った。淳は煙草を吸う人間ではなかった。なぜあの人は――おれに思い出させるのだろう。十月の夜ともなるとパーカー一枚では流石に冷えるか、と思ったが、着替える気も夕飯を食べる気も失せてしまったので、淳は眠気に身を委ねることにした。
***
淳と貴晴の間に、もともと特段の接点があるわけではなかった。淳が大学二年の夏、貴晴のバイト先で働くようになり、そこで知り合った。生来貴晴は気ままな性格なので、頻繁にシフトに入っているわけではなかった。が、なぜか貴晴は淳をかわいがった。一緒に働き始めてしばらく経つと、シフトが被ったときには、バイト終わりに必ず飯を奢るようになった。淳は初め、銀色の長髪という傾奇者の貴晴に内心恐れ慄いていたのだが、中身はいたってなんてことはない、寧ろとっつきやすい人間だったので、次第に淳も貴晴を慕うようになった。
貴晴は美術部に入っていた。それでよく、酒を飲みながらおれはこの画家が好きなんだとか、逆にあの画家の絵に学んじゃあいけないんだとかいうことを淳に言って聞かせた。淳はもともとそういったジャンルにあまり興味を抱いてはいなかったのだが、眼を爛々と輝かせて熱く語る貴晴の話を聞くのは、非常に楽しく感じていた。ある日のバイト終わりに貴晴に言って、誰もいない部室を見せてもらうこともあった。冷房が壊れてムッとする部屋の熱気と油絵具の匂いが混ざって、独特の刺激を放っていたが、それよりもイーゼルに立てかけられた描きかけの油彩画が並んでいるのが、淳にとっては興味深かった。そうして秋も深くなるころには、淳は貴晴に頼まれてモデルを引き受けるようになった。淳はどのサークルに加入していなかったので、バイトの入っていない日は殆ど美術室に通うようになった。
が、事態が一転したのは年末のことだった。淳はその日を、今でも鮮明に覚えている。
その日も二人は同じように、駅前のファミレスで夕飯を食べていた。こないだ新作のゲームを買ったんですよ、という話をすると、じゃあこの後は淳の家でゲームだな、ということになった。コンビニで安酒とツマミを拵えて(こちらは淳が払った)、淳の部屋に上がった。
「暗いんで足元気を付けて、」ください、というところが、廊下の明かりすら点ける前に、淳は壁に背を打ち付けて立っていた。貴晴が淳の腕を押さえて強引に唇を押し付けていたのである。そのはずみで淳はレジ袋を取り落としてしまったが、ほのかに香る柑橘系のワックスの香りが鼻腔を満たし、自分の身に起きていることがあまりに衝撃的で信じられず、そのことには全く気づいていなかった。
ファーストキスを男に奪われるとは思ってもいなかったので、我に返ると淳は力任せに貴晴を突き飛ばした。彼は数歩後ろによろめいて、天狗でも見るような目で淳を見た。すこしも悪びれたような様子はなく、眼鏡の摘んで軽く振りながら、むしろうっすらと笑ってさえいた。顔を赤くして肩で息をする淳の目にうっすらと涙が浮かんでいるのが、暗い部屋の中ではっきりと見えていた。後ろで束ねた銀髪とピアスが僅かに揺れ、貴晴は「嫌いか」と低い声で言った。その瞬間に淳の中で何かが傾いたのを、彼ははっきりと覚えている――
***
その後の事は思い出したくもない。俺の学生生活が――もとい俺のすべてが、あの男のせいで、あの男のたった一言のせいで狂わされたのだから。一刻も早く記憶から消去したかった。貴晴が卒業して暫く経ってから、彼が部屋に残して(というか置いて)いったものは尽く捨てた。下着からワックスからシャンプーから茶碗から、何もかも。だが、彼が好んで吸っていたタバコだけは、何故か捨てきれなかった。勿論、淳はタバコを吸わない。時折、貴晴がベランダに出て吸っているのを遠目に見ていただけである。彼はずっとウィンストン・キャスターを、ワイシャツの胸ポケットに入れていた。
目が覚めると、時計の針は既に十一時を回っていた。流石に腹が減っていたので、面白くもないテレビ番組を横目にレジ袋の中のポテトサラダをつまみに温くなったビールを飲んでいたが、気持ちは実際うわの空であった。週末にいつもの居酒屋で会おう、という貴晴の屈託のない笑顔が、今の淳にとっては非常に重荷に感じられた。貴晴が卒業して二年、ようやくしがらみから解放されたと考えていた矢先にまた二人で会うのは――おそらく彼はサシ飲みだけでは済まないだろうと予感している――自分にとって、何かとてもまずいような気がしていた。
だがあれよあれよという間に、予定の週末は訪れた。卒業論文について相談した内容も、頭に入ってきたようで頭に入っていないということを、淳は自覚していた。彼は私事を表に醸すようなことはしない、いわば鉄仮面の男であったが、それが今日は災いしていた。非常に曖昧模糊といおうか、五里霧中といおうか、頭の中に霞がかかっている気分だったのである。
「……猿島君、今日はいつもと違うような気がするね」と唐突に教授がいうので、淳はドギマギしてしまった。「そうでしょうか?」ととぼけてはみたものの、眼前の先達はそれを赦してはくれない雰囲気である。やはりいままで多くの学生を見てきた大学教員だからだろうか、目の前の学生の異変を見てとるのは造作もないらしい。カセットコンロに載った薬缶が甲高い鳴き声でお湯が沸いたのを知らせている。
「まあ、詳しいことは聞かないけれど」教授は薬缶を持ち上げ、湯を静かにドリッパーに注ぎながら言う。
「ナニ、まだ十月に入ったばかりだ。今はまだ焦らないでいい。地に足つけて地道にやっていけばいい卒論が書けますから。コーヒーでも飲んでいきなさい」
教授が無難に話を逸らしたのにやや安堵したが、どうも胸騒ぎはコーヒーでも拭えなかった。
「……で、今に至る、と」この間とは打って変わってグレーのTシャツ姿の貴晴が、向かいの席で壁に凭れ掛かって言った。左手にタバコを挟み、右手はスコッチのグラスを持っている。社会に出たとはいえ、娯楽に忙しいのは相変わらずのようだ。そういえばこの人はいつもワイシャツだったなということに気が付き、淳はある種の新鮮さを覚えた。
「まあ、そういうことです」
「端的に言えば、引き摺ってんだろ」
「……まあ、そういうことです」
こぢんまりした居酒屋の奥の小部屋には渦巻く雑音が届きにくいとはいえ、静寂が帳を下ろしているわけでもない。それにもかかわらず貴晴の声は大きくはなかったものの明瞭に聞こえた。タバコの煙はちろちろと白糸のように細く立ち上り、天井の換気扇へと吸い込まれていく。入れ替わりで天井のスピーカーからラジオの音声が二人の頭上に降り注いでいる。
これじゃあ俺が別れるのを引き留めようとする女々しい男みたいじゃないか、と淳は恥辱にも似た感情を覚えた。
貴晴が卒業してからも、数か月の間はずっと会いたいと思っていた。何かのはずみで、あるいは偶然でもいい、一目見る機会を欲していた。でも同時に、再び会えば二度と引き返せないかもしれないということも知っていた。だから、彼の痕跡は残らず消した――長考の末に導き出した結論が、こうも簡単に覆されるとは。半ば自嘲しながら、淳はグラスのハイボールを呷った。
「――遠距離になってもいいと、思ってるか」
「……マジで言ってます? 遠距離になるし立場も変わるから別れようっていったのは、京都さんじゃないですか」
遠距離でもいいか、なんて言葉が貴晴の口から飛び出るとは予想していなかったので、淳は肴を危うく取り落とすところだった。
「まあ、おれはある程度落ち着いたしな。配属はこっちじゃあないが……夏休みとか冬休みくらいは帰って来るだろうし」
「でも……」と淳は逡巡した。もう別れようといったのは、それも向こうが切り出したのは二年前のことである。また関係を持ちたい、と思っていたのは事実だが、この男にまたも人生を狂わされるかもしれない――否、殆ど確実なことだ――のは、もう懲り懲りだと考えているのだった。
天秤がここ最近ずっとぐらついているのは、秤を掲げる淳自身がよく知っている。そして、慾を孕んだ錘が大きくなりつつあることも。
「でもま、やっぱり一度切り上げてるしな」グラスを置いて貴晴が静かに言う。灰皿にタバコの灰を叩いて落としながら、眼鏡の奥から寂し気に笑った。
「ま、やっぱり先輩と後輩の関係のままでいるのが一番だ。それがお互いのためだろうさ」
それもそうですね、と言うのが、淳には精一杯だった。その後の言葉を紡ぐには、まだ酒が足りていないということを――逆に言えば、酒の力を借りないと切り出せない根性なしであることも、十分理解していた。
***
目が覚めると、淳の隣で貴晴が眠っている。およそ二年の間目にしなかった、もう目にするまいと心に決めた、だが心のどこかで切望していた情景が、肉感が目の前にあった。耳に開けていたピアスの穴はすっかり塞がっていたが、身体に纏うウィンストン・キャスターのバニラの香りは今でも健在だった。窓を激しく雨が打ち、時折雷が轟いては部屋を照らす。以前よりは健康的になった貴晴の胸元が浮かび上がった。
最後に抱かれた日も今日みたいに雨が降っていたっけな、とぼんやりした頭で淳は記憶を手繰った。窓に打ち付ける雨の音と、淳に覆いかぶさる貴晴の荒い息が、初春の夜明け前の冷たい部屋に溶けていく……汗の滲んだ貴晴の銀髪が額に張り付き乱れている。友人からの着信を一切無視して這わせた手と舌の感覚を、淳が忘れることはない。これで最後だもんな、といって夜から次の日の夜まで一日中絡み合っていたあの日の記憶は、忘れるには強烈過ぎたのだ。何もかもを捨てたところで、淳の記憶と感覚から貴晴が消えることはない。
背中から淳を抱きながら、まるでガラスの壁だな、と貴晴は言った。時折詩的な言い回しをするのが淳にはおかしかったが、この時ばかりは虚を衝かれた気分だった。淳は必死に隠してたつもりかもしれないが、俺には丸見えだよ。二年経ったところで、一時の強烈な耽溺から逃れることはできないさ。雨音に混じって耳元で囁く貴晴の声が、余計に羞恥を駆り立てるような感覚がしていた。
昨晩とあの日の記憶だけが交互に脳裏を廻る中、足元の毛布を手繰り寄せて、淳は再び眠りに落ちた。
***
「……おれさ、彼女できたんだよね」Tシャツを被りながら貴晴がいう。淳はまだベッドに腰掛けていた。
「今言いますか、それ」
「今じゃないと言えなかったっていうかさ……未練にスッパリ決着をつけたかったんだよ」
「未練だなんて、そんな。おれに抱くような未練なんて、あるんですか」
「なかったらこうしてわざわざ会いに来ねえよ」
思いの外口調が強かったので淳は少し面食らったが、貴晴の眼差しを見てそれが真意であることを悟った。
「……これで、本当に終わりにするんですね」
「――ああ。お前を特別な関係に置くことはできない。多分、もう会うことはないだろう」
「思い出したくないからですか?」淳はまだベッドに腰掛けていた。貴晴は既に身支度を整えて、玄関へと向かっている。昨夜の雨はどうやらにわか雨だったらしく、今はもう朝日が雲間から射している。
「それもないわけじゃない。――でも、なによりおれが揺らがないためだ。おれのことはあまり気に病むな。淳は優しい男だし、人当りもいいから好きになってくれるやつはいる」
「……そうですね」
「――じゃあ、これで本当にお別れだな」玄関から声を張り上げて、貴晴は出ていった。扉の閉まる音がして、広くなった部屋に静寂が満ちた。
机の上には、また貴晴が置いていったウィンストン・キャスターの白い箱とライターがある。淳はそれを見つめていたが、不意に立ち上がり、中から一本、タバコを手に取った。窓を開けると、雨上がりの独特の匂いがして、冷たい風が頬を撫ぜる。ベランダに出た淳はタバコを咥えて、ライターで火を点けた。
「……不味い」
了
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