追加シナリオ 雪原の誓い(2)

 海のほうから、かすかに潮の香りが漂ってくる。


 「それから?」

 「それから… うーん、あとは、話すことは大して無いかも。鴉に変身する魔法に成功するようになって、少しだけど空を飛べるようになってさ。あんまり嬉しかったんで、塔のてっぺんまで行ってみたんだよ。」

 「てっぺん…あの、呪文のあるとこか」

 「そう。"創世の呪文"、確かにお伽噺にはそんなの出てきたなって後になって思えばそうなんだけど、あの頃は魔法を覚えるのに夢中でそんなことすっかり忘れてた。綺麗な輝きで、…思わず見入ってしまって、足を踏み外して落っこちたんだ。」

 「ああ、言ってたな。そういや」

塔の最上階の、下を見るだけで足が震えそうなとんでもない細い回廊のことを、ロードは思い出していた。

 「今生きてる、ってことは、うまく飛べたんだな。」

 「いや。まっさかさまだよ」

 「まっさかさま? でも、あの高さじゃ」

 「そう。助かるはずない。本当ならぼくはあの時に死んでた。どうして助かったのか、今でもよく分からないんだ。」

レヴィは、そう言ってお代わりのお茶を一口すすった。

 「ぼくがあの時持っていた魔法石は、そもそも、高等魔法に使うには出力不足だった。魔法石から引き出せる魔力には、ランクによって上限がある――って話は知ってるよな」

 「ああ。」

 「じいさんが渡してくれたのは、最低ランクの安いやつ…なくしたり壊したりしても困らないような、初心者用のものだったんだ。本来は日々の雑用で使うものだったからな。あの頃のぼくは、そんなこと知りもしなかったけどね。」

 「むしろそれで、よく飛べたな」

 「そう。じいさんにも、そう言われた。で、一回目はギリギリ飛べたのに、二回目は出力が足りなくて巧くいかなかった、ってわけだ。」

 「わけだ、って。…それじゃ、落ちるしかないじゃないか」

 「そうだよ。五十階から一階まで落ちた。その途中で、青白い光を見たことは覚えてる。床に叩きつけられて、――気が付いたら、泣きじゃくってるリスティがいてさ。大怪我して気絶してたらしい。ようやく起き上がれるようになって、てっきり叱られると思ったら、じいさんに衝撃的なことを言われたんだよ。呪文がお前を選んだ、お前の中には呪文の一部があるから自分はもう"風の賢者"ではない、ってね」

 「……。」

黙っているロードの表情を見て、レヴィは笑った。

 「な? びっくりだろ。他の弟子たちもそりゃびっくりさ。召使いの、魔法もロクに使えないはずのガキが、何で自分たちの誰かが継ぐはずだった次の"賢者"を掻っ攫っていくんだ、ってね。そう、今から思えば、残念ながらあいつらは俗物だったんだよ。"賢者"は無限の魔力を使える世界最強の大魔法使いだくらいに思ってて、三人でじいさんに選ばれようと塔の中で競争してたわけさ。それぞれの方法でね。ぼくは子供すぎて、そんなのちっとも気が付いちゃいなかった。ただ空が飛びたかっただけなんだ。――いつか魔法で食べていけるくらいになったら、リスティと塔の外に出て、自分たちの家が持てたらいいなっていうのが、あの頃の夢だった」

 「…でもお前は、受け入れたんだよな。次の"風の賢者"になるってことを」

 「まあな。三日ほど落ち込んだあとで。」

冗談っぽく言って、彼は椅子の背にかけてあった黒い上着を手に取った。

 「何だか話し込んじまったな。じゃあ、ぼくはそろそろ行くよ」

 「ああ、こっちも引き止めて悪かった。次はどこへ?」

 「決めてない。」

上着のポケットに手をつっこみながら、彼は空を見上げる。「上から見て、面白そうな町があったら降りてみるかなって感じだな」

 「へえ。そういう旅もいいな。」

ロードも席を立つ。店を出た時、振り返ってレヴィが言った。

 「ああそうだ、春になって雪が消えたら、塔に来ないか? フィオにも声をかけたんだ。春の森には、"青い森"の名前の由来、青スイセンの花が咲く。世界中であそこだけの風景なんだぜ」

 「面白そうだな。是非見てみたい」

 「じゃあ、花が咲く頃になったら迎えに行くよ。どうやってお前の居場所を探すのかなんて、聞くなよ」

青白い輝きをちらつかせながら人ごみの中に消えていく後姿を、ロードは、しばらく視線の端に追っていた。




 ――春に咲く花々は冬の間、雪の下で静かに耐えて待っている。鴉は塔の中で耐えて待っている。

 うつむきがちに歩く北国の冬と違って、この町の人々は、みな、冬でも顔を上げている。雪など見たこともないか、降っても積もることなどごく稀な海辺の地方では、たとえ日は短くとも、太陽は毎日登り、毎日朝が来る。

 雪が降ると、息が詰まりそうになる。雪は嫌いだ。すべて闇に閉ざされて、ただじっと、外に出られる日を待つしかない。

 レヴィは、思い出していた。

 忘れるはずもない。ずっと以前、まだ無力だった頃の誓いを。




 初めての木枯らしが吹いてから、もう何日も過ぎていた。そろそろ雨が降り出しそうな天気だが、降ってくるのが雨は雪かは今のところ分からない。

 だが、塔の暮らしでは、そんな寒い外に出る用事はほとんどなく、水汲みも洗濯も、塔の中だけでやることが出来た。水汲み場は、台所のすぐ脇に在る窪みだ。井戸になっていて、塔のずっと下のほうにある水脈まで穴が続いているという。水桶を下ろすのも引き上げるのも一苦労で、子供の力では難しい。リスティは、覚えて間もない魔法を使いながら、ゆっくりと慎重に桶を引き上げていた。その側で、レヴィは樽の上に腰掛けてりんごを齧っている。

 ふと手を止めて、リスティがちらりと弟のほうを見た。

 「…レヴィ、それ、またつまみ食いなの?」

 「いいだろ、ひとつくらい。割り当てのメシ少なすぎるんだよ」

 「まったく。村に居た頃に比べれば全然マシじゃないの」

返事せず、すまし顔で口を動かし続けている少年を見て、リスティは一つ小さく溜息をつくと手元に集中を戻した。レヴィがサボっているわけでは無い。物を持ち上げる魔法は今ではレヴィのほうが得意で、いつもならレヴィが受け持っているのだが、今日は練習のためにやらせて欲しいとリスティのほうから申し出たのだ。

 レヴィは、ちらりと後ろの窓の外に目をやった。 

 塔の中庭では、ちょうど、マウロが草刈をしているところだ。ときどき空を見上げて空模様を確かめている。案の定、気が散っているせいで草の長さはバラバラだ。

 「どうせすぐ雪が降るんだから、わざわざ今やんなくてもいいのにさ」

呟いて、食べ終わったリンゴの芯をぽいと部屋の隅のゴミ入れに放り込む。塔の中はやけに静かで、今朝は朝食の後から誰も見かけていない。イングヴィはたぶん塔のどこか上の方だろう、とレヴィは思った。いつもこの時間は、上の階のどこかで魔法の練習をしているからだ。

 「ジュリオは?」

 「お洒落して町に出て行ったわ。」と、リスティはけんめいに汲み上げの縄をひっぱりながら答える。台所の奥には、買出しの時に使う町へ通じる扉がある。時々接続先が変えられることになっているが、今はシュルテンの町に繋がっているはずだった。

 「ふーん。また女の子のところなのかな」

興味ないといった口調で言って、レヴィは樽から飛び降りた。

 「キツそうだな。そろそろ手伝おうか」

 「いい。一回くらい最後まで自分で…」

言いながら、リスティの額には汗が浮かんでいた。もう既に、魔法ではなく純粋な腕力での作業になってしまっている。だが、こういうときリスティは頑固なのだ。一度やると決めたら、途中では絶対投げ出さないだろう。へたに口出しすると機嫌を損ねさせてしまう。頭の後ろで指を組みながら、レヴィは手持ち無沙汰に台所のある中二階から、廊下の突き当たりを見やった。

 「…じいさん、今日一回も見てないな。部屋にメシ持ってかなくていいの?」

 「じいさんだなんて。ちゃんと、先生か師匠って言いなさい」

 「わかってるよ、本人の前ではちゃんとそう言うって。リスティはガミガミ魔だなぁ」

ちょっと肩をすくめると、彼は潰して履いていた靴の踵を直しながら歩き出した。

 「ちょっと見てくる」

いいとも悪いとも、返事は無かった。代わりに、小さな悲鳴と共に桶が転がり落ちていく乾いた音が響いてきたが、レヴィは、聞かなかったことにした。

 廊下の突き当たりは、塔の主、ランドルフの部屋だった。

 塔の中にはたくさんの部屋があるが、使われているものは、ほとんどない。弟子たちはめいめい、塔の気に入ったところに居を構えている。イングヴィは塔のてっぺんに近い高いところ、ジュリオはランドルフの部屋のすぐ上、マウロは地下室。ランドルフが使っている食堂に近い大きな部屋には、ほとんど足を踏み入れたことがない。そのすぐ隣は実験室か講義室のようなところで、毎日の魔法の授業の時に使っていた。

 足音を忍ばせ、ドアの隙間から、そっと部屋を覗くと、こちらに背を向けて、窓の前に立っている黒い裾長の上着の老人が見えた。すぐ隣にはイングヴィがいる。珍しいな、とレヴィは思った。何を話しているのだろう。ドアの隙間に耳を押し当てると、話し声が聞こえてきた。

 「…先生、いつまで迷っておられるのですか?」

苛立ったような声は、イングヴィだ。

 「まだ時間はある。"森の賢者"がここのところ妙なことをしているのも気になるし、…それに、わしはまだ決めかねておる」

 「そんなこと。迷う要素がどこにあるのですか?! 答えは明白ではありませんか」

身を乗り出して、殆ど怒鳴るような口調で言う。初めて会った時以来、イングヴィが不機嫌でなかったことは、ほとんどない。いつも何かに苛立っていて、笑ったためしもなかった。

 「まさか、あのジュリオとかいうどこの馬の骨とも知れない奴に継がせるおつもりではないでしょう? あれはアステリアが送り込んできたスパイなんですよ。"賢者"の力を、アステリアのために使おうとしている裏切り者なのです! いくら頭が回るといっても、ありえません」

 「だがお前は、虚栄心の固まりだ」

刺すような言葉を返されて、イングヴィの顔に一瞬、狼狽が走った。だが彼はすぐさま勢力を盛り返し、押し殺した声で言う。

 「…私はただ、ノルデン貴族としての誇りに忠実なだけです」

 「それは、この役目に就くには邪魔なものだな」

ふう、と一つ深い息をつき、老人は、長い髭を揺らしながらゆっくりと部屋の中を歩き始める。

 「お前たち三人はみな、どこか優れているとともに、どこかが欠けている。完璧な人間などこの世には存在しないが、欠けているのが必要不可欠なものだとしたら、わしはその中からは誰も選べない」

 「先生…それでは、このまま寿命を迎えるおつもりなのですか? 誰にも渡さないままに…?」

 「それが天の定めならば。そうすれば、呪文は自ら誰かを選ぶだろう。お前たち三人か、あるいは別の誰かなのか」

 「…!」

さっとイングヴィの顔色が変わるのが分かった。荒々しい足音が近づいて来るのに気が付いて、レヴィは慌ててドアの後ろの壁にぴったりと張り付いた。ドアが勢い良く開かれたのは、その直後だ。不機嫌な気配を全身にまとって去ってゆくイングヴィは、ドアの影に隠れているレヴィには気づいた様子もない。

 ドアは、半開きのままになっていた。そっと部屋を覗き込んでみると、ランドルフは、部屋の真ん中に立ったままだった。眉間に皺を寄せ、難しい顔で何かを考え込んでいる。声をかけられる雰囲気ではない。

 (何の話をしていたんだろう…)

レヴィは心配になってきた。弟子同士で言い争いになることはあっても、三人のうちの誰かが師であるランドルフに立てつくところは、これまでに見たことが無かった。それは、あってはならない出来事のように思われた。

 一体何があったのだろう。

 ランドルフの表情はあまりにも深刻で、とても尋ねられそうにない。イングヴィのほうなら、さんざん愚痴られるか馬鹿にされるかもしれないが、何か答えてもらえるかもしれなかった。

 (イングヴィは、きっと上だ)

レヴィは、塔の上を見上げた。複雑に絡み合う空中回廊のはるか奥のほうに、イングヴィのよく行く場所があるのを知っている。それは、塔の中で彼がまだ一度も行ったことのない場所――最上階だった。そこに通じる扉はランドルフの書斎の奥にしかなく、扉を開けることは固く禁じられていた。

 だがきっと、飛べれば行けるはずだ、とレヴィは思った。

 隠れて練習していた、イングヴィと同じ鴉に変身する魔法は、かなり上達したつもりだ。最近では、変身するだけなら失敗なくほとんど時間も掛からずに出来るようになっている。ただ、飛ぶとなると別問題だった。

 鳥でさえ、羽根が生えそろった後に羽ばたく練習をする必要がある。飛ぶためにはもう一つ、飛翔の魔法を組み合わせなくてはならない。つまり"鴉になって飛ぶ"ためには、最低でも二つの魔法を同時に使えなくてはならないのだが、どうしても長時間は無理だった。今のところ、せいぜい五秒ほどしか飛べたことがない。

 それでも、試してみたかった。

 たとえ最上階へは行けなくても、すぐ下の階までは行くことができる。塔の中心の太い柱に向かって張り出す通路の中ほどまでやって来た彼は、頭上に重なるようにして張り出す、最上階の回廊を見上げた。一階と半分くらいだ。距離は、そんなに長くない。五秒あれば、ぎりぎりで届くかもしれない。

 ひとつ深呼吸して、彼は首にかけてあった鎖を引っ張り出した。鎖の先には、魔法を使うための魔力の源の宿る小さな魔石がはめ込まれた大人用の指輪がぶら下がっている。ゆっくりと、頭の中で呪文を組み立てる。姿を変え、飛翔するイメージとともに。羽ばたくと、身体が浮かぶのが分かった。

 (できた…!)

そのまま、真上へと力いっぱい上昇する。狭い回廊の上に狙い定めて飛び降りた時、成功した喜びと、大きな魔法を使った反動から、心臓は激しく高鳴っていた。

 呼吸を整えながら、彼は元の姿に戻って辺りを見回した。頭上には、丸いドームのような、質素な天井だけが載っている。ということは、ここが最上階で間違いない。

 けれど、辺りに見えるのはただの通路だけで、通路の先は外壁にしか通じていない。部屋もなさそうだ。

 一体ここは何のためにあるのだろう。

 そう思いながら視線を戻した時、彼はふと、空間の中心に何かが輝いていることに気が付いた。身長よりも高い場所にあるせいで、今いる場所からではよく見えない。数歩、後ろに下がって見上げて、彼ははじめて、それが丸い大きな光であることを知った。

 光は、塔の真ん中を貫く柱のてっぺんに載せられていた。

 青白く、まるで呼吸するかのように明滅している。その表面には、何か模様のようなものが速いスピードで流れ続けているようにも見える。

 不思議な光だった。そして、美しい。

 ぼんやりと眺めていた彼は、近づいてくる鋭い足音に気づいて我に返った。振り返ると、鬼のような形相のイングヴィが大股に近づいてくるところだった。

 「そこで何をしている!」

レヴィの目の前まで来て、覆いかぶさるように彼を見下ろした。「どうやってここに来た」

 「えっと…あの」

物凄い剣幕に押されて、何も答えられなかった。口ごもっていると、腕が伸びてきて胸倉を掴む。

 「ここはお前のような下賤な者が来ていい場所ではない!」

シャツの首を締め付けられ、足が床から浮かぶ。

 「離…せ」

レヴィはとっさに、イングヴィの手に爪を立てた。小さく呻いてイングヴィが手を離すのと同時に、すばしっこく柱の後ろに隠れる。

 「貴様…」

赤く爪の跡の残る手を撫でながら、青年は怒鳴った。

 「主人に逆らうのか、このガキが!」

怒りに見えるイングヴィは、もはや理性を失っていた。ネクタイピンの魔石を撫で、何か唱えようとしている。はっとして、レヴィは一歩後退る。何か魔法を使うつもりだ。一体、何を…

 「あっ」

その時、片方の足が宙に滑った。身体のバランスが崩れ、もう一方の足も空を切る。

 (やばい、落ちる…)

もう一度飛べれば。

 だが、イメージははっきり出来ているはずなのに、成功したときに感じる反応がない。魔石がうんともすんとも言わないのだ。変身することも、飛ぶことも、浮くことも出来ない。現時点で使えるどの呪文を試しても、落下し続ける速度は変わらなかった。

 不思議と、世界はゆっくりに見えた。

 天井が回り、無数に絡み合う枝のような回廊が次々と通り過ぎてゆく。長い落下の中、いつしか落ちているのか、飛んでいるのかすらも分からなくなっていた。現実とも夢ともつかない世界の中で、彼は、目の前に浮かぶ青白い輝く文字列を見ていた。

 (これは…何だろう)

いつからそこにあったのか、良く分からない。手を伸ばすとそれは腕にからみついて、体の中に入ってくるような気がした。

 (光… 人間…?)

頭の中に浮かんでくる言葉を、彼は無意識のうちにトレースする。

 (人間、そは光の子の名…? 汝ら、光とともに…ある…)

一瞬、身体が浮いたような感覚があった。だが、次の瞬間には、強い衝撃とともに床に叩きつけられていた。痛みとともに、意識が途切れる。


 覚えているのは、そこまでだった。




 目を覚ました時、目の前には見覚えのない高い天井があった。意識の中に音と色が戻ってくる。天井の色は薄い緑。シーツの色。リスティの泣き声。側に立ってこちらを覗きこんでいるランドルフの顔と、三人の弟子たち。

 塔の住人が、全員そこに揃っていた。

 何があったのだろうと思いながら、レヴィはベッドの上に起き上がる。そして、かすかな痛みとともに思い出した。

 (そうだ。ぼくは、塔の上から落ちて――)

彼の手を握り締めて泣いていたリスティが、ぐしゃぐしゃに泣きはらした目で彼を見つめる。それに、青ざめた顔で震えているイングヴィ、目を大きく見開いたまま硬直しているジュリオ、放心したほうな顔のマウロも。

 ややあって、ランドルフが静かに口を開いた。

 「――レヴィ、身体の調子はどうかね」 

 「なんとも…ないです。ちょっと背中が痛いだけ。あの、落ちたはずじゃ…誰か助けてくれたんですか」

その場にいる誰も、何も言わない。奇妙な沈黙だった。また、ランドルフが口を開く。

 「お前は自分で助かったのだ。床に叩きつけられたが、骨折だけで済んでいた。それは治癒の呪文で、もう治した」

 「え? でも…」

 「"創世の呪文"がお前を選んだのだ。今、お前の中には呪文の一部が存在する。まだ正式な継承はされていないが、今日からは、お前が"風の賢者"として呪文の断片を守るのだ。」

ぽかん、とした顔で、彼はランドルフの顔を見た。「何…言ってるんですか…?」

 何も分からなかった。頭の中で疑問符だけがぐるぐる回り続け、そこから先の説明はほとんどが頭の中を素通りしていった。

 分かったのは、塔の最上階にあったあの光の塊が、お伽噺に出てくる"創世の呪文"の断片だということ。落下していたあの時、身体の中に入ってきた青白い言葉のようなものが呪文の一部だったということ。その力の力を借りて、床に衝突する寸前にイメージしていたどれかの魔法が発動して、衝撃を和らげることが出来たのだということ。


 そして、次の世代へと役目を引き継いだことによって、師匠のランドルフは、"賢者"としての力を失ってしまったということ。


 最後の事実とともに、ゆっくりと、少しずつ、事の重大さが染みこんできた。

 「どうして…どうして…こんな…」

ぶつぶつ言いながら、イングヴィは何度も壁に頭をぶつけていた。

 「信じられないよ。だってあんなに、魔法が出来なくて、ボクよりずっと」

マウロは引きつった顔で笑みを浮かべようとしている。

 「まずはおめでとう、…なのかな? どうやら、我々は全員、キミに騙されていたようだ。しかし一体いつの間に、"呪文"に気に入られるようなことをしていたのかな?」

平静を装ってはいたが、髪を掻き揚げるジュリオの手はかすかに震えていた。レヴィは、ただ俯いて無言だった。

 溜息をついて、ランドルフが言った。

 「…皆、しばらく席を外してくれんか」

レヴィの手を握ったままだったリスティは、不安げな眸で老人を見上げる。

 「そなたもだ。レヴィはもう大丈夫だから、心配せんでいい。顔を洗って少し落ち着いてきなさい」

 「…はい」

涙を拭って立ち上がったリスティは、ドアのところで一度振り返ると、立ち去りがたいような顔をしながらゆっくりとドアを閉めた。耳が痛くなるような静けさが部屋の中に戻ってくる。塔に来てから、ランドルフと二人きりになるのは、これがはじめてだった。

 「…あの」

レヴィは、手元に視線を落としたまま顔を上げられなかった。

 「すいません…でした。勝手に…塔の上に行ったりして」

 「謝ることはない。これもさだめというものだ」

ふうっと溜息をついて、ランドルフは背中をわずかに丸めたまま自分の額髭を撫でた。今朝まで漂わせていた不思議な威厳はすっかり消えうせてしまったように見え、ほんの僅かの間に、五十歳も老いてしまったようだった。

 「しかし、どうしてお前はあそこにいたのだ。"創世の呪文"のある場所へ通じる扉を、お前はくぐっていないはずだ」

 「…飛んだんです。」

 「跳んだ?」

 「いえ、鳥になって」

老人の眉が軽くひそめられた。

 「…変身と飛翔の呪文? なぜ使える。いつの間に覚えたのだ」

 「ずっと練習してたんだ…です。たまには成功してたし、いけると思って…下の階から試しに飛んでみたんです。でも二回目はダメだった」

 「当たり前だ。お前に与えた魔石からは、そこまでの魔力は引き出せん。どんなに頑張っても、物を浮かすのがやっとのはずだ。そもそも一度でも飛べたこと自体が驚きなのだ。」

不安そうな表情になったレヴィを見て、老人は少し表情を緩めた。

 「悪いことでは無い。力を人より効率よく使うことが出来る、ということなのだから。…ずっと一人で練習を?」

レヴィは頷く。

 「他にどんな魔法を覚えた」

 「浮いたり…浮かせたり。あと、誰も入ってきて欲しくない時、ドアを開かなくしたり」

 「開かなく?」

 「あ、うん…鍵の呪文は出来なかったから、つっかい棒…空気を固めるみたいな感じで…」

 「なるほど。」

髭に手を当てて、老人は独り言のように呟いた。

 「得意な魔法は空間制御か。珍しい特性だ――そして、"風の賢者"の力とも相性がいい。」

そして、じっとレヴィの顔を覗き込んだ。

 「もっと早く気づくべきだった。だが、まだ遅くはない」

その眼差しがあまりに真剣だったので、レヴィは少し不安になった。

 「あの…じい――先生。ぼくは、まだここにおいてもらえるんですか?」

 「当たり前だ。さあ、もうしばらく休みなさい。その間に、持ち物を隣の部屋に運ばせよう。元気になったら、お前に教えなくてはならないことが沢山あるからね。」

ランドルフが去っていき、レヴィは一人になった。周りを見回すと、窓の外にある、見覚えのある風景が目に留まる。ランドルフの部屋から見えていた山の形だ。ということは、ここは、一度も入ったことのなかった、ランドルフの部屋と同じ並びにある部屋の中なのか。

 いつも寝泊りしていた台所の脇の部屋とは比べ物にならない、大きなふかふかとしたベッドの上に座ったまま、彼は、自分の両手を見下ろした。それから、その手を胸に当ててみる。そこに、何かが宿っているような気配があった。

 「……。」

脳裏にイメージを描いて、小さく言葉を唱えてみる。と、窓辺の書き物机の上に置かれたままになっていた本が、ふわりと浮かび上がった。驚いて集中が途切れるのと同時に、本は浮力を失って、ばたんと大きな音を立てて机の上に落下する。

 (魔法…使える。何で…)

レヴィは、自分の身体を見下ろした。魔石は持っていない。ベッドの周りにも無い。なのに、どこからか魔力が供給されている。しかもそれは、ずっと使っていた指輪の石よりもはるかに強い気配だ。

 怖くなって、彼は布団の中に勢い良くもぐりこんで毛布を頭から被った。不安で身体が震えて止まらなかった。自分は一体、どうなってしまったのだろう。――これから、どうなるのだろう。

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