第18話 対峙

 風が雲を集め、光は急速に消えつつあった。朝方に見えていた青空は完全に消えて、今は、見渡す限りの空が低く垂れ込めた灰色に覆われている。

 ロードとフィオは、仕上がった短剣の受け取りを兼ねて買出しのために町に出ていた。

 「雨降りそうだね、やだなあ」

 「そうだな。早くレヴィと合流しよう」

予定では、午後には北に向けて発つつもりだった。ここから先は、乗合馬車で行ける道ではない。徒歩か、途中の町や村へ向かう馬車を見つけて乗せてもらうしかない。

 雨のせいだけではない。目尻のちりちりする感覚は、強まってきている。敵が――<影>がもう、近くまで来ている。

 広場まできた時、フィオが行く手を指差した。

 「あれ、あそこいるのユルヴィじゃない? おーい、ユルヴィ!」

 「やあ、ロードにフィオ。」

顔を上げた青年が手を振り返す。私服で、キオスクで買ったらしい新聞を手にしている。

 戦列から外されて暇になったのか、ここのところユルヴィはしょっちゅう町をうろついていて、マフィン屋で出会って以来も何度も、町に滞在している間に出くわしていた。

 「今日発つと聞いてたので、見送りに来たんです。会えて良かった」

 「そうだったのか。」

 「また会えるといいですね。」

そう言って、ユルヴィは人のよさそうな笑みを浮かべた。彼には、この先さらに北へ向かうことは告げていない。

 雨が近いせいか広場は閑散としていて、客待ちの乗合馬車が数台、出発を待っているだけだ。昨日まではあれほどいた胸の白い鴉たちの姿も消えている。

 レヴィはどこだろう。

 広場をぐるりと見回したとき、ロードの視線が町の入り口に止まった。坂道を登って町に入る道の入り口に立つ二人の男女の姿に違和感を感じたからだ。そして、それは次の瞬間には確信に変わっていた。

 隠していても完全には隠し切れない、周囲に広がる黒い帯のような影。姿は変わっているが、男のほうはハルガートに違いない。ついに追い付いて来た――だが、その隣にいる女性は、一体誰だろう。相方の女の方は、前回、フューレンで倒したはずだった。

 「…!」

ロードの表情に気づいて振り返ったフィオが、息を呑んだ。「…お母…様」


 では、あれが"森の賢者"なのだ。フィオの育ての親。魔女テセラ。


 それは、どう見積もっても四十歳まではたどり着かない年齢に見える、小柄な美しい女性だった。フィオの言ったとおりだ。三百年も生きていたようには、到底見えない。身につけた深い紺色のぴったりとしたロングドレスからは、丸みを帯びた輪郭が見て取れる。長い銀髪はきれいに頭の後ろに束ねられ、植物をあしらった髪飾りで留められている。一見すると、品の良い良家の奥さんといったところだ。

 少女と視線が合うと、彼女はにこりと微笑んだ。

 「あら、そこにいるのはフィオ? どうしたの、こんなところにいるなんて」

微かに掠れた声。そして、――その眼は暗く、どこか虚ろに見えた。フィオは一瞬言葉に詰まったが、懸命に言葉を捜して問いかける。

 「お母様が、急にいなくなったから、探しに来たの… 心配して、あたし…」

 「そうなの? こんな遠くまで一人で来るなんて、えらいわねえ。でも、…森から出てはいけないって、あれ程言っておいたのに」

微笑みを湛えたまま、ゆっくりとこちらに近づいてくるその女性から、ロードは目を離せなかった。背後に従うハルガートの射るような視線からは強烈な殺意を感じるというのに、まるで蛇に射竦められた蛙のように、一歩も動くことが出来ないでいる。

 「ごめんなさい! お母様、でも、でも、ずっと帰ってこなかったから…それに、どうして? どうして、そんな奴と一緒に!」

泣き出しそうな声で叫びながら、フィオは半歩後退った。状況が分からないユルヴィは、隣でおろおろしているばかりだ。

 魔女は、甘い優しい口調で言いながら微笑んだ。アガートが見せたように、鮮やかな色に縁取られた唇を歪めて。

 「少し離れていなさいね? 終わったら一緒におうちへ帰りましょう。」

それから、フィオに向けていた表情とは全く違う、能面のような表情でロードのほうに向き直る。

 「ハルガート。アガートを消したのはこの若者?」

 「はい」

 「ふーーん。確かに変わった眼をしてる。でも魔力は感じないわねぇ」

じっ、とロードの眼を見つめ――

 「まあいいわ。先にこっちから片付けましょうか」

 「お母様っ?!」

まずい。逃げなければ、と理性では理解してるのに、身体が痺れたように動かない。指一本、ぴくりとも動かせない。

 その時、耳元で囁くような小さな声がした。


 『上だ、フィオを抱えて跳べ』


 「?!」

ふいに、身体を押さえつけていた見えない圧力が消えた。考える間もなく、彼は、横にいたフィオを抱えて力いっぱい上へ向かって跳んだ。そのとたん、身体が意図しない力で上空へ向けて引っ張られた。自分の跳躍力ではない。跳んだ力を増幅て、何かが上から引っ張り上げているのだ。と同時に、足のすぐ下をナイフのような黒い腕が通り抜ける。危ういところでハルガートの腕をかわせたのだと、ロードは思った。

 彼は、フィオともども広場に面した屋根の上に着地する。ほとんど衝撃はない。顔を上げると、すぐ隣の屋根の上にレヴィがいた。

 「…へえ」

魔女は驚いた様子もなく微笑み、屋根の上を見上げる。

 「他人にも適用できるようになっているなんて。この短期間に、随分腕を上げたこと。」

 「こっちも命掛かってるんでね。"森の賢者"テセラ… "海の賢者"から呪文の断片を奪っただけじゃ足りないのか? "創世の呪文"を集めて、一体何をしようとしてるんだ?」

広場は悲鳴と怒号が響き渡り、人々が逃げ惑っているというのに、不思議とレヴィの声だけがはっきりと聞こえた。遠くで雷が鳴っている。雑音の消えた世界は、やけに静かだ。

 魔女テセラは、微笑みを浮かべ、頭に手をやる。

 「雨が降り出す前に終わりにしましょ。」

まとめた髪がほつれていないか気にするような、さりげない仕草で髪止めのピンを引き抜き、それをシャン、と振った。途端に手の中に人の背丈ほどの長さの杖が現れる。

 「町中でやんのかよ! …くそっ」

舌打ちして、レヴィはロードのほうを見る。

 「後ろの<影>の奴、狙えるか?」

腰からナイフを引き抜きながら、ロードは答える。

 「建物が邪魔しなきゃな」

 「なら、あっちからいくとするか!」

言うなり、レヴィは小さく何か呟くと、ロードの腕を掴んで宙に身を躍らせた。頭上で雷鳴が轟き、さっきまでレヴィのいた場所が光に打たれたのは、その直後だ。

 「やめてよ、お母様!」

フィオの叫び声が暗い空の下に響き渡る。

 着地すると同時に、ロードの足元も雷がえぐる。熱風で、前髪がちりちりと焦げる匂いがした。

 振り返ると、さっきの場所から一歩も動かないままテセラが微笑んでいた。彼女が杖を掲げると、頭上の雲の間から雷が降り注ぐ。避けきれない。

 そう思ったとき、頭上で光が飛び散った。レヴィだ。視界の端で、彼は何か呟きながら手を翳している。途端に、辺りがまばゆい光に包まれた。

 反射的に目を閉じかけて、ロードは、それが全く眩しくないことに気がついた。フューレンで見せたあの時の光と同じだ。理解すると同時に、身体は勝手に動いた。手にしたナイフを、ハルガートめがけて放つ。ハルガートがのろのろと動いて防御しようとするのを見て、さらにもう一本も。だが。

 ナイフが命中した、と思った直前、かき消されるようにしてレヴィの魔法の光が消えた。動きの戻ったハルガートが、素早く腕をふるってすんでのところで二本目のナイフを叩き落した。ち、とレヴィが舌打ちする。

 「やっぱ、打ち消し早ぇ…」

 「たかだか二十何年生きただけの若造が、この私を出し抜けると思って?」

柔らかい口調が、かえって底知れない恐怖を植えつける。テセラの視線が横に動き、ロードに固定された。

 「やっぱり邪魔だわ、…その眼」

杖が、つ、と向けられる。頭上で雷鳴が轟いた。向こうで、レヴィが怒鳴った。

 「ロード、飛ばすぞ!」

 「飛ばす? え… うわっ」

横から何かに突き飛ばされるようにして、ロードの身体が文字通り吹っ飛ばされた。死なない程度の勢いだが、決して優しくはない。ハルガートのほうはレヴィめがけて突っ込んでいく。とっさに鴉の姿に変わって避けたレヴィだったが、次は頭上から降り注ぐ雷だ。ハルガートの身体が崩れ、いつか見た巨大な蛇のような姿に変わったかと思うと、狭い建物の間へ飛び込んだレヴィを追いかけていく。

 はっとして顔を上げると、目の前にテセラがいた。手には杖を持っている。

 「――くそっ」

何か武器を。腰に手をやったとき、太陽石の短剣の柄に触れた。黙ってやられるわけにはいかない。思い切り振るった短剣が、テセラの腕に触れた。予想外の動きだったのか、魔女はちょっと驚いた顔をして、ふわりと後ろへ跳ぶ。その胸の辺りに青白く輝く光があるのに、ロードは気がついた。


 明滅する光。魔石とは違う輝き。

 レヴィの胸元に視えているものと同じ。

 なぜ、この光は…


 一瞬、意識をとられた瞬間、耳元で、ばさばさっ、と羽音がして、横から身体が宙に持ち上げられた。

 「わっ、ちょ」

鴉が上着の端を咥えてレヴィを吊り上げている。その後ろからは、<影>の蛇が牙を剥き、大きく口を開けて追いかけてくる。足の下のはるか下には町並が広がっている。敵の口の中だろうが地面だろうが、落ちる先には地獄しかない。ロードは引きつった表情で必死に腰に手をやり、三本目のナイフを抜くと、空中を引っ張られながらハルガートの蛇めがけて放った。急所に当たらなくても、手痛い目にあわせることはできるはずだ。ハルガートが、一瞬ひるんだ。その隙をついて、レヴィが速度を上げた。

 地表から光が放たれたのは、ちょうどその時だった。光の玉は蛇の尾に命中し、ハルガートは<影憑き>の声を上げながら大きく身体をくねらせる。

 「ギギギ!」

見下ろすと、通りに黒ローブたちが駆け回っていた。こちらを指差し、何か叫んでいる。ハルガートを攻撃対象と認識して攻撃しているのだ。彼らも、ある意味では援軍だ。

 しかし、ほっとするのも束の間、レヴィが急降下を始めた。

 「お、おい…」

ぐんぐん近づいて来る地面に、一瞬、激突するのではないかとぞっとしたが、流石にそんなことはなかった。地面に降り立つ直前になって、レヴィはロードを嘴から解放し、自分も元の姿に戻ってふわりと降り立つ。空を飛びまわったせいでくらくらする頭で、ロードは周りを見回した。

 風景に見覚えがある。どうやら、今いる場所は元いた広場からそう遠くはない路地裏のようだ。

 ロードは、腕輪に意識を集中させてみた。最初に投げた二本のナイフがかすかに反応する感覚がある。ギリギリで引き戻せる距離に落ちているようだ。

 「はー、覚悟はしてたが、やっぱキツいな」

隣で呟いたレヴィの足元に、ぽつりと最初の雨粒が落ちた。それは最初は糸のような細い雨で、やがて辺りの風景は、うっすらとした霧のようなものに包まれていく。

 「いたか?!」

 「敵は男女! 報告にあった、<影憑き>と行動していたという謎の二人組みの可能性が――」

表通りのほうからは、走り回る<王室付き>たちの緊迫した声と足音とが響いて来る。ロードは、回収したナイフを腰に戻しながら、ちらりとレヴィのほうを見た。

 「お前のことだ、何か策はあるんだろ?」

 「…成功率低いけどな」

 「心配はしてない。」

ロードがこともなげにそう言うと、振り返ったレヴィは、何故かむすっとした顔で呟いた。

 「お前はさあ、そういうところが…」

 「何だよ。」

 「…何でもないよ。」

広場のほうに向かって歩き出すレヴィの後ろに続いて歩き出す。広場では、テセラが黒ローブの魔法使いたちに取り囲まれているところだった。

 「市街地での無許可の魔法の行使は禁止されている。貴殿の身は拘束させてもらうぞ」

 「あらあら、困った子たちね。あなたたちに用はないし、雨が降り出す前に終わらせたかったのに」

微笑みながら、テセラは周囲にいる十人ばかりを見回した。黒いローブの魔法使いたちは、正体不明の相手を前にして攻めあぐねている。だが、彼らが本気であることは見て取れた。愛てが敵である以上、この町を守るために戦わねばならない立場の人火度だ。テセラが次に何かすれば、間違いなく戦いが始まるだろう。

 そう思ったとき、彼女が予想もしない動作をとった。杖を降って髪飾りに戻すと、元通り髪に留めたのだ。

 「――仕方ないわね」

くすっ、と笑う。足元の石畳を打つ雨の音が、急に大きくなった気がした。

 「あななたちから先に…」

はっとして、レヴィが呟いた。

 「まさか…あの女!」

彼が駆け出すのと、広場に降り注ぐ雨粒がゆっくりと動きを止めるのとはほぼ同時。

 ゆるやかな最後の落下とともに細長いナイフ状へと形を変えた雨粒は、時間を巻き戻すように空に向かって吸い上げられると、今度は、自然の何倍もの速度で人間めがけて落下していく。

 飛び出したレヴィが手を翳し、空中に現れた見えない"壁"が雨の弾丸を弾き飛ばすのと、彼自身が攻撃を受けるのとは、ほぼ同時だった。

 「レヴィ!」

遅れて飛び出したロードがレヴィの前に立ちふさがる。そんなことをして何になるのかと自分でも思ったが、それしかとっさに取れる行動がなかったのだ。

 テセラの視線は、そんなロードを素通りして、庇い損ねて傷ついた片腕を押さえるレヴィに注がれていた。裂けた傷口から垂れた真っ赤な血が袖口を伝い、足元の水溜りに落ちている。

 「庇うわよね? だと思った。お前は、そういうところが先代にそっくりよ」

 「…じいさんじゃなくても、ふつーはそうするさ。普通の人間ならな。」

 「普通の? 何を言っているの? 永遠にも等しい命、絶大な力。私たちの仕事は、世界の維持、そして管理ではなくて? 個々の人間の生き死になんて瑣末な出来事、関知するものではないでしょう」

 「お前は…」

ロードは、初めて目の前の女に怒りを覚えた。それはレヴィも同じだ。

 「世界の王にでもなったつもりかよ」

吐き捨てるように言って、レヴィは空中にあった"壁"を解いた。せき止められていた雨が一気に降り注ぎ、水音が辺りにはねる。

 「何といおうと、あんたも所詮は人間だ。"創世の呪文"との接続が老化を遅らせても、肉体はいずれ限界を迎える。誰も寿命からは逃れられない」

 「黙れ」

冷ややかな声とともに、目の前の空間が光り、鈍い衝撃が打ち付けてきた。

 「くっ」

後ろで、レヴィが小さく呻く。どういう魔法かは分からないが、受け止めて、相殺しているのだ。

 「お前ら、離れてろ」

それは、周囲を取り囲んでいた黒ローブたちに向かって言った言葉だ。

 「しかし…民間人が…一体…」

 「早くしろ! お前らまで庇ってる余裕はない!」

レヴィの剣幕に押されて、<王室付き>たちは慌てて駆け去ってゆく。ロードは、テセラの形相が変わっていることに気がついた。先ほどまでの余裕に満ちた表情ではない。

 雨は激しさを増し、低い雷鳴が近づいて来る。


 「もう止めて、お母様!」


泥水を跳ね上ながら、足音が近づいて来た。フィオだ。レヴィの側に駆け寄ると、覚えたての治癒の魔法を懸命に唱え始める。

 「――退きなさい、フィオ」

 「嫌。こんなの間違ってる」

少女は、きっと魔女を見上げた。だが、その眼差しにも、魔女の表情はゆるがない。

 やがて、はあ、と大きな溜息が聞こえた。

 「…そう。お前も私に逆らうのね? シエラのように」

 「…え?」

額に指を当てると、テセラは、軽く左右に首を振った。

 「どうして皆、そう…育ててやった恩も分かれて、母に逆らうようになるのかしら?」

 「何を言って――」

 「大人になるのがいけないのよ。ずっと可愛らしい子供のままでいれば良いのに、どうして時は流れてしまうの…」

バサッ、と頭上で大きな羽音がした。雨空を背景に、大きくのたうつ<影>がゆっくりと、テセラの隣に舞い降りてくる。ロードは、腰のナイフに手をやった。ハルガートが人の姿に変わり、ちらりとテセラを見る。

 「ねえハルガート? この世界は間違っている、そう思わない」

 「思います。」

抑揚の無い低い声が答える。

 「だからこそ、あなたのお好きなように造り変えられれば良い。――新たな創造主よ」

 「そうよね。そのために、お前はこの世界に来たんですものね」

顔を上げて、女は微笑んだ。「さあ、"創世の呪文"を全部集めなくっちゃ…!」

 「来るぞ、こいつは…このままじゃ、勝ち目もない」

呟いて、レヴィは片手を上着のポケットに突っ込んだ。

 「お前らだけでも逃げろ。」

 「今更それはない」

即答するロード。

 「付き合うわよ」

と、フィオ。

 「はあ…。ま、しょうがねぇか」

雨に打たれながら、レヴィは困ったように、けれど、どこか嬉しそうに笑った。ポケットから何かを取り出して、ロードの手の中に押し付ける。ずしりと重たい金属の感触だ。

 「何だ、これ」

手の中を見下ろしたロードは、ぎょっとして周囲を見回した。

 「これ…<王室付き>の使ってる照明弾用の銃じゃないか! まさか、お前」

 「盗んだわけじゃない。官製品の闇流れだよ。あの道具屋、こういうのも扱っててさ。高かったんだからなー?」

それも違法スレスレではないのかとロードは思ったが、今はそんなことを言っている場合ではない。

 「奴は一度に複数の魔法を組み立てて多重行使できる。しかも組み立てまでの時間が凄まじく速い。ぼくには奥の手があるが、手の内がバレたら終わりで、使えるのは一度きりだ。打ち消されたらそれまで。」

息もつかずに早口に言い切ると、レヴィは、一歩ロードたちの前に出た。

 「―― 一瞬でいい。注意をひきつけてくれ。攻撃はぼくが防ぐ」

 「分かった」

答えた瞬間、ふっ、と周囲から雨の気配が消えた。

 雨が止んだのでは無い。レヴィとフィオの周囲だけ、見えない"壁"に包まれて、雨から守られているのだ。

 隣を見ると、レヴィは視線をテセラに固定していた。テセラの表情からも、最初の頃の薄い笑みは消えている。力量差はあっても、気を抜けば無事では済まされないことを察しているような顔つきだった。

 まるで剣の達人同士の戦いのような緊張がその場に満ちている。これが、並外れた力を持つ魔法使い同士の正面からの戦いなのだ。


 最初に動いたのはハルガートだった。


 一声吼えると、ロードめがけて腕を振るう。迎撃するのはフィオだ。腕ごと炎に包まれたハルガートが、雨に向かって呻く。

 「ロード、走って!」

フィオが叫んだ。ナイフを抜きながら、ロードは走る。昼間のはずなのに辺りは夕方のように真っ暗で、ひっきりなしに降り注ぐ雨は敷石の間を川のように流れている。

 頭上で眩い閃光が走った。ガラガラと空を割るような音が轟き、視界が真っ白に染まる。その向こうから伸びてくる黒い腕を、短剣で弾き飛ばす。叩きつけてくるぬるい風を感じながら、ロードは走った。レヴィが光と熱の衝撃を拡散させてくれているのだ。

 フィオの援護の炎が空中を踊り、ハルガートは次第に、テセラからは遠く離れた場所まで押しやられていた。背後にフィオの足音を聞きながら、ロードは驚いていた。以前とは、狙いの正確さも熱量も比べ物にならない。この数日で、フィオの扱う魔法は目を見張るほど上達している。

 ハルガートを追いながら、ロードは、ちらりとテセラのほうを見た。

 テセラはレヴィと向き合ったまま。そして、今いる場所は、テセラのちょうど背後、視界の外に当たる。今しかない。

 上着の内側に隠していた銃を取り出すと、彼は、銃の撃鉄を起こしてわざと声を張り上げた。

 「これで終わりだ!」

ちら、と視線をやったテセラの目の前に照明弾が発射される。何を撃ったのかは一瞬では分かるまい。弾は、防御のために生み出された壁の前、魔女の至近距離で弾けて、目を開けていられないほどの光であたりを真っ白に染める。

 「…っ」

ロード自身も、手を翳して顔を背けた。


 だが、予想していたようなことは何も起きなかった。


 光が収まった時、レヴィは元の場所に元通り立っていた。そして、辺りには静けさがあった。

 「…あれ?」

しばらくの間を置いて、雨音が戻ってくる。降りつける雨を感じるようになったのは、レヴィの"壁"が消えたからなのか。

 はっとして、フィオが言った。

 「お母様がいない」

言われてようやく、ロードも気がついた。照明弾を撃つまで目の前にいたはずのテセラの姿だけが消えうせている。ぽかんとしている二人の後ろで、ばさっ、と闇の羽音がした。

 「あ! 逃げる!」

フィオの声にはっとして、見上げると、翼ある蛇に姿を変えたハルガートが舞い上がるとこだった。自分一人では勝ち目が無いと踏んだのだろう。ロードは、レヴィのほうに駆け寄った。

 「何が起きたんだ… レヴィ! 何をしたんだ?」

 「飛ばしたんだ」

レヴィは、ぼうっとした様子で視線を広場に向けたままだ。何か様子がおかしい。

 「飛ばしたって。何処へ」

 「分からない。出来るだけ遠く――へ…」

ぐらりと身体がよろめいた。

 「あ、おい!」

とっさに受け止めた身体が、熱い。

 「レヴィ?!」

フィオも駆けつける。

 「やばいな。急いでどこか、寝かせられるところ――」

レヴィを背負って雨を凌げる場所を探しかけたとき、向こうから、黒ローブたちがばらばら駆けてくるのが見えた。誰かを探している。

 ロードは咄嗟に路地に飛び込んだ。さっきまでの戦いで、顔は見られている。ここで捕まったら、面倒なことになるに決まっている。

 「くそ、どっちに行けば」

左右を見回し、町の構造を思い出そうとしていたとき、脇から腕が伸びて彼の袖を掴んだ。

 「こっちです」

振り返ると、そばかす顔の青年が路地奥から手まねきしている。

 「ユルヴィ!」

それは、今の今まで存在を忘れていた人物だった。どこに隠れていたのだろう。

 「ついてきてください。誰にも見つからずに行ける道があります」

 「あ、…ああ」

考える余裕もなく、ロードたちはその招きに従った。雲はますます分厚く低く垂れ込め、強い雨が町と草原に、叩きつけ続けていた。

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