第2話 影の襲来と栗毛の魔女
コンコン、と軽いノックの音で目を覚ました。
「…ん」
ベッドの上に身体を起こすと、窓の外に傾いてゆく夕陽が見えた。少しだけ横になるつもりが、朝早かったせいで、いつのまにか寝入ってしまっていたらしい。
「起きてるか?」
ドアの外で、猟師アルの声がする。
「はい、支度していきます。」
「下で待ってるぞ。」
廊下の床板の軋む音が遠ざかってゆく。ロードは、椅子の背にかけていた上着を取り上げ、投げナイフをぶら下げるベルトを腰に巻いた。ナイフは全部で四本。柄の部分には揃いの白い石が嵌めこまれている。その石は、彼が右腕に嵌めた腕輪にあるものとそっくり同じ色だ。腕輪は単なる鉄の輪で、磨いた石をはめ込んでいるほか、何の装飾も無い。
宿の一階は、酒場になっている。階下に下りていくと、アルは開店前のカウンターに寄りかかって、宿の女主人、マリラと話をしていた。ロードを見て、日焼けした顔でにかっと笑う。
「それじゃ行くか。腹は減ってないか?」
「大丈夫です」
「気をつけてね」
女主人は心配そうな顔だ。「危なそうなら、無理せず戻ってくるんだよ。<影憑き>は町には入らないんだから」
「分かってるさ。なぁに、こいつもある」
アルは笑いながら、油を満たしたずしりと重いカンテラを掲げた。道中の灯り、というだけでなく、<影>が光を嫌うためだ。いざとなれば、それに火を灯せばいい。
連れだって森に入ると、一足先に夜の気配の迫る暗い木立の中から、ひんやりとした空気が漂ってくる。
「まだ、灯はつけるなよ。逃げられちまうからな」
「はい」
足元も覚束ない暗さだが、地元の猟師にとっては何でもないらしく、アルは器用に障害物を避けて先へ先へと歩いていく。けれどロードのほうはそうはいかない。彼の眼は、見えないものが見えることがあるだけで、視力がいいわけでも、夜目が利くわけでもないのだ。
暗がりを手探りで、どのくらい歩いただろう。
日が暮れてからもう随分になる。木立の合間から見える夜空には薄雲が流れ、月の光は弱い。しん、と静まり返った森の中は、昼間とは別世界だ。
先を行く猟師が脚を止め、周囲の気配を探っている。
「…妙だな」
「何がですか?」
「獣の気配がない。いつもなら、夜行性の連中が動き回っとるはずなんだが…」
確かに奇妙だった。森はしんと静まり返り、生き物たちが息を潜めているように感じられる。立ち止まっても物音は何一つ聞こえず、耳が痛くなるほどの静けさが辺りを支配している。
その時だ。
かすかに闇が動いた。音も無く、ゆらりと影が揺れる。
「…おじさん!」
ロードの声にアルが反応する。いつの間にそこに現れたのか。木立の間から、異様な金色の瞳がこちらを見据えている。
大きな鹿だ。枝角は、まるで頭から木を生やしているかのようだ。そして、その身体全体を覆うような濃い<影>が揺らめいている。
「こんな…」
こんな、大きな<影憑き>を実際に見るのは初めてだ。しかも、逃げようも無い至近距離で。
緊張は、声の震えとなってアルにそれが何者であるかを伝えた。猟師は素早くカンテラを置き、火打ち石を入れた腰の皮袋に手を伸ばす。しかし、その動きに気づいた鹿は、荒い鼻息とともに地面を蹴った。
「危ない!」
ロードは、とっさにアルを後ろから抱えるようにして地面に倒れこんだ。そのすぐ脇をを、枝角を振りかざした鹿の蹄が通り過ぎていく。
二人は、斜面を転がり落ちて木にぶつかって止まる。手から転がり落ちた火打ち石は闇の中。割れたカンテラから漏れ出した微かな油の匂いが辺りに立ち込めている。
「くそっ…」
アルは、呻いて肩を押さえている。血だ。完全には避けきれず、角に引っ掛けられたらしい。
「ケガを?」
「大丈夫だ。しかし…灯が…」
「戻りましょう、一度。応援を呼ばないと」
肩を貸して立ち上がらせようとしたとき、闇の中にひづめの音が響いた。はっとして振り返ったロードは、角をいからせながら身体を反転させ、こちらに向かって駆け戻ってくる鹿に気づいた。
「うわっ」
声を上げて、彼はとっさに地面に転がって避けた。まるでイノシシだ。細い木にも藪にもお構いなしに突っ込んでくる。
「なんて奴だ。<影憑き>が人間襲ってくるなんて、聞いたこともないぞ!」
闇の中からアルの声が響く。そう、あるはずがないことだが――現実に、今、目の前でそれが起きている。
「町まで走ってください、早く! こいつの相手は、おれが。」
傷ついた男を背後に庇うように斜面に立ちながら、ロードは素早く、腰のベルト周りに刺したナイフの柄を順に手の甲でなぞった。彼は、そのうちの一本を抜いた。腕にはめた腕輪にはめこまれた石が月明かりに輝く。
「…分かった! すぐ、応援を呼んでくるからなっ」
落ち葉を踏み分ける足音が、斜面を真っ直ぐ町のほうに向かって遠ざかってゆく。ロードは闇の中に目を凝らした。
あの<影憑き>は、ただの<影憑き>ではない。普通の<影>は、小動物くらいにしか憑かない。旅芸人の大人しい熊が突然暴れだし人間を襲ったという話と同じだ。初めて対峙するが――もしかしたら、これが<大影>というやつなのかもしれない。
荒々しい息が、木立の向こうから様子を伺っている。どこからだ。細身の投げナイフを構えたまま、神経を研ぎ澄まし、慎重に周囲を見回す。
と、いきなり、すぐ側の茂みが大きく揺れた。角に折れた枝を引っ掛けたまま、頭を下げて突進してくる。
「…っ」
目を狙って放ったナイフは軽く頭を振り、角で弾き飛ばす。だが、腰を落として鹿がすれ違う瞬間、彼は続けざまにもう一本を斜め下から放った。
腕輪の石が、微かな光を放つ。
その瞬間、ナイフは僅かに軌道を変える。確かな手ごたえ、細身の刃は深く喉元に突き刺さっている。鹿が奇妙な声で吼えた。
「ギ、ギギ、ギ…!」
金属の軋むような、耳障りな甲高い声だ。普通の生き物であれば急所のはずだが、<影憑き>には、大した効果は無い。
ロードは、次のナイフに手をやりながら、じりじりと後退った。
こちらの武器は投げナイフのみ。致命傷を与えることは出来ない上、素早さも力も相手のほうが上。倒すには昼間のウサギと同じように光で<影>を追い出すしかない。
弱い月の光が、頼りなげに草の上を滑ってゆく。
草を踏む音が近づいて来る。鼻息も荒く、鹿が戻ってきた。前足で地面を引っかき、威嚇するようなしぐさをすると、一気に跳躍した。
「この…!」
突進してくる鹿の勢いに、突き倒されないよう避けるのがやっとだ。彼はさらに二本、続けざまにナイフを放った。狙いは正確。一本はかわされたが、もう一本は分厚い毛皮を貫いて胴体に半ばまで突き刺さったが、血は流れず、鹿はびくともしない。避けきれない。身体ごと木の幹に押し付けられ、ロードは呻いた。
「ぐっ」
すんでのところで枝角を掴んだお陰で、なんとか串刺しにされずには澄んだ。だが背後は太い木の幹、身体は角と角の間に挟まり、身動きが取れない。
必死で踏ん張りながら、ロードは、地面に落ちているナイフに視線を走らせた。さっき投げて弾かれた二本が、まだ近くにある。一瞬でいい、スキが作れれば。ほんの一瞬でも、この押し付けてくる力が弱まれば…。
と、その時だ。
森の中で何かが光ったかと思うと、目の前を炎の塊が通り過ぎた。放物線を描いて飛んだ炎は、カンテラから漏れた油の上に落ちる。途端、ボッ、と音をたてて、光があたりを照らし出す。
「?!」
鹿の注意が逸れた。今だ。
ロードは右手を翳した。
(戻れ!)
腕輪の中心にはめ込まれた石が輝き、呼応するかのようにナイフの柄にはめこまれた石が光を宿す。空を切る音、銀の閃光が弧を描いたかと思うと、すっぽりとロードの手の中に収まっている。戻って来たナイフを掴み、彼は力いっぱい、至近距離から刃を鹿の眉間に突き刺した。
「ギィイ…!」
耳障りな声をあげ、鹿が大きく飛び退った。もう一本、ロードは空中で受け止めたナイフをお手玉のように器用に再び鹿めがけて放つ。そして、走りながらすぐさま戻るよう念じた。放たれたナイフは空中で向きを変えながら不規則に宙を飛び、再び彼の手の中に収まる。
鹿の足がふらついていた。
いくら<影>が動かしているといっても、元は生身の動物だ。死にはしないにしろ、急所を何度も傷つけられて、身体の機能が巧く働かなくなっているのだ。
その時ようやく、待ちに待った応援の声が響いた。
「無事か、ロード!」
町のほうから、明るい光が近づいて来る。アルを先頭に、松明やカンテラを手にした猟師仲間や、町の男衆が斜面を駆け上ってくる。
「ここです!」
彼が叫ぶまでもなく、彼らは、割れたカンテラから上がる炎を目指してやってきた。
鹿が呻いた。
周囲を取り囲むようにして掲げられた光に照らされて、その身体から次第に勢いが失われていく。ロードの眼には、<影>が抜けてゆくのが視えた。立派な枝角だけはそのままに、身体がゆっくりと変色し、崩れ落ちた。人々は、目の前で干からびて、みるまに骨だけに変わっていく大鹿を、息を呑んで見守っている。
「こいつぁ…、また」
すべての変化が終わったとき、真っ白な骨の山の上には、見事な角が王冠のように残されていた。
「ロード!」
アルが駆け寄ってきて、ロードを上から下まで見回した。そして、大きなケガがなく、掠り傷くらいなのを確かめてから、ようやく表情を緩めた。
「無事のようだな。よく、一人で持ちこたえられた」
「いえ…」
彼は、ちらと山奥のほうに目をやった。さっき炎の飛んできた方角だ。町とは反対側の斜面、そこに今も、誰かがいる。
「そこにいる奴、出て来いよ」
「ん?」
アルが灯りを掲げる。木陰で、小さな人影が動いた。
カンテラの光に浮かび上がったのは、ロードより少し年下のように見える少女だった。二つに分けて縛った髪は、ふわふわとした癖のある栗色。風変わりなデザインのケープに、大きな鞄を肩から提げている。
「女の子…?」
ざわめきが走る。
「何で、こんなところに」
「ここらじゃ見かけない顔だな。あんた何してる」
「あ、えっ…と」
少女は、視線を彷徨わせた。
「道に迷っちゃったの」
「はあ? こんな夜中に、こんなとこでか」
「近道しようと思ったら、森が意外に深くて。」
「ったく、なんて無謀なお嬢ちゃんだ。狼に食われなくて何よりだ。さ、一緒に町に戻ろう。」
町の人々が動き出す。
その動きについていこうとしたとき、ロードは、視界の端にかすかな違和感を覚えた。少女の胸の辺りに、ぼんやりと青白く輝いて見えるものがある。あの光は、確か…。
アルの連れてきた町の人々は、辺りに他の<影憑き>がいないか探索するために森の中に散らばっていった。ロードのほうは、報告のために町へ戻る一団に加わっている。さっきの少女も一緒だ。
<影>が抜けて躯となった鹿から持ち帰った立派な角は、報告を兼ねて町の広場まで運ばれた。子供たちは無邪気に大騒ぎしているが、周囲を取り囲む大人たちは心配そうな顔だ。その広場からは、森の中を行き来する灯りがちらちらと木立の合間に見えている。今回は鹿だったからまだ良かったものの、もし熊や狼だったら? もし同時に複数の<影憑き>が発生していたら? その心配はもっともなものだ。
話し声のさざなみの中、ロードは、宿の一階にある酒場の片隅で、マリラに傷の手当をしてもらっていた。
「はい、これでよし、っと。」
小太りな女主人は大仰に額の汗を拭い、ふうと大きく息を吐いた。「良かったわぁ、たいした怪我じゃなくて」
「掠り傷ですよ」
ロードは苦笑する。旅暮らしをしていれば、傷の一つや二つはすぐに出来る。普段なら、いちいち手当てもしない程度だ。
「だけどねえ。相手が相手でしょ? 変に化膿でもしたら嫌じゃない。何かあったら申し訳ないよ。あんたの母さんには昔ずいぶんお世話になったんだから」
「……。」
女主人は、ロードが口を閉ざしたことに気づかない様子で、たっぷりと肉のついたお尻を振りながら少女のほうに向き直る。
「ああ、それと、お嬢ちゃん。あんたのほうだけどね。良かったら今夜はうちに泊まるかい?」
「えっ、いいの?」
「もちろんさ、宿代はいただくけどね」
けらけらと笑いながら、女主人は去って行く。客室を用意するためだ。
近くに人がいなくなったことを確かめてから、ロードは、ちらりと少女のほうに視線をやった。
「お前は何者だ? ただの旅人じゃないだろ」
「何のこと?」
「その胸の辺りに、魔石を隠してるだろう。それに…さっきの炎は多分、魔法だった」
「…へえ」
少女は、ぱっちりとした目を大きく見開いた。「よく分かったわね、隠してたのに」
「やっぱりな。」
魔石、とは魔法を使う際に魔力の供給源として使われる特別な石のことだ。産地が限られるだけではなく、良質なものは滅多に手に入らない。しかも、扱えるか否か、どの程度まで力を引き出せるかは個人の体質に依存する。"魔法使い"と呼ばれるほどに自由自在に扱えるのは、ほんの一握りの人間だけだ。
「魔石が見分けられるなんて、そっちこそ何者なの。あんたのそれも魔石を仕込んであるんでしょ? どこで手に入れたの?」
言いながら、少女は、ひょいとロードが腰のベルトに提げたナイフを覗き込む。彼は咄嗟に上着の裾でそれを隠した。
「まずはそっちの話だ。あんた、魔法使いなのか?」
「ま、そんなところかなー。"魔女"って呼ばれることのほうが多いけどね」
椅子に腰掛けて足を揺らしながら、少女は髪をいじっている。
「どこから来たんだ?」
「西のほうの森よ。シルヴェスタっていうところ」
「シルヴェスタだって?」
ロードは思わず声を上げた。そこは、はるか西の小国が集まる地方の入り口だ。――子供一人で旅をするには、ここからでは、あまりにも遠い。
「知ってるの?」
「旅暮らしだからな、一応。けど…そんな場所から何でここまで。一体どこまで行くつもりなんだ?」
用心しながら、彼はそう聞いた。魔法使いは見た目も自在に変えられると聞いたことがある。それに、"良い"魔法使いと同じくらい、"悪い"魔法使いもいる。悪い魔法使いは、<影憑き>よりも遥かに危険な存在なのだ。そして、魔法使いの力の強さは、扱える魔力の強さ、つまり魔石のランクに比例する。石から漏れ出す強い輝きは、ロードの眼には、虹が明滅するように映っている。かなり強い力を持つ石だ。
だが、少女はそんなロードの警戒に気づいた様子もない。
「ちょっとした用事。ね、あんたも魔法使いなの? さっき<影憑き>を倒した時、ナイフが不思議な軌道を描いてたでしょ。変わった魔法よね?」
「あれは…魔法なんてものじゃない。ただの石の効力みたいなものだ。いいだろ、そんなことは」
「何よぉ、人に聞くだけ聞いて自分は内緒なんてズルイじゃない」
意味深に細められた瞳が覗き込んでくる。落ちつかない気がして、ロードは目を逸らした。
「手を貸してくれたことは感謝する。だが、もし何か悪さを――」
言いかけたとき、マリラが戻ってきた。
「支度できたわよ。今夜はもう休んだほうがいいわ」
「あっ、はーい! それじゃ話の続きはまた明日ね。あたしはフィオよ! おやすみー」
ロードの言葉も待たず、フィオは、無邪気な笑顔を残して階段を駆け上っていく。弾むような足取りにつられて、二つに分けた長い髪がウサギの耳のように弾んだ。
(シルヴェスタの魔女…)
西のほうには、この辺りと違って深い森の広がる地方が多い。シルヴェスタは、その中でもかなり奥まった小さな村くらいしかないような辺境の地名だ。一度だけだが近くまで行ったこともあるが、とても人が住んでいる場所とは思えなかった。
フィオと名乗った少女は、そんな辺境から来たという。本当に、一人でここまで旅してきたのだろうか。だとしたら、一体何のために?
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