第41話 虚と空の乖離





「ねえ、遊んで行かない?」


 そう声をかけられたのは新入生歓迎コンパの帰りだった。

 お酒を飲んでいて、それ以上に先輩たちの香水と化粧の臭いに酔っていて、僕は気分が悪くなってしまい、先に席を外した。その帰り。

 女の人に声をかけられた。

 黒くて長い髪のきれいな人。真っ赤な口紅が印象的な女性だった。

 その人に誘われるように路地に入って、それで、赤いネイルを見たその時、全てが真っ白になってしまったんだ……。

 気づけば、僕は部屋に寝ていた。

 酔っていたところを連れ帰ったのだとうつろが……。



 虚が存在しない?



 それじゃあ僕はどうやって帰ってきたんだ。

 一人で寝ぼけて帰ってきた? じゃああの女の人は?

 いや、ちがう。でも本当に? 本当に虚はいない?

 


 僕と虚。はじめから一人だった?


 まるで、ジキルとハイドだ。

 僕がジキル……虚がハイド?

 それなら僕は、虚を、兄さんを……僕は……。








 幽霊の女性と少女、真山美穂とその娘真山かおりを除霊したあと、茫然自失のまま、僕は進士くんの部屋につれてこられていた。

 進士くんは腕を折ってしまったらしく、「どうしたの」と問えば苦虫をつぶしたような顔をして、「虚がやった」と言った。僕はどう返せばいいのかわからず、沈黙を返すのが精一杯だった。

 今は腕を固定して首から吊っている。白塗沢さんが医療の心得があったとかで、進士くんの腕に治療を施したらしく、痛みも薬でなんとかなっているとんことだった。

 でも僕は、それをしてしまったことすら知らない。



「……本当に、僕だけ……」


 目の前にあるのは僕の部屋にいつの間にか仕掛けられていたカメラの映像。そこには布団にうずくまって一人で何事かをつぶやく僕の姿があった。

 この動画は、ほんの1時間前の動画。僕が虚と二人で部屋の中で話をしていた時の動画だ。

 でも、僕以外だれもいない。

 少女が映らないのは彼女が霊だからなのだとか。なら虚ろが映っていないのは?


「お前の別の人格だから」


 僕はただ呆然とその映像を見ていることしかできない。


「二重人格というものに詳しくはないですが、ほとんどはどちらかが体の支配権をもつことになるそうです。ですが、表屋くんの場合は同時に存在していると思い込んでいたようですからね……多重人格の前例をだしてもあまり意味がないと思います。だからこそ調査のしがいがあるというものですが……」


 と白塗沢さんがため息混じりに言う。彼は僕の──というより二重人格者の体がほしかったのだとかなんとか。

 でも僕はまだ、自分がそうなのだという自覚を持っていない。


「信じられない……」


 それが僕の純粋な気持ちだった。話を聞いてもすべてでたらめなんじゃ……そんな気がしてくる。

 でも、何度確認しても虚はいない。

 僕の部屋には虚の食器があって、でも使われた形跡はなくて、僕の携帯には連絡先があって、でもその先は音信不通で、そして誰も、僕と虚を同時に見てないのだという。

 今は虚は出かけてるんだ。と僕は思うのに、「どこへ?」「何をしに?」「いつ?」と尋ねられると、まるでほつれたよう糸のようにボロボロで、思考は千々に乱れて、答えられない。

 僕は、今までどうやって生活していたのだろう。

 隣に確かにいた彼は? あれは幻覚? 妄想?


 そして、死んだ真山美穂という人物……。

 あの夜話しかけてきたあの女性? まるで、そう、まるで母さんによく似た──。

 唐突に吐き気がして、僕は口を抑えた。

 

「ここで吐くなよ」


 なんて進士くんの辛辣な言葉を受けながら、僕はこみ上げてきたものを飲み込む。

 喉が辛くて、涙が出た。

 僕の背中を毒島さん──一笑がさすってくれる。

 けれど僕には礼をいう余裕すらなかった。

 

 虚が、殺したのだとしたら?

 本当にそうなのだとしたら?

 そして僕と虚がただ別の人格でしかないのだとしたら?

 僕は自分の両手を見た。

 そして思う。

 この手が、人の命を奪ったのだと。

 僕はもはや吐き気を抑えることができず、トイレに駆け込んだ。

 喉をせり上がってくるものを、躊躇せず吐き出す。胃の内容物をすべて吐き、出すものをすべて出して、それでもなお胃液を吐き出す。

 

 用はすんだからといなくなった潔子さん以外全員がここに、進死くんの部屋にいる中、僕の咳き込む音だけが聞こえていた。


「アンタ、これまでの引っ越しも全部、虚がきめてたんだろ」


 そんなふうに進士くんが部屋の中からのんきな声音で言った。

 僕はふらつきながら、もう一度彼のもとに戻ろうとして、しかしできずに廊下にしゃがみこんで頷く。

 そのとおりだ。今まで引っ越しは全部虚にまかせてきた。


「そのたびに、何人も女が行方不明になってる」


「え?」


 僕は再び青ざめた。これ以上ないというほど真っ白になって聞き返す。


「どういう……」


 進士くんは興ざめと言った様子で床に紙をばらまいた。

 紙には数名の女性の写真。

 その全てが……。


「黒髪、口紅赤くて、それから夜のお仕事の人」


 毒島さんがつぶやく。その隣で僕は呆然と資料を持ち上げる。


「まるで、母さん……。じゃあ、母さんを殺したのも?」


「え?」


 僕のつぶやきに、毒島さんと白塗沢さんが反応する。しかし進士くんはそれすらもわかっていたのだろう。

 大仰に頷くと、僕に一つの新聞記事を差し出した。


「今から12年前、2006年の今頃。アンタの母親が遺体で発見された。死因は絞殺。殺されたあとに雑木林に捨てられてたらしい。でも犯人がつかめないまま事件はお蔵入り。生き残った一人息子は……母親が死んだとき眠っていたと証言している」


 つまり、そういうことだろ? と進士くんは付け足した。

 それじゃあ、それじゃあもう間違いなく。


「虚が、母さんを、殺した……」


 違う。僕が、僕が殺したんだ。

 僕の体が。

 どうして? とは不思議と思わなかった。

 だって母さんは、いつも僕を置いていってしまう。そしてたまに帰ってきては食べられないものを置いていく。僕はいつもそれを食べていた。

 ときには殴られて、閉じ込められて、僕はいつもひとりきり。 

 苦しかった。

 辛かった。

 そういうときは眠っているうちに恐怖が去っていくものだった。食べ物だって、気づけば虚が取ってきてくれていた。


 あれはすべて、僕が作り出したもう一つの人格……虚がやったことだった。

 

「もう、いい」


 僕は言葉を絞り出した。

 もういい。もう十分だ。


「よく、わかったよ」


「空くん?」


 一笑が心配そうに僕をみる。それを視界の端で捉えながら僕はおそらく、虚にとって一番言ってはいけない言葉を口にする。


「僕には、もう」


 ごめんよ、虚。


 今までありがとう。


「虚は必要ない」



 遠くで、何かが壊れる音がした。

 そんな気がした。




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