第26話『北淀美依』

 それからすぐに久住桜雪くずみさゆきは出社し、退院手続きは北淀露樹ほくでんつゆきがしてくれた。パトカーで送ると言われたが、北淀美依ほくでんみよりは丁重に断った。

 悪目立ちするだけだ、乗りたくない。

 しかし病院を出て、南寺静馬みなみじしずまと会話という会話もなく駅を目指して歩く中、もしかしてコイツと二人きりならまだパトカーの方がマシだったのでは、という考えが沸き起こる。

 それだけ、北淀美依は南寺静馬の隣りを心地悪いと感じていた。

 南寺静馬は先程の久住とのやりとりの足から機嫌があからさまに悪くなっていたので、もう北淀美依は生きた心地がしなかった。


 兄の様子では二件の婦女暴行殺人の犯人は南寺静馬ではないようだし、あの兄もそれに関して南寺静馬を疑う素振りもない。そうなると、やはり、北淀美依の考えすぎだったのかと思った。

 しかし、まさか犯人かどうか疑っていたか、なんて知られた日にはどうなるか。

 絶対バレないようにしなくては。

 北淀美依がそう自分に言い聞かせている。だけど。


「そういえば美依、俺をこの間の二件の事件の犯人だと思ってたんだって?」


 前を歩く南寺静馬が突然そう言い出すので、思わず北淀美依は抱えていた久住からの花束を落としてしまう。ぐしゃりと落ちる音に南寺静馬は振り返り、無様に様子の花束を見て楽しそうに笑うが、その笑顔にすら北淀美依は恐怖を感じる。

「……それを何処で」

「美依、昨日樢上さんに会っただろう? 様子が変だったって教えてくれたんだ。勿論樢上さんは、美依が俺を疑ってるなんて一言も言わなかった。あの人は優しいから美依を気にかけただけ。でも俺は樢上さんの話とここ最近の美依の態度で得心が行った。ひどい話だ、まさか俺を疑うなんて」

 南寺静馬は笑顔を顔に貼り付けたままそう語る。

 北淀美依はそんな彼の顔を直視することができず、俯いて落ちた花束を見ていることしかできない。

 ……もしかして、久住より自分が死体になるのが早いのでは?

 北淀美依は震え上がる。こうなったら逃走しかないか。いやしかし、走って逃げたところでどうにもならない。マンションは隣り、会社も一緒。実家も知られている。逃げ場所なんてない。そんなことを考えていたが、南寺静馬は地面に落ちたままの花束を拾い上げて北淀美依に差し出す。

「いつまで放置してるつもりだよ」

「……ありがと」

「どういたしまして」

 南寺静馬はそう言うとまた歩き出す。北淀美依も黙ってその後に着いていく。

 彼女は花束を抱え、前を歩く南寺静馬の背中を見る。

 なんだか、今は怒ってる感じはなかった。怒ってないのか?

 あまり静かな彼に北淀美依は気味の悪さを感じるが、そんな彼女の察しているのかいないのか、南寺静馬はまた話し出す。


「まあ、仕方ない話ではあるけどね。俺が美依の立場でも疑うね」

「……もっと怒ると思ったわ」

「意外と怒りはない。でもちょっとガッカリした」

「ガッカリって何に対してよ」

「あれを俺の仕業だと思われたこと。あんな雑な仕事するわけないだろう? 何年の付き合いだ。俺だったらまず死体なんて見つけさせないよ」

 そう冗談ぽく南寺静馬は言うが、北淀美依にはとても冗談には聞こえず「ソウダネー」と熱の篭っていない返事をする。

 南寺静馬はそれがわかったのか、ふふっ、笑いながら振り返る。

 そして―――


「でも俺が本当に人を殺したら、美依、どうする?」


 そう問いかける。

 いつも北淀美依が考えていたこと。

 その日は来るのか。

 北淀美依は微笑む南寺静馬を見上げる。

「……正直に言うと、今回の件でかなり疲れた。疑って心配して嫌になって。でもただ空回ってるだけで」

「そうだね、すごく空回ってた」

「そういうの本当に疲れた。だから、もし、アンタがこれまでやってきた犯罪に満足できなくなって、人を殺してしまったら私に言って。アンタを殺して私も死んでやるから」

 もうそれしかない。

 うだうだ考えて悩むなんて疲れるだけ。

 その日が来たら、もうこうするしかない。

 この決意を言葉にして、南寺静馬本人に言ってやったが、北淀美依の中でこの決意はとてもすんなりと心に落ちた。少し気分が軽くなる。

 対して、ある種の心中宣言をされた南寺静馬は一瞬だけぽかんと彼女の言葉に面食らったようだったが、すぐに先程とは比べ物にならない大きな声で笑い出す。

 行き交う通行人たちは、とても見てくれだけは良い男性が愉快に笑っている姿を一瞥するだけで、特に気にせず歩いて行ってしまう。

 北淀美依としては別に彼の大笑い姿が見たかったわけでもないのに、大笑いを食らって怒りが沸き起こる。殴って黙らせようかと思ったとき、南寺静馬はひいひいと息を整えながら北淀美依に向き直る。


「本当に美依は……俺を笑い殺す気か? まだ誰も殺してないって」

「ほんともうアンタ一人で今すぐ死んで」

「嫌だね。美依が俺と一緒に死んでくれるって言ったのに」

「一緒にとは言ってない。アンタを殺してから、私も死ぬって言ったの」

「同じだと思うけどな」

 南寺静馬は楽しそうに笑う。

 何故楽しそうなのか、北淀美依には理解できない。何だか揶揄われているみたいでやっぱり腹が立つ。


「でも、それなら滝がいいな。一緒に滝壺に落ちるのが良い。だって美依は俺の敵だからね」

「何それ」

「シャーロック・ホームズだよ。宿敵モリアーティ教授との戦いで、ホームズは教授と一緒に滝壺へ落ちるんだ」

「コナン・ドイルは読んでない」

「俺が教授で美依がホームズなら、美依は生き残れるかもね」

「?」

 南寺静馬はそう言うと、また前を見て歩き出す。その足取りは軽く、やっぱり楽しそうに見えるのが腹立たしい。

 何だ、何が言いたいんだ。

 北淀美依はただ只管不愉快な気持ちになっただけで、南寺静馬の意図は全く理解できなかった。

 ……いや、この男を理解するのは、それは『異常』への転落だ。絶対にあってはならない。

 北淀美依は彼の背中を見ながら、どっと疲れに襲われた。


 それはこの男との切れない関係が始まって十年目を迎えた四月の話。

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