第19話『暗転』

 北淀美依ほくでんみよりの涙が落ち着く頃には、樢上西駕もくじょうさいがに借りたハンカチは随分水分を吸ってずっしりと重くなっていた。こんなことになってしまったハンカチを返せるはずもなく戸惑っていた。

 こんなに泣いたのはいつぶりだっただろうか。

 何年分の涙が全部出てスッキリした。

 北淀美依はまだ目元に残っている涙を拭っていると、不意に水のペットボトルが樢上から差し出される。驚きつつ受け取るが、一体何処で、と考えるが樢上の背後、数メートル離れた自動販売機があるのが視界に入りわざわざ買ってきてくれたことを察する。

「ありがとうございます」

「いえ、私も酒が入っているので水分補給を」

 そう言うと樢上は手にしていたもう一本の水のペットボトルの蓋を開けて水を飲む。北淀美依もそれを見て同じように蓋を開けて水を飲む。

 身体の中の水分が随分無くなっているのか、含んだ水が染み入る感覚に泣いて熱くなった体温も下がってくるのを感じる。

 気分が落ち着いて、北淀美依は大きく息をついた。

 彼女が落ち着くのを確認できたからか、不意に樢上は口を開く。


「かなり深刻なお悩みのようですし、お兄さんに相談されてはどうですか?」


 そう言われ、北淀美依は思わずしかめっ面を樢上に向けてしまう。その様子に樢上は楽しそうに笑う。

「……樢上さんも冗談言うんですね」

 北淀美依がぼやくと、老紳士は朗らかに笑って「本心ですよ」と呟くので、思わず顔をしかめてしまう。

「兄に相談するのは……ちょっと」

「何故です? 彼以上に頼りになる人もいないでしょう? きっと今回の事件が起こって貴女のことを心配されているのでは?」

「そうですね、電話は来てます」

 北淀美依は水を飲みながら、数日前に兄・北淀露樹ほくでんつゆきから早朝に電話があったのを思い出す。あの後も頻繁に安否確認というか、彼女を気にかけるメールを頻繁に入れてきている。

 あのシスコンめ。仕事中にもメールを打っている姿が容易に想像できてしまい頭を抱えたくなる。

 樢上は、露樹と面識があり、彼の『妹思い』なところを知っている。そのため、きっと、北淀美依同様彼が妹のことを心配している姿が想像できてしまったのか朗らかに笑うばかり。

「良いお兄さんじゃないですか」

「そうなんですけど……実家に帰ってこいって言うんですよ。通勤の時は送るからって、社用車で」

「良いじゃないですか。日本一安全なドライブですよきっと」

「やっぱり樢上さん冗談言うじゃないですか」

「はっはっは。でも、本当に悩んでいるなら露樹くんほど心強い人もいないでしょう」

「……」

 確かにその通りなのだ。兄は面倒くさい人だけど、やっぱり頼りになる。それは生まれてからずっとわかっている。

 だけど。

 いや、だからこそか。

「お兄ちゃんに頼るのは、その、最後の手段っていうか、本当にどうしようも亡くなった時かなって思ってて」

 何だか言っていて北淀美依は恥ずかしい気分になりながら呟く。きっと樢上も笑っているだろうなと、顔を上げるが、樢上の視線は北淀美依にはなく何故か背後の自動販売機の方へと向いていた。不思議に思い、老紳士の顔を見るとその表情に笑みはなく厳しい表情で思わず息を呑む。

 樢上は自動販売機の方を睨むように見つめて「いつまで其処にいるつもりですか」と少し強い声色で言う。

 北淀美依は老紳士の言葉にぎょっとする。

 それはつまり誰かが樢上とのやり取りを聞いていたということなのか。

 一体誰が、そう思ったが北淀美依の脳裏にはまず南寺静馬みなみじしずまの顔が浮かぶ。

 やばい、今度こそ絞め殺される。

 北淀美依は血の気の引くような感覚に襲われ、思わず自分の首に触れる。

 しかし自動販売機の真横の路地から姿を現したのは、南寺静馬ではなかった。


 出てきたのは伊藤だった。


 樢上は見ない顔であったため厳しい顔つきのままだったが、北淀美依にしては新しくできた後輩。その姿に彼女は思わず「伊藤くん?」と声をかけてしまう。

 伊藤は俯き気味だったが、北淀美依に声をかけられ恐る恐る顔をあげる。その表情は暗く、血の気が引いているようにも見えた。酷い顔色だ。

 樢上は、北淀美依の様子に出てきた男が彼女の知り合いだとわかり「お知り合いですか?」と表情を崩す。

「ウチの新入社員です」

 そう説明するが、北淀美依の頭の中では、何故彼がこんなところにいるのか、何故自分たちの話を聞いていたのか、もしかして南寺静馬を疑っていることを知られてしまったか、など様々な疑問が舞う。

 とにかくこの話は何でもないということを説明しなくては。もし万が一会社で噂にでもなればとんでもないことになる。そう思い、北淀美依は伊藤に近づこうとする。だけどそれを拒むように伊藤は口を開いた。


「北淀さん、やっぱり知ってたんですね」


 静かな路地に伊藤の声が響く。

 その声は震えて、北淀美依にも歪に聞こえた。

 一瞬、彼が何を言っているのか北淀美依もわからなかったが、今しがた自分が口にしていた言葉を思い出して背筋を冷たいものが落ちる。

『自分の知っている人が、人を殺しているかもしれない』

 もし彼がそのことを指しているとしたら。

 伊藤は、やっぱり、と言った。それはつまり、彼も北淀美依同様、南寺静馬の犯行を疑っていたということなのか。

 彼は一体何処でそのことを知ったんだ。聞きたい。

 北淀美依は「伊藤くん、それどうして」と尋ねるが、伊藤は途端に走り出してしまう。

「えっ、ちょっと」

 北淀美依は咄嗟に追いかけようと一歩踏み出すが、樢上のことを思い出して振り返る。

「すみません、樢上さん、私ちょっと追いかけます!」

 そう言うと、北淀美依は伊藤を追いかけて走り出す。

 残された樢上は手にしていた杖で足を軽く叩いて肩をすくめる。

「お若い方には追いつけませんね。さて……」

 樢上はジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出す。そして連絡先の一覧から『北淀露樹』を探しコールしようとするが指を止める。北淀美依が、彼を頼るのは最後の手段だと言っていたのを聞いていたからだ。

「……」

 樢上は別の誰かを探すと、コールし始める。

 数秒して相手が通話に出ると、「もしもし樢上です。今よろしいですか?」と穏やかな口調で話し出した。


 ***


 パンプスで走るのは辛い。

 すぐに見失ってしまうかもしれないと思ったけれど、幸いにも伊藤は駅から反対の方向へ走っているおかげで北淀美依は何とか追いかけることができた。

 伊藤は覚束無い足取りで、ふらふらと走っていく。

 北淀美依から逃げている感じはなく、何処か遠くへ行きたい、そういう足取りに思えた。

 こういう時の心理は北淀美依としては覚えがある。

 きっと追いかけて欲しくないのだ。

 でも、北淀美依としては、伊藤がいつ一体南寺静馬の犯行だと思ったか知りたい。もし明確な証拠があるなら……。

「(もしそんなものが有ったら、私は静馬を突き放せるのか)」

 これまではずっとそうしてやると自分に強く言ってきた。でも、確かな可能性が出てきた時、揺らいでる自分に気付いて北淀美依は自分が嫌になる。

 結局あの男に絆されているんだ。

 そんなことを考えてる内に、どんどん伊藤は駅から離れていく。正直伊藤の姿を追いかけるのが精一杯で北淀美依自身、自分が今何処を走っているのか明確にわかっていない状態だ。

 だけどそろそろ走るのが辛くなってきて足を止めそうになった時、どうやら伊藤も北淀美依と同じだったようで徐々に走る速度が遅くなる。

 そして遂に伊藤の足が止まる。

 何処かの路地だが、場所がわからない。大通りに出れば大体の場所はわかるだろうが。

 北淀美依は息を整えながら、少し前でぜえぜえと呼吸を繰り返す伊藤に近づく。


「伊藤くん……」

 北淀美依が声をかけると、伊藤はびくりと肩を震わせて勢いよく振り返る。その様子から、彼はまさか北淀美依が自分を追いかけているとは夢にも思っていなかったようだ。

 彼は真っ青な顔だった。まるで幽霊を見ているかのような青ざめっぷりだ。

「北淀さん、どうして……」

「伊藤くんが気になって……。それにさっきの話、詳しく聞きたくて」

 北淀美依がそう呟くが、伊藤はまるで錯乱しているかのように頭を掻き乱し弱々しくその場にしゃがみ込む。

 一体どうしたと言うんだ。

 北淀美依は伊藤の様子に面くらいつつ、一歩ずつゆっくりと近づく。

「伊藤くん、大丈夫? どうしたの?」

 そう問いかけると、伊藤はしゃがみ込み項垂れたまま「どうして追いかけて来たんですか」とぼそりと呟く。

 その言葉は恐ろしいほど低く、北淀美依はぞっとする。

 まるで大変なことを仕出かしてしまったような、恐ろしい感覚。

 どういうこと?

 北淀美依がそう尋ねようと口を開くが、それより先に伊藤の声が北淀美依の耳に届く。


「すみません、北淀さん」


 伊藤が顔をあげて北淀美依を見た。その顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。まるでついさっきの自分のようだと思ったが、どうして謝られているのか、と考えた瞬間北淀美依は自分の意識が突如遠のいた。

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