第12話『欲情の矛先』

 最悪な朝を迎えたと言っても過言ではない。

 二件目の婦女暴行殺人事件が起き、よりによってその日南寺静馬みなみじしずまは朝になって帰宅したのだから。

 ヤツの犯行だ、と言い切ることができないが、否定する根拠もないことを北淀美依ほくでんみよりは理解していた。

 北淀美依は頭痛が増していく感覚に、本来の起床時間までの二時間を寝直すなんてことが到底できるはずもなくベッドに転がりながら解決策を考えるが、疲れきった頭で良いアイデアが浮かぶはずもなくただ時間を無駄にして起床時間を迎えた。

 三月の事件から今日まで、正直ぐっすり眠れた日があったか。不安からどうしたって眠りが浅くなってしまう。

 そのせいか、ここ最近の北淀美依の顔色は良くない。肌もやや荒れていて、目の下には濃い隈ができてしまっている。今日は特に隈が酷い。

 北淀美依は洗面台の鏡に映る自分の姿に、まるでホラー映画の登場人物を連想した。

 青白い顔に、濃い隈。唇の色も悪い。

 これも全部隣りの部屋のヤツのせいだ。

 そう思いつつ、どうすればこの隈を誤魔化せるかと溜息をついた。

 とはいえ。

 今日は南寺静馬も似たようなものだろうと高を括っていた。

 睡眠もあまり取れず、疲れ顔を晒すが良い、くらいの意地悪なことを考えていた北淀美依だったが、出社時間にいつもと変わらない完璧な佇まいで現れた南寺静馬が「酷い顔だな」と北淀美依を見るなりそう呟く様子に、とても言葉では言い表せない程のムカつきと苛立ちに襲われた。

 誰のせいだと思ってのか。



 この日は出社すると、既に昨晩の出来事の噂が蔓延していた。

『二人目の婦女暴行殺人』。

 ではなく、南寺静馬が久住桜雪くずみさゆきを送っていったという話だ。

 彼らには周辺で起こった殺人事件よりも、社内の男女の事情の方が重要なのだ。徒歩で移動できる距離で二人の女性が死んでいても、それはきっとテレビの向こうの遠い出来事で、自分たちには関係ないことだと思っている。いっそ、自分もそう思えたらと、北淀美依も考えずにはいられない。

 周囲の人たちの勝手な話を聞き流しながら北淀美依は、自分は無関係であると涼しい顔で仕事している久住を見る。

 見て、実は安心した。

 生きていた。

 もしかしたら彼女は『三人目』になっていたかもしれないと縁起でもないことを考えつつも、北淀美依は昨日一瞬でも想像してしまった久住の絞殺死体が現実になっていなかったことにただ安堵する。

 正直久住に対して苦手意識が強いが、それでも何もなくて良かったと心底感じた。

 しかしながら、ふと、疑問も生まれた。


 南寺静馬は何故、久住を送っていったのだ。


『MAE』に入社して四年目になるが、今まで一度も女性の誘いに乗ったことがなかった。それは社会人として働き出す以前の、大学でも、高校時代でもそうだ。

 南寺静馬は自身のその『異常性癖』を自覚するまでは、少なくとも何人かの女性と男女交際をしていたことは最初に語っていた。

 しかし北淀美依に対して自身の秘密を打ち明けてからは、北淀美依が知る限り男女交際というものを行っていないはずだ。相変わらず顔も表面上の人当たりも良かったから女性からの人気は凄かったが、特定の誰かを作っているのを見ていない。

 いっそ、そういう女性が居てくれれば、表向き南寺静馬の『親しい友人』というポジションに収まることになった北淀美依への風当たりは優しいものになっていたはずなのだが。

 一度気になって、誰かと付き合おうと思わないのか、と訊いたことがある。南寺静馬はあっさりと、誰かと付き合ったとしてそいつに勃つかわからないだろ、と女性がドン引きするような回答をされた。北淀美依、高校二年夏の出来事だった。

 あの時はヤツの発言に心底引いたが、南寺静馬の危ない遊びの被害に遭う女性が増えないことは良いことだと思うようにした。

 今になっては、そんなこともあったなあ、という灰色の思い出ではあるがふと北淀美依はある可能性を過ぎらせる。


 もしかして、南寺静馬は久住桜雪に対して特別な何を感じ取ったのか。


 それは所謂『恋情』のような。それとももっと本能的な『欲情』のような。

 久住桜雪は南寺静馬に何らかの変化をもたらしたということなのか。

 ……昔の、例えば高校生の北淀美依は素直に喜んだだろう。これで南寺静馬からの奴隷とは言わないが、受けていた不当な扱いから開放はされないものの激減するだろうと考えていた。

 今は、南寺静馬の『恋人』になる人間は、彼によって殺されるのではないかと思っている。


 ***


 一度だけ、南寺静馬に首を絞められたことがある。

 高校三年生の冬だった。受験が終わった直後で、もう後は卒業式を残すだけで授業もなかった頃のことだ。

 三年連続で引いてしまった図書委員の仕事で、学校の図書室にいた時だった。同じクラスの図書委員はいつだってサボるので、どうあっても北淀美依が一人で当番をするしかない。とはいえ、大学も合格している彼女には心の余裕があり、この時南寺静馬の進路を知らない北淀美依は、卒業と共に南寺静馬と疎遠になると信じて疑っていなかった。

 誰も本を借りに来ない静かな図書室。

 北淀美依は暇ということもあり、間違った棚に戻されている図書がないか見て回ることにした。それくらい時間を持て余していたのだ。

 始めて半時間した時に、彼女は図書室の扉が開く音を聞いた。

 誰か来た、本の返却なら対応しないと。

 そう思って本棚の間から顔を出して、やってきた人物を確認して顔をしかめた。

 南寺静馬だった。

 だけど別に不思議なことではない。南寺静馬は普段から図書室を利用している生徒でもある。それは北淀美依の当番が有る無しに関わらずだ。その証拠に手には難しそうな学術書があった。返却に来たのだと思った。だから特に何の警戒もなく彼女は彼に近づいた。

 だけど、あと三歩という距離で北淀美依の視界が反転した。

 突然腕を掴まれ彼の方に引き寄せられると、そのまま足を払われる。北淀美依はバランスを崩して、図書室の固い床に尻餅を着いたが、まだ何が起こったのか理解が追いつかなかった。

 きっと間抜けな顔で南寺静馬を見上げていたのだろう。

 南寺静馬はそんな北淀美依の太ももを両足で挟むように馬乗りになると、此処が学校であることや相手が顔見知りであることなど全てどうでも良くなったかのように、両手でしっかりと北淀美依の首を掴む。

 冬の寒さで冷たくなった南寺静馬の長い指が、自分の首を這う感覚に北淀美依は漸くこれから何が起こるのかを察してしまう。

 嫌だ、止めて。

 そう叫ぼうとしたがそんな言葉が飛び出す前に、南寺静馬の両手の指が首の皮膚に食い込む。

 苦しいのと痛いのと。

 上から押し付けられる圧迫感と、何故自分がこんなことをされているかわからないという恐怖が襲う。

 助けて、止めて。

 これでも必死で抵抗しようと、北淀美依は南寺静馬の手首を掴み自分の首から引き離そうとするが、力の強さで到底敵わない。

 すぐに意識が遠のきそうになりながらも、北淀美依は南寺静馬を見上げた。

 目に入ったのは彼の嬉しそうな顔だった。それはいつか炎越しに見た彼の表情そのものだった。艶のある瞳、いつもより上気した頬。

 彼は満たされているような表情だった。

 それを見た瞬間、北淀美依は閉ざされていく思考で思った。

 この男は普通じゃないのだと。

 そう思ったら北淀美依の手からは力が抜けて、南寺静馬の腕に爪を立ててまで抵抗していた腕がぱたりと床に落ちた。

 だけどそれが切欠だったのか、その瞬間、南寺静馬の手から力が抜ける。途端に塞がれていた気道に空気が入り、肺は空気を求めるように震える。北淀美依は床にうずくまったまま何度も咳込み、首の焼けるような痛みと収まらない呼吸の苦しさに生き延びたことを理解する。

 南寺静馬は弱りきって震える北淀美依に跨ったまま彼女を見下ろしていた。

 いつもの彼女なら、さっさと退け、くらいのことは言えただろう。しかし今まさに死にそうになっていた彼女にはその威勢もなく、もしかしたら再び首を締められるかもしれない恐怖に言葉が出ず恐る恐る南寺静馬を見上げた。


 南寺静馬は何処か白けたような顔で北淀美依を見下ろしていた。

 そして一言、美依はこんなにも簡単に俺に殺されてしまうのか、と呟いた。

 ぼんやりとした意識のせいか、北淀美依は南寺静馬の呟きに何も応えることができなかった。ただ床に倒れたまま南寺静馬を見上げることしかできなかった。


「……」

 南寺静馬は荒い呼吸を繰り返すだけで動かない北淀美依を見下ろしていたが、この一連の行為のドサクサで落とした本を広いカウンターに置くとさっさと図書室を出て行った。

 図書室の扉が閉まる音に、北淀美依は両手で顔を覆い隠す。

 助かった……。

 そう思うのと同じくらい絶望した。

 南寺静馬に殺されかけたことに。

 そして自分自身がまた、南寺静馬のあの『表情』を見入ってしまっていたことに。

「最悪だ」

 首を絞められて掠れてしまった自分の声が、ただただ耳障りだと思った。

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