フィリアの食卓【二章亀足更新】
神﨑なおはる
一、十年目の破綻
第1話『事の始まり』
本当に恐ろしい目に遭うと声が出なくなるらしい。
そんな訳ないだろうと、その話を聞かされた時に男は鼻で笑った。悲鳴くらいは流石に出るに違いないと高を括った。
しかしそれを真実だと実際に体験したのは、彼がその話を鼻で笑った小学生時代から十年以上経った今更で、彼自身そんな話があったということすら忘れていたし、その瞬間を迎えても思い出すに至らなかった。
彼の喉は急激に乾き、カラカラに干上がってしまい酷く痛んでいるような錯覚に襲われた。
まるで声帯周辺の肉から水分が全て蒸発しピクリとも動かせていないんじゃないかと思ったし、過呼吸のように何度も何度も呼吸を繰り返しても酸素が肺の方へと全く取り込まれる気が全くしなかった。
声も出なければ、呼吸もままならない、そんな状態。
陸に打ち上げられた魚のようだ。
まさに緊急事態。
彼は思考がみるみる真っ白になるほど自身が置かれている状況に恐怖し混乱していた。
彼の視線は『ある一点』に釘付けにさせられたままだった。
何とかこの場から逃げようとゆっくりと震える足で後ろに退った。しかし足もロクに動かず、彼としては大股で逃げようとしているつもりであったが、数センチずつくらいしか動いておらず、その上すぐに止まってしまった。彼の後ろにコンクリートの壁があったからだ。
彼はこれ以上視線の先にあるものから離れられないと理解し、真上から身体を吊り下げている糸が切れてしまったかのように、そのままズルズルと冷たいコンクリートの地面に座り込んでしまった。
男が今いるのは見通しの悪く狭い道。月明かりが全く降りてこない薄暗い路地。
いや、路地というには語弊があるかもしれない。隣接するビルとビルの間にできている隙間というべきか。それでも通行するには十分な広さがあり、何より所々に街灯が点けられていて、今も不安定にこの場を照らしている。人が通る前提で明かりが点けられているということは、やはり路地なのだろうか。だけど等間隔に立っている街灯はどれも手入れがされていないのか錆びて塗装は剥がれ落ち彼の恐怖を更に煽るようにチカチカと点滅していた。
『それ』は動けなくなった男のすぐそばの街灯の足元に座っていた。
彼が目を離せないでいる存在。
それは若い女性の姿をしていた。
街灯のポールに背中を預けて、四肢を力無くだらりと投げ出していた。
頭は上を向くように傾いていおり濁った目には光はなく何処か遠くを見つめ、口はだらしなく開いたままだった。本来は綺麗に整えられていたはずの黒髪はまるで突風に煽られたかのようにぐしゃぐしゃ。
衣服は上下黒のスカートスーツだが、見る者にいやらしさを感じさせるほど乱れている。上着のボタンは全て外され、ブラウスも引っ張られたのかボタンがちぎれ辺りに散らばっていた。乱雑に開かれブラウスの隙間から、女性の緩い弧を描いた胸は恥じらいも追いつかない様子で曝け出されており、本来胸を覆っている下着はコンクリートの地面に落ちていた。薄いブラウン色のストッキングも見る影がないほど破かれ、スカートは辛うじて足の付け根を隠してはいるが、随分高い位置まで擦り上げられている有様。
常人には見るに直視することをはばかれるような女性がそこにはいた。
暴行現場のようだ。
男には自分が此処を通りかかる以前にこの女性の身に起こったのかすぐに理解した 恐らく無理矢理こんな人通りの少ない場所に引きずり込まれ、無理矢理コトに及ばれ、無理矢理……。
その流れを想像してしまい男の喉奥から声以外のもの、正確には胃袋に収まっていた三十分前に食べたハンバーガーが胃酸と一緒に迫り上がってくるような気がして彼は考えるのを止めた。
まだ若いのに可哀想に。
彼は自分とそう歳の変わらない女性の見るも無残な姿に身を縮こませた。
早くこの状況からどうに逃げたかった。
女性を助ける。ではなく、この場から早く離れたい。
それが男の思考を支配した。
何て薄情な。女性を助けることもしないなんて。
しかし彼が腰を抜かして今すぐにでもこの場所から逃げたいと強く思っているのには原因があった。
それは女性の白かったはずのブラウスを赤黒く染めてしまった血液。胸に突き立てられたナイフから流れていて、女性の周りに作られた広い血溜り。
微動だにしない女性。大量に広がる血液。それだけで女性は既に死んでいることはすぐにわかった。
此処は殺人現場なのだ。
若い女性の弄び死に至らしめた残虐な誰かがいた場所。
そういうことが行われても、すぐに誰も気が付かない危険な空間。
男は自分がそんな危ない場所にいることが我慢できないでいた。
誰でも良いから手を引っ張って此処から連れ出してくれ。そんな夢見る乙女のようなことを考えてしまうほど、彼は恐怖していた。
しかし深夜という時間ということに加えて人通りの悪い場所であるというせいか、人の気配をまるで感じられないでいた。
だけれど彼は思う、誰か助けてくれ。
この日常から切り離された異空間で彼は助けを求めようとカラカラに乾いた喉で声をあげようと口を開いた。
誰か!
口は動くけれど相変わらず声が出ないのだ。
残り少なくなった歯磨き粉のチューブを絞り続け、力いっぱい押されたことで漸く奥に残っていた少量の歯磨き粉が飛び出てくるように、残念な声にもならない音だけが彼の口から漏れるだけ。
助けて!
そう神に縋りたい気持ちで、男は更に後ろに下がろうと身体を動かした。
だけど背中には壁があって当然それ以上は下がれず、ズボンのバックポケットに入れていたスマートフォンがコンクリートの壁に押し付けられてガリッと嫌な音をこの静まり返った路地に響かせた。しかし幸運にもその音で男は自分が通信機器を持っていたことを漸く思い出した。
彼は慌ててバックポケットに手を回すけれど、まるでアルコール中毒者のような酷い手の震えで中々スマートフォンを掴むことができなかった。スマートフォンの端に指が引っかかるもすぐにつるりと指が離れてしまい中々バックポケットから出すことができず、こんな路地で無残な死体を前にして呼吸もままならない彼にとってどんどん焦りが募った。
早く助けを呼びたい、彼にはその気持ちしかなかった。
そしてその矛先は警察ではなく、知り合いの老紳士へと向いていた。
男は何とかスマートフォンを引っ張り出すと、脊髄反射のように老紳士へと繋がる電話番号を出し、こんな真夜中に電話をかける迷惑も考える暇もなくコールした。
聞こえてくるコール音に彼は漸く喉の辺りに水分が戻ってくるような気がした。それは電話さえ繋がれば、老紳士がこの場をどうにかしてくれるかもしれないという強い期待があったからだ。
四回目のコール音の後、電話は漸く繋がり、酒の入っているのかいつも以上に伸びやかな口調の老紳士の声が彼の鼓膜を揺らした。
『はい、もしもし?』
その声が男の鼓膜を揺らした瞬間、今まで塞き止められていたんじゃないかと思えるほど、空気も声を通さなかった喉が一気に風通しが良くなる。
彼は大きく息を吸うと、電話越し、夜中であるということを忘れて叫んだ。
「
彼は精一杯叫んだが、直後に電話向こうの老紳士は一拍置いて、五月蝿いですよ、と一蹴。そのいつものように冷たくあしらわれることに、彼は漸くいつもの日常が戻ってきた気がして涙が溢れてきた。
いつも以上に情けない様子だった彼を一応心配して老紳士がやってくるまで、彼はスマートフォン越しに泣きながら支離滅裂にこの場の状況を語り続けた。
まだ冷え込みを感じる三月中旬の出来事だった。
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