タムの結婚(10)──その手の大きな剣をおろして
ルカラシー・ドルゴンズは六時前に起床し、顔を洗い着替えを済ませた後、
半身を返して発信元を探す。壁際のアンティークチェストの上に、画用紙でできたメリーゴーランドを飾っていた。以前、難病と戦っている少年少女たちを見舞ったとき、同じく病院にボランティアに来ていた女性と知り合い、その人が贈ってくれたものだ。「私の大切な友人を励ましてくれたお礼に」と女性は言った。彼女は声楽家であったが、ペーパークラフトの腕前でも知られていた。
白馬に乗る立派な髭をたくわえた騎士は右手に大振りな剣を持ち、勇ましく掲げている。すべてが真っ白な紙でできていた。カラーではないところにセンスを感じる。その馬と騎士がくるくると駆けだしていた。
「ラウラ、君かい?」とルカラシーはなにもない空間に呼びかけた。
(私のせいで、深く悩ませてしまったわね)
姿が見えないことはわかっているから、ラウラはいつも花の香りを近づけたり物を弾いて音を立てたりすることで自分がそばにいることを伝えてきた。彼女が生きた時代によるものなのか、ルカラシーが存在を認めないうちは自分からは話しかけない、という奥ゆかしさを持っていた。その誰とも重ならない姿、透き通った生命。そして、心の恋人としてルカラシーだけにくれる憂慮は唯一無二の
──君が僕になにをしたって?
(あの人を塔に招いたのは私だから)
止まりかけても白馬はまた見えない手によって拍車をかけられる。忙しく回り続ける紙細工をぼうっと眺めながら、ルカラシーは脳裏にある映像を手繰り寄せた。
幼なじみのカーシーは〈ボークヴァの塔〉が大好きで、庭園に遊びに来るといつものぼりたがった。反対にルカラシーは、お気に入りの西エリアの中でこの塔だけが苦手であった。本来ならば見晴らしがいい、と表現されるミラドール風展望台は、螺旋階段の下が透けて見え、頑丈なはずの鉄骨が吹きさらしの風にひたすら震えているという最悪の施設であった──ルカラシー少年には。実際、倒れる可能性がありそうなのは彼の方で、ラウラがいなかったら近づこうとも思わなかっただろう。カーシーにはそれと気づかれないように、ラウラはルカラシーの耳元で「大丈夫よ、私がそばにいるわ」とささやいてくれ、塔にいる間、背中に手を添えられているような感覚がずっとあった。おかげで少年時代が過ぎて自ら告白するまで、カーシーもルカラシーの臆病風に気づかなかったくらいだ。
それでも、さすがのルカラシーも真夜中に展望台にのぼったことはない。
──君がけがをさせたわけじゃない。ライスさんは自分で……。
(あの夜、街の灯がすごくきれいだった。誰かに見てほしかったの)
──わかってる。
感情のように、抑えようとしても湧きあがってくる。庭園隠者だった、華奢な体をしたライス・フルークが塔を見上げてのぼっていく映像が。
(助けてあげて)
「え?」ルカラシーは夢想から醒め、顔をあげた。
(『ガラスの動物園』だったかしら……憶えてる? カーシーが好きだった映画。ガラス製のユニコーンの角が折れて、「これで
「そうだったかな……」ルカラシーはいつになく饒舌なラウラにとまどった顔をして、声に出して訊いていた。
(この騎士も、剣をおろしたら心が休まるのかも。剣と鎧を脱ぎ捨てたら、彼も普通の男に戻れるのよね?)
ルカラシーは回り続けているメリーゴーランドに視線を戻した。おもむろに椅子から立ち上がり、手を伸ばしておもちゃの動きを止めると、白馬の騎士の手元を見た。剣がない。刃が根元から切り落とされている──。
(ルカラシー。あなたの心も同じように軽くしてあげたい。だから、助けてあげて)
「誰を助けるっていうんだ」ルカラシーは目尻に皺を寄せ、声を尖らせた。
(今なら私、あなたのお友だちの姿を追えるわ。早くしないと、洞窟の入口が別の場所に移動してしまうの。すぐに出かけて、ルカラシー)
「私の友だち?」
第二番大庭は開園時間前から人でごった返し、大騒ぎとなっていた。門前には「本日休園」の札。蟻が砂糖の山を少しずつ少しずつ巣に運ぶように、警察の捜査員らは品物の森に
「地下庭園は何度も調べたんですよ。どこにも洞窟の入口などなかった」
「あのぅ」叶も負けてはいない必死の形相。「品物を移動させるのはいいんですけど、トンネルの入口まで片しちゃうのはやめてくださいよ? ヒューゴさんが戻ってこられなくなったら──」
「ヒューゴさん?」二本松は一瞬キョトンとした。「カラスはレイモンドという名前でしたよね?」
「レイノルドです」と訂正したのはピッポ。黒猫キプカを腕に抱き、叶の後ろで様子を見守るメンバーとして立っていた。ほかにも、叶の上司・
「キッパータックさんのことですよ!」叶は大声で訴えた。
「ああ、あなた、キッパータックさんと付き合っていたんでしたね?」二本松はぽりぽりとこめかみを掻く。
「未来の夫です!」
「そりゃよかった」
「よくありません!」叶は喚いた。「戻ってきてくれなきゃ結婚もできない!」
「どの辺りにトンネルの入口があるのか、そのレイノルドからちゃんと聞いておいてくれないから、こうやって探すしかなくなったんですよ。しかし、キッパータックさんはどこにもいないようだ」
「トンネルを辿って洞窟の奥へ行ったのかも」
「その洞窟も一体どこに存在するのやら……」
「この猫に翻訳機を向けてしゃべらせてみてはいかがでしょう?」ピッポが真面目な声色で言った。
「はぁ」二本松は青息吐息。「あなたの庭の洞窟にでも放り込んでおけばしゃべるようになるんじゃないです?」
腕を組み、黙視していた馴鹿布が口を開く。「サムソン
「ええ、そう言っておりました」二本松はそれとはわからないような敬意を馴鹿布には示しながら答えた。「そういう意味ではカラスが泥棒たちから盗み聞いたことは信頼できると言えますね」
「タムたちは
「もう穹沙市は見限ったと思っていたのですがね。でも、
「福田江さんは完全に不明瞭というわけではなかったけれど、虚ろな状態だった」馴鹿布は顎に指を添える。「あれで見知らぬ男たちに脅されてまともに受け答えできるとは思えない」
背後でガラクタたちが取り除かれたり崩れ落ちたり……その騒音に顔をしかめて、二本松は話し相手の馴鹿布へと体を寄せる。「神酒さんによると、福田江さんは女装したタムのことを自分の息子だと思い込んでいて、自らタムに会いに地下庭園の空き地の岩壁から洞窟を度々訪ねておったそうです」
「女装! それで息子だと?」
「派手に変装すれば昔と変わっていても気づかれにくいと考えたのでしょう」まさに苦虫を口いっぱい噛み潰していると言わんばかりの二本松。「だとすれば、福田江さんにとってタムは憎き庭荒らしタム・ゼブラスソーンとイコールではなかったでしょう。大庭のことを質問されたらなんでも、快く答えたかもしれない。それが穹沙市の庭ばかり襲われていた理由です。神酒さんも洞窟に監禁するぞと脅され、大庭の情報をいろいろ話してしまったということですし」
「なんてこった……」
「神酒さーん! ヒューゴさー!」泣きだす叶。
「ルカラシー・ドルゴンズさんをあんなふうに脅した理由については?」馴鹿布は質問を重ねる。「福田江さんの元介護士の女性の父親は、ドルゴンズ庭園で働いていた。福田江さんが洞窟を訪ねていたなら、彼女も一緒にタムに会っていたと思える」
「介護士の女性については、介護士である、というくらいしか神酒さんは知らないようで。そのレイサ・フルークさんがタムに父親のことを話した可能性はありますね。タムは正義の味方ぶって、レイサさんのお父さんの仇を取ったつもりなのかもしれない。ドレスに泥をかけたのはやはりタムではなく、その事件を世間に知らしめるためにタムはそんな嘘を言った。しかしドルゴンズ庭園は言葉どおり『タムがやった』として本当の犯人を探そうともしなかったので、ああいう嫌がらせを行った──といったところでしょうか」
「福田江さんの行方もレイサ・フルークさんの行方もわからないままか」
「洞窟もです」二本松は首を振る。「神酒さんが知っている通路はすでにみんな潰されています。もしかすると、ここの通路もすでに……」
「じゃあ、ヒューゴさんは戻れないってこと?」叶は二本松に詰め寄る。
「我々の到着を待っていてほしかった」
「ヒューゴさー……」
二本松の腕を掴んで泣く叶の肩を、後ろからピッポがやさしく叩いて慰めた。
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