蜘蛛を数える(4)──変態蜘蛛?

 老先生の話を聞いた後も、かないはずっと仏頂面をたたえたままだった。

「彼の包帯に深い意味があることはわかりました。ただ私が聞きたかったのはそういう精神世界の話ではなく……わかります? 彼の面貌ですよ。興味といえばそこであり、そこだけなのです」

「目が印象的だったよ」強張りを持った足を揉むのをやめて、馴鹿布なれかっぷは言った。「あんな悲しげな、でも純真な、少年の目は久しぶりに見たな。最近は小学生でも狡猾こうかつな色をしているのがいるからな」

「芸能人の誰に似てるとか、そういうのはないんですか?」叶は先生の気分を揚げるために冷蔵庫へ飛んでいって、羊羹ようかんを取りだし、切りはじめた。

「別に、誰にも似ていなかったが」

「そんなー、なにかあるでしょう」

 馴鹿布はテーブルに移って、ピッポの写真が貼りついたままのテレビの画面を切り替えてから、電源を切った。「特別ハンサムでもなければ醜男ぶおとこでもない。あえて言うなら──」

「言うなら?」叶は羊羹を載せた皿を運んでくる。

「ほら、指にけがをしてずっと包帯を巻いていて、久しぶりに包帯を解いたら、指がつるつるになっているだろ。ああいう感じなんだよ。まるで生まれてはじめて大気に触れたとでも言うような、無垢むくな輝きと言うか、透明感と言うか……そういう顔だ。心の中を渦巻いていた重苦しい考えが吹き飛ばされた気がしたよ」

「いいなぁ、先生は。私もそういう美に触れたいわー。ていうか、包帯巻くだけでそんなふうになるんだったら、私も巻いてみようかな?」叶は馴鹿布が手を伸ばす前に自分が真っ先に羊羹を摘んで口に放り込んだ。「はぅなふあふ(飲み込む)……ピッポさんの似顔絵、書いてもらったわけですよね? ということは、穹沙きゅうさ署に行けばピッポさんのお顔が拝見できる……しかもきっと鉛筆画ですよね? いいわー、そそられるわー」

「いや、コンピューターで作ってたぞ」馴鹿布もようやく羊羹をフォークに刺す。「君、警察に行きたいのか?」

「いえ、一生縁がないことを願ってやみませんが……。で、彼はどこの国の指名手配犯でもなかったと、穹沙署のお墨付きをもらったわけですね? 疑いはすっかり晴れた」

「どこの国ってね。まあ、彼は指名手配犯ではなかったようだ。少なくともこの東味亜ひがしみあでは犯罪者ではない。おそらく、タムの仲間でもなければ情報屋でもない。怪しいところもなにもないとなると、似顔絵を保管しておく理由もないし、個人のプライバシーがあるからな。医者がきれいな内臓を診ることはない、というくらいの職業倫理は持ってないといかん。これは穹沙署の依頼ではなく我々が勝手にやっていることとして、慎重にやらんと、私の方が大庭主だいていしゅでいられなくなってしまう」

 自分へ送る戒めの言葉。老探偵は羊羹を噛みしめながら、危なかった……と今日の自分を振り返っていた。あれほど鋭い男だとは。変装を見破られたのははじめてのことだった。きっと、なにかは勘づいただろう。穹沙署が動いていると考えるかもしれない。しかし、タム・ゼブラスソーン関連であるとまでは思い至らないはずだ。このアジアにはもっと凶悪な犯罪はいくらでも起こっているのだから。

 それに、先ほど叶が撮った写真をざっと見てもわかるとおり、彼はほとんどをあの荒野で過ごしている。ボランティア活動以外で外へ出ることもあったのか、後で叶に聞いてみてもいいが、少なくとも馴鹿布が彼の動向を追っていたときには、彼が自分の大庭から出ていくことはほぼなかった。


「ところで、」と馴鹿布は言った。「君に任せると言ったキッパータック氏はどうなってる?」

 叶は今度は熱い緑茶を淹れて飲んでいた。「ええ、順調ですよ。何回尾行したかな……先生がおっしゃってたとおり、しょっちゅうよその大庭に出入りをくり返してますね、彼。あのご長寿大庭主のところでしょう、それから美人双子のお庭、仁科さんのアトラクション庭園、マオさんの中国庭園……」

 馴鹿布は携帯端末を取りだして、地図を確認し、メモ機能を開いて情報を記録させた。「では、そのまま続けてくれ。くれぐれも、気づかれないようにな」

 叶は無言でピンと伸ばした指を額につけ敬礼してみせた。

「私は明日から、別の大庭主の調査だ」馴鹿布はプラスティックボトルを握りしめたまま、自分の部屋に向かって歩いていった。



 天馬ペガサス地区の第四番大庭・庭主、ヒューゴ・カミヤマ・キッパータックは、めんどくさい仕事にごうを煮やしていた。飼っているペットの蜘蛛、アダンソンハエトリ。その蜘蛛は、かつて東アジアを震撼させた前代未聞の札束入れ替え事件に使われた蜘蛛であり、世紀の大道芸人ダニエル・ベラスケスから驚異の芸を叩き込まれた蜘蛛であり、有名な庭荒らしタム・ゼブラスソーンの一味いちみに狙われ盗難未遂に遭った蜘蛛であるということで、東アジア警察・穹沙署が天馬地区の交番に担当させ、管理と定期的な報告をさせることになったのである。


 とりあえずは庭園に監視カメラを設置することと、現在何匹の蜘蛛を飼っているのか知らせなければならなくなった。カメラの方は観光局から支給されている補助金で対応できたが、しかし、蜘蛛の頭数を数えることはとんでもない労苦であった。キッパータック自身もどれくらいいるものか想像がつかなかった。現在、蜘蛛の住み処となっている水槽は四つ、陶器の壺は大小合わせて五つに増えていた。この話を聞いた第四番大庭の担当者である観光局・大庭管理課の広潟ひろかたが、それは大変だろうからと、手伝いとして部下の草堂そうどう駿しゅんを送ってくれた。


 警察の命令であるから無視することはできない。キッパータックは本業の清掃の仕事を二日休み、カウントに挑むことにした。朝、草堂がやってきてからさっそく取りかかることになったのだったが……。



 キッパータックのアイディアはこうだった。一匹一匹数えていたら時間がいくらあっても足りないし蜘蛛は生き物でじっとはしていないから、とりあえず十匹にまとめて、この十匹に「消しゴム」などの小物に変身しろと命令を出す。蜘蛛は変身している間は動かないので、数えやすいというわけだ。

 しかし、蜘蛛は自分たちの数の把握ができないため、人間がまず蜘蛛を十ずつまとめなければならない。ほかの蜘蛛が命令を受け取り変身に加わってしまえば数がわからなくなるので、まとめた十匹は別の場所に移し、ここではじめて変身させる。

 うまくいくと思っていたのだったが、いかなかった。一番足を引っ張ったのは草堂だった。キッパータックが蜘蛛をちまちま数えたり、蜘蛛の消しゴムをテーブルに並べているのを見ていらいらしだし、また彼が「喉が渇いた」「足が痒い」などと思うたび、蜘蛛たちが様々な物に変身をはじめ、せっかく消しゴムとして並べていた蜘蛛までもが変身を解いてその新たな変身のグループに参加してしまうのだった。そもそも、十ずつ数えている時点で一匹ずつ数えていることと同じではないかと、その辺も彼は気に入っていなかった。

「ぁあー、もぉー、なんなんだよ!」草堂はたまらなくなって窓際まで走るとソファーにうつぶせに倒れ込んだ。「無理だ! 変態蜘蛛め! こいつらの数を数えるなんてできっこない! そのうち数えている間に繁殖しだすぞ」

「困ったな、なにかいい方法はないかな」キッパータックも頭を抱えた。

「だいたい、おれは観光局の職員なんだ」草堂は顔をあげた。「蜘蛛は観光資源でもなんでもないだろ」

「警察の命令だからやらないわけにはいかないんだよ。草堂君も広潟さんの命令でこんなことが仕事になっちゃって、申し訳ないとは思ってるけど」

 草堂は起きあがると、自分の荷物から水筒を取りだして一口飲んだ。「もう、適当な数言っときゃいいよ。一千匹──うん、一千匹でいい」

「それでいいなんてことになったら、僕はなぜわざわざ仕事を休んだのかって考えなきゃならなくなるよ」


 玄関のチャイムが鳴る。

「あ、二本松にほんまつさんかもしれない。昨夜メールをもらったんだ」キッパータックは玄関へ動きだす。

「二本松?」と草堂。

「二本松巡査長──穹沙署の」

 非番なのか、紺のポロシャツ姿の二本松が「差し入れを持ってきましたよ」と言って入ってくる。

「ありがとうございます」差しだされた袋を受け取るキッパータック。

「馬乳です。ここへ来る途中、近所の家に『馬乳配達員』が来ているのが目に入りましてね。飲み物を買うついでにすごいアクロバットを見てきました。馬乳、さっぱりしてておいしかったですよ」

「あー、おれも配達員のアクロバット見に行こうかなー。まだいるかな」と草堂。

 三人はテーブルに集まった。キッパータックは草堂に馬乳を渡して、二本松にはコーヒーを淹れることにした。

 テーブルの上の消しゴムを手に取って眺める二本松。「これ、蜘蛛ですね。……監視カメラの画像をありがとうございました。カメラはあれでよしとして、問題は蜘蛛の頭数ですね。なんだか小物がいっぱい並んでいますが、今、数えてるんですか?」

「そうなんっすよ、刑事さん。どうにかしてください」馬乳を開けて口に運ぶ草堂。「ふーん、変わった風味だなぁ……とにかく、キッパータック氏の蜘蛛を数えるのは無理だということですよ、刑事さん。うじゃうじゃ動く蜘蛛を一匹ずつ数えるよりはましだろうと思って変身させてたんですけどね。蜘蛛は自分たちが数えられてるってことをまったく理解してなくて、十にまとめた蜘蛛がまとめ終わっていない蜘蛛の変身に交ざっちゃうわけですよ。一生終わらない拷問ですね、これ」

「はは、シーシュポスの岩ってわけですか」苦笑いしながら二本松はキッパータックが運んできたコーヒーを受け取る。「そうじゃないだろうかと思って、私はここへ来たわけです。いいアイディアがありましてね」

「いいアイディアですか?」とキッパータック。

「そうです」二本松は携帯端末を取りだす。「ほら、一円玉の枚数を知りたいとき、グラムを計った方がいいって話があるでしょう。実は、昆虫の体重を計っている研究家がいましてね。インターネットを検索したら、ハエトリグモの重さもありました」

 三つの頭が画面の上に集まる。

「ほら、ここに書いてあるでしょう? 薬品などを計る特殊な電子ばかりを使うらしいんですが、専門機関に借りなきゃ通常誰も持ってはいないでしょう。とりあえず、あなたの家の蜘蛛とまったく同じではないかもしれませんが、だいたい一匹はこれくらいの体重と仮定します。あとは全体から割ればいい。全体の体重を計るのはわけないのでは?」

「なるほど」草堂の顔がぱっと明るくなった。「ナイスです、刑事さん。キッパー蜘蛛全部になにかに変身してもらって、それを体重計に乗せりゃいいんですもんね」

「わかりました、そうします」キッパータックも頷いた。「一匹一匹数えなくて済むなら助かりますし。ただ、うちには体重計もないんだ」

「おいおい、体重計くらい買えよ」と草堂は言った。

「ごめん。でもそれは誰かから借りてくるよ。体重計なんてうちには必要ないから」

 草堂は自分の荷物をまとめはじめた。「ということはだよ、おれがここにいる理由はもうないよな?」

「あ、ああ、そうだね。後は僕が一人でやるよ。草堂君、ありがとう。広潟さんにもよろしく伝えてね」キッパータックは蜘蛛の消しゴムを壺に戻しはじめた。

「ところでさあ、刑事さん」と草堂が話しかける。「キッパー氏の蜘蛛なんすけど、全部死んだことにできないんすかね」

「え?」

「ええ?」とキッパータックも驚く。

「偽装死ってこと。たとえば、」と草堂は天井に目をやりながら想像を語る。「キッパータック氏が車で蜘蛛を運んでいると、突然賊が襲ってきてスピードを上げる。そして急カーブアンド急ブレーキ。その拍子に荷台から蜘蛛が放りだされ川に転落──ということにして、それでセブンウィリアム放送でお悔やみを流してもらうんすよ。そうすれば、タムの仲間たちも蜘蛛はもう死んだんだと思って、盗みに来ないと思うんですよね」

「ほう、なかなかよさげなアイディアですね」二本松は真剣に検討しているような表情になった。

「嘘の葬式あげちゃうのもいいですよね。大庭主たちに参列してもらって。ははは」草堂は笑った。

「それを本当だと思わせることができるなら、やってみる価値はあるかもしれない」

「そうだ、二本松さん」とキッパータックが言った。「話題を変えてすみませんが、どうも最近、僕、誰かに後をつけられているみたいなんです」

「え?」二本松は蜘蛛の偽装死の話のときとは違う声をあげた。

「小柄な女の人です。僕が振り返ると、慌てて隠れるんです。多分、見間違いじゃないと思います。帽子を被ってたり眼鏡をかけてたり、毎回雰囲気は違うんですが、同じ人だと思います。この近くにも車がよく停まっていて、その同じ車を清掃のご依頼をくださったお宅の近くで見たこともあります」

「はあ? 勘違いじゃねえか?」と草堂。「どこの物好きがそんな暇潰し考えるんだよ。この地味さ極まるキッパータック氏を? つけ狙ってんの? そいつタムの仲間か?」

 二本松は飲み干したカップをテーブルに戻した。「それが誰かはわかりませんが、私も気にしておきましょう。タムの仲間だったらあなたがまた襲われてはいけませんからね」


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