3、あがりが見えない(3)
美沙希は変わってしまった。僕が知っている美沙希はもういない。美沙希が高校を卒業してから、どんな人とつるんで、どんな人生を歩んできたのかは知らない。ただ少なくとも良い方向に進まなかったことだけは明らかだった。こうして光を失って、美沙希はまた変わってしまった。
僕と一緒にいると美沙希はまるで幼児のように振る舞うのだ。褒められれば喜ぶし、何かあればすぐに拗ねる。口調も幼稚だ。そして子供のように何かと知りたがる。まるで手探りで正解を探すかのように、何でも質問してくるのだ。
ふと、肩に寄りかかった美沙希を覗き込むと寝息を立てていた。僕は美沙希に布団をかけてやると、今夜はそのまま眠りこけた。眠ると朝がやってくる。起きると一日が始まってしまう。それが嫌で、なかなか寝れないことも多い。でもこうして美沙希が近くにいると、心地よく眠ることができた。もちろん美沙希のことをまた好きになってしまったから、というわけではない。僕が今生きているのは美沙希を内側から壊してやるためだ。
僕は美沙希に自分の本当の名前を名乗ること……それだけを楽しみに今を生きているのだ。
好きになんてなるわけがない。
美沙希が近くにいると眠れる理由、それはきっと僕が美沙希を嫌いなのと同時に、蔑んでいるからだろう。ゴミ以下の美沙希がいるだけで、僕は安心するのだ。だから、僕は今日も眠れる。ぐっすりと。そしてまた次の日を迎えることができるのだ。
朝起きると、掛け布団がかけられていて床にうつ伏せに寝ていた。部屋の奥からは何かを叩くような音がする。美沙希がいない。眠い目をこすりながら台所まで行くと、美沙希が包丁を片手に豆腐を切っていた。
「おいバカ!」
慌てて包丁を取り上げる。目の見えない人間が刃物など持つものではない。そうでなくても美沙希は、まだ見えない状態に慣れていないのだ。
「怪我するだろ! 何考えてんだよ!」
珍しく声を荒げてしまった。果たして僕は本当に美沙希が怪我をしてしまうのを案じてこの言葉を発したのだろうか。自分でもわからなかった。
「……怒らないで」
「何しようとしてたんだよ」
「お味噌汁を作ろうかなって……」
美沙希は泣きそうな声で言うのだ。
「嶋くんにね、褒めて欲しくて」
本当にわからない。美沙希は一体何を考えているのか。僕は美沙希の頭を右手で強めに撫でてやった。
「危ないから、一人でやるな。あとは僕がやるから、そこで見てて」
調理途中になっているのが何となく嫌で代わりに台所に立ってそうは言ったが、僕も料理なんてほとんどやったことがない。不器用に包丁を握ってみると後ろから美沙希がふふふと笑ってこう言った。
「そこで見ててって言われても。無理かも」
美沙希は大好物が出来上がるのを待つ子供みたいに、ずっと椅子に座って僕の方を向いていた。
どうにか味噌汁が出来上がって、二人でそれを啜る。味はほとんどなかった。こんなのただ色がついただけのお湯だ。それなのに美沙希は「おいしいね」なんて言って僕の方を見て微笑むのだ。視覚だけでなく味覚まで失ってしまったのか、お前は。
時間がいつもより早く時を刻んでいるような感覚があった。このままではすぐに何年も経って、そしてすぐ老人になってしまう。美沙希とただ味噌汁を飲んでいるだけなのに、一分が早い。一秒が早い。目覚まし時計を確認すると本来より五分だけ時間が遅れていたが、普段なら家を出ている時間だった。今すぐに出ないとバイトの時間に間に合わない。
「嶋くん、もう出ないと」
美沙希は一瞬そう口にしたが、ハッと何かに気づいたようにすぐに口を閉じた。
「お前……時間わかるのか」
美沙希はあからさまに戸惑っていた。空になったお椀を持って、何かを言おうとしている。
「えっとね……ちゃんとはわからない。でもなんとなく今何時の何分くらいかなっていうのは……感覚で」
美沙希がそれを隠そうとしたのはきっと僕が帰りが遅くなっているのを嘘で誤魔化そうとしていたのに気づいていたからだろう。僕の嘘に気づいていたのなら何で言わなかった。何で怒らなかった。何で「嘘つき」と一言言わないんだ。
「そうかよ……」
美沙希が何を考えているのかわからない。これだけは今も昔も変わらない。美沙希が考えていることが僕にもわかるなら、僕は今頃こんなことなはなっていないのだ。
「今日は……仕事休むわ」
職場に電話をかけて体調不良であると嘘をつくと休みの許可は簡単に下りた。所詮使えないアルバイトだ。僕がいようといまいと大して変わりはないのだろう。
「美沙希……ちょっと一緒に出かけるか」
「……お仕事は?」
「休んでいいってさ」
その日、僕は美沙希を連れて近所の公園に出かけた。整備の行き届いていない汚い公園で、そこに集まっているのもそれ相応の人間ばかりだった。
小汚い格好をした老人らが蟻に抜かれるほどのスピードで歩いていて、その横にはダンボールを敷いて寝てるホームレスもいた。
僕と美沙希はベンチに腰掛けた。目の前には池があったが、苔が浮いて濁っていた。魚なんて棲めやしない。水面付近でボウフラが沸いている。景観は最悪だ。
それなのに美沙希はニコニコと笑っていた。自分の目の前に広がる光景を知らないで、ただ綺麗な景色でも想像しているのだろう。きっとこういう景色が広がっているはずだ。きっと綺麗で、きっと楽しくて、きっと明るくて、きっと、きっと、隣にいる嶋くんも笑っているだろう。そうやって、美沙希の目の前は真っ暗なのに、まやかしの世界で美沙希は生きているんだ。実際の景色はこんなにも劣悪で、つまらなくて、暗くて、そして隣にいるのも嶋くんではないのに。
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