プロローグ 2

 今でも夢に見る思い出は幾つかある。その中でも私の心に初めて、深い深い傷をつけたあの出来事は何度でも夢に現れた。


 赤い絨毯に、つやつやしたマーブル模様がうっすら見える床、白いテーブルの上には宝石みたいに輝くご飯。目の前に広がる素敵な光景に胸を躍らせる。

 今日はパパの友達である一条さんというおじさんがパーティーを開いていて、パパやママ、お兄ちゃんに私はそれに招待されていた。

 ワンピースに黒いツヤツヤした靴、そしてお兄ちゃんがくれたガラスのうさぎのペンダント、自分の大好きなものを身にまとってやってきたパーティーには何人もの人がいた。


「じゃあ瑠璃、お友達と遊んでおいで。」


 パパとママに送り出され、私と同じ年の子達が集まっている所へ近づいていく。お兄ちゃんは来てくれなくて、私一人で少し心細い。

 スカートの裾を掴みながら、どうしようか迷っているとねえ、と男の子からの声をかけられた。黒い髪で、目がキラキラした男の子。


「君のお父さん、僕のパパの友達?」


 急に聞かれてもわからなくて、首を傾げると男の子はうーん、と言ってから私に手を差し出す。握手ってことかな。


「僕、一条秀。君は?」

「あ!一条さん、パパの友達だ。えっと、私は財木瑠璃です。」


 手を軽く握ると、男の子、じゃなくて秀くんは優しい目をキュッと上げて笑った。

 それから秀くんと一緒に少し遊んだ時、秀くんは私のペンダントを指さして、可愛いね、と言う。男の子だけど、こういうの好きなのかな。


「でしょ、これお兄ちゃんがくれたの!とっても大事なんだ。」


 触ってみる?と聞いてみると、秀くんは目を輝やかせて頷く。嬉しくて、私はペンダントを首から外し、秀くんに手渡す。

 ありがとうくらいは言ってくれるかな、なんて思っていたのに秀くんは急に笑顔を消して、床にペンダントを叩きつけた。

 マーブル模様のある床に強く投げられたペンダントのうさぎが、ぱりんと小さな音を立てて死んでしまった。粉々になったそのうさぎを見て、訳が分からなくて、泣きそうになる。


「な、なんで、こんなことするの……?」


 分からなくて問いかけると、秀くんは今度はにっこり笑うだけだった。


「うさぎ、うさぎ返してよ!」


 溢れ出す悲しい気持ちを秀くんにぶつけるように大きな声を上げて、笑っている秀くんに飛びかかる。

 秀くんの腕を掴んで返して、返してと泣きながら怒っているうちに、パパやママ、たくさんの大人達が集まってきた。


「痛い、痛いよ!瑠璃ちゃん!」


 急に秀くんは声を上げて暴れ出す。私は驚いて手を離そうとしたのに、秀くんが離してくれない。


「どうした秀、それに瑠璃ちゃんも。」


 一条のおじさんが近寄ってきた途端秀くんは私の手を離し、そのまま割れたうさぎのガラスで腕を切った。な、何をしているの?


「パパ、瑠璃ちゃん酷いんだ。そのペンダント、可愛いから少し触らせてって言っただけなのに、すごく怒ってきて。」


 ぐすぐす、鼻をすする音が聞こえてきて私は混乱しながらも、秀くんが言っていることは本当じゃないことを言わなくちゃと頭を振った。


「違う!秀くんが私のペンダントを壊したの、だから……。」

「こら瑠璃!言い訳はするな、秀くんは怪我までしているんだぞ。謝りなさい!」


 パパが怖い顔をして私を怒ってきて、ママも一条のおじさんにうちの娘がすみません、なんて言って頭を下げていた。

 周りを見るとみんな私を冷たい目で見ていて、怖くて震えてしまう。謝りなさい!ともう一度パパに強く言われて、この場から逃げ出したくて私は謝った。

 下げた頭を上げると、上の方から秀くんが私を見下ろして笑っていて……。


 ここでいつも夢は終わる。

 もう何度も味わう最悪の寝覚めに耐えるように布団の上で丸まりながら、うーうー唸ってからようやく体を起こす。

 天井も壁も相変わらずシミだらけのボロアパートが目に入った。いつも通りの風景だ。もう何年もずっとこんな景色で、白い壁なんてめっきり見ていない。大理石の床も、ペルシャ絨毯も。


「今日の講義何時だっけ……。」


 スマートフォンを開いて自身の時間割をチェックする。二限からだ。

 布団から出て洗面所の水で顔を軽く洗い、ハトムギ化粧水を少しだけ顔に塗る。今月の出費どれくらいだっけ、計算しないとな。

 手を拭きながらそんなことを考え、リビングとも言えない部屋で手帳を開く。奨学金が6万円、アルバイトの収入が40万弱で、家賃が6万円。食費が4万円、通信費が8500円。光熱費が8500円ちょっと。その他交際費とかが大体2万円ちょっと。

 今月の実家からの仕送り要求が30万円。


「43万円くらいか。あー、危ない、ギリギリ3万円貯金できる。」


 計算しながら知らぬうちに噛んでいた爪を口から離し、手帳に収支を書き込んでひとまず閉じる。月初はこの作業をするのが私の定番というか、ルーティンだ。家の方には明日お金を持っていこう。確か、明日は夜のアルバイトは休みだし。

 お金の計算をすると朝食を食べる気にはとてもならず、顔に軽く下地を塗る程度の化粧をして、カジュアルな服を着て外へ出る準備を終えてから勉強を始める。

 今度の試験でもトップを取らなくては、学費免除が受けられないかもしれない。そうなってしまうと大学へ通えなくなるから、何がなんでも避けなくては。

 しばらく勉強をしてから部屋を出る。ドアノブの中央にあいた鍵穴へ鍵を挿して回し、ドアの施錠をした。薄っぺらいプラスチックのプレートに香椎と書かれた表札が曲がっていて、指で軽く押して直す。最近引っ越してきて貼ったばっかりなのに、一体このテープの粘着力はどうなっているんだ。


「ふぅ……。」


 階段を降りようとした時に少し目眩がした。昨日はアルバイトがいつもの上がり時間の2時ではなく、3時になったせいで睡眠時間が足りていないせいだろう。基本的にすぐ帰る客が、私なんかに延長を繰り返したせいだ。

 給料は多少上がるだろうけれど、あまり高い酒を飲まなかったからなぁなんて思いながら目眩を抑え、鉄の階段を降りていく。

 鞄からイヤホンを取り出してスイッチを入れてから耳につけ、スマートフォンを操作して音楽を流す。まともな趣味は持つ余裕はないけれど、こうして通学途中に音楽を聴くのが好きで、それにだけはほんの少しお金をかけていた。

 冷える手をポケットに入れて駅まで歩く。今日の昼ご飯は何にしようかと考えたとき、音楽が止まって着信を告げてくるスマートフォン。どうせ碌な連絡ではない、出たくないなと思いながらもスマートフォンを取り出し、右へスワイプした。


「瑠璃、どうして電話にすぐ出ないのよ!」


 ヒステリックに叫ぶ声が耳に優しくない。片手で音量を下げながら、ごめんなさいと素直に謝った。画面上に表記されるお母さんの文字を見て、なんだか乾いた笑いが出そうだ。


「お金はいつくれるの、早くしてくれないと智仁さんがいなくなっちゃう。」

「明日には持って行くよ。じゃあまたね。」


 何か言われる前に素早く通話終了ボタンへスワイプする。間髪入れずに流れ始めた音楽に浸るような余裕はなくて、深いため息を吐いて地面を見ながら歩く。息を吐くと白い息が漏れるような季節になった。

 もうそろそろ、大学生になってから一年経つのかぁと不思議な思いになりながら駅までの道を少し早足で歩いた。

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