第89話 マリーの赤いドレス





 葵は日々を多忙に過ごしていた。

 日中はマイストール境界の柵の設置と補強、及び警備に当たった。

 空いた時間はスルーズやハモンドに剣の指南を受け、シュバルツの森に戻るのは日が暮れてからにしている。

 戻れば必ずアナスタシアの墓に来てしまうからだ。

 そこから離れなければ前に進めない事は葵も分かっている。

 それでもアナスタシアの肉体が眠るその場所が近くにあると思うだけで、居ても立ってもいられず、吸い寄せられてしまうのだ。

(マリー依存症だな)

 葵は自身をそう診断していた。

 だからこそ、日中は外に出るよう心掛けていた。


 シャルルとは時々行動を共にするが、彼こそまさに多忙だった。

 マイストールの戦後処理はそれ程難しくはなかったが、エルミタージュ軍に属した近隣諸侯との関係改善を試みるも、上手くいく様子もなかった。

「ロイは、謀反人に仕立てられたマリーを擁護する側に立っているからな」

 葵は苦い思いを噛みしめていた。

「ペトロはこうなる事も見据えていたんだな」

 葵は改めてペトロの方が一枚上手だと思った。

「先のマイストール進攻は、マリーの捕縛が目的だったが、失敗も念頭に置き、叶わなかった後も常にぼくたちが劣勢であるよう、手を打っていたんだよ」

「葵様、申し訳ありません。わたしが至らなかったばかりに、マイストールを窮地に追い込んでしまいました」

 スルーズは肩をすぼめて申し訳なさそうにした。

 葵はかぶりを振った。

「ぼくが采配を振るっていても、結果は同じだったよ。あの戦いは勝っても負けてもペトロの術中の内にあったんだ。マイストールが負ければもちろんそれはペテロの勝利だが、マイストールが勝ったら勝ったで、派兵のあった周辺諸侯の恨みを買い、孤立してしまう筋書きだったんだ」

 マイストールに隣接する諸侯に対してペトロは多数の派兵を要求していた。

 表向きそれは、近隣であれば派兵による負担も少ないと言う事だろうが、隣り合った諸侯だからこそ、いがみ合わせて置く事で、結託される懸念を防ごうとしているのだ。 

 更に、戦に負けると言う事は戦利品を得ることもなく、一方的に自国の損失しか発生しないし、派兵を依頼したエルミタージュに対しても顔向けが出来ない、二重の負を背負わされる事にもなるのだ。

 当然その恨みの矛先はマイストールに向けられる。

 その結果としてマイストールは孤立してしまったのだ。


 その日、葵はマイストール領を離れてスルーズと共にエルミタージュ領内に入っていた。

 葵は魔法マナを持たないから魔法による索敵には引っ掛からないし、スルーズもアンチ魔法ツールの亜麻色の髪を装着していた。葵も黒髪・黒瞳を隠すため、フード付きのベージュのローブを羽織っていた。

 だからと言って完全に安心出来るものではなかった。

 ペテロは常に葵達の先を見ているのだ。


 人口八千人のカデールは城壁を持たない小さな町だ。

 気分転換にスルーズが葵を誘ったのだ。

(ぼくはこれからどうしたらいいのだろう?)

 前を向いて歩くと葵は皆の前で言った。

 しかし今もなお葵の心は空っぽだった。何を目標に歩いていいのか分からなかった。

(マリーがいなければ、ぼくは何も出来ないんだ)

 葵は改めてそう気付いた。

 貧困層の開発も街の人達のために行ったのではなかった。

 泣いているアナスタシアの力になりたかったから、アナスタシアの笑顔が見たかったから、葵は懸命になれたのだ。

 マイストールで初めてアナスタシアと出会った時には気づかなかった。

 だけど葵はその瞬間からアナスタシアに惹かれていたのだ。

(マリーの喜ぶ顔が見たい)

 その思いが葵を突き動かしていた。

(だけど、マリーはもういない)

 心にポッカリ穴が開き、葵は生きて行く術を失った。


 澄み切った青空の下、町外れの田園広がる草原を、葵はスルーズを伴って走竜を歩かせていた。

 長閑のどかだった。

 野原には花が咲き、蝶が舞い、穏やかな時間が流れている。

 小川のせせらぎがあった。


 ――― 葵、少し止まって紅茶でも飲まないか ―――


 アナスタシアのそんな声が聞こえてくるようだった。

(マリー。キミのいないこの世界で、ぼくはどう生きて行けばいいんだ……)

 手綱を握るその右手に、一つ二つと涙の粒が落ちた。

 

 行商人の荷馬車が止まっているのが見えた。

 葵はそのまま通り過ぎようとしたが、怒鳴り声が聞こえた。

「畜生! 騙しやがって! 何が皇女様の衣装だ」

 涙声で、さぞ悔しいと言わんばかりの大声だった。

 葵は何気なく振り返った。

 馬車から降りた男が、何かを草原に投げつけて、罵声を浴びせながら踏みつけていた。

 それは見覚えある赤いドレスだった。

(あっ…あれは……!)

 間違いない。

 それはルマンダでアナスタシアに買った真っ赤なドレスだった。

 アナスタシアと抱き合いながら情熱的に踊った、ルマンダの夜のダンスパーティが、葵の頭の中を駆け巡った。

 その想い出のドレスが葵の目の前で蹂躙じゅうりんされていた。

 これまで感じた事のないどす黒い感情が、葵の腹の底から突き上げてきた。

(許せない!)

 葵は剣を抜くと馬首を返して、男の下へ走らせた。

 言葉に出来ない感情に支配されていた。

 走竜から飛び降り、剣を振り上げる葵に気付いた男は、腰を抜かして座り込んだ。

 アナスタシアの赤いドレスは男の尻の下にあった。

(殺してやる!)

 葵の心に殺意がみなぎった。

「お待ちください!」

 スルーズが葵の剣を受け止め、そして抱きしめた。

「お気を沈め下さい! 葵様」

 葵は怒りと殺意で身震いしていた。

「許せない……許せないんだよ」

「分かります。でも、この男は何も知らないと思います。恐らく、被害者でもあるんです」

 葵の興奮はすぐには収まらなかったが、スルーズに抱かれていくうちに、少し落ち着きを取り戻した。

 目が合うと、男はあからさまに怯えを見せた。赤いドレスは以前男の尻に敷かれていた。

「どけぇ!!」

 葵は目をいて男を叱咤した。

 男はようやく葵が何を怒っているのか理解したらしく、慌ててドレスから動いた。

「これをどこで手に入れた?」

「は、はい。これは宮殿のバザーでアナスタシア様のドレスと言うので、オークションで手に入れたんです」

「それで何で、踏みつけていたんだ」

「だってこれ、コットンですよ。皇女様がお召しになるわけないじゃないですか。持ち帰って、カルーデの街で高値で売ろうとしたら、目利きの者に偽物だと言われ、素材もシルクではなくコットンだと知って、騙されたと気付いたら、悔しくて悔しくて……。家族にいい思いをさせてやろうと、なけなしお金を出して手に入れたというのに……畜生……」

 男は肩を落として泣きだした。

 確かに年に一度、皇室及び上流貴族のバザーがあった。

「買った時に気付かなかったのか?」

「だって、こんなに立派な衣装ケースに入っていたんですよ」

 男が指さす馬車の荷台に、宝石を散りばめた衣装ケースが乗せられていた。

 この赤いドレスはアナスタシアと葵の大切な思い出の品だ。アナスタシアがそれを出品する筈はなかった。だからこそ、立派な衣装ケースに仕舞っていたのだ。

(マリーがいないのをいいことに勝手にオークションに出されていたんだ)

 再び怒りで身震いが止まらなくなった。

(許せない!)

 その男の事ではない。今の現状を作ったあの男 ――― ペトロを許せないと強く思った。

「これをいくらで買った?」

「金貨百枚です。ケースは金貨五十枚の値打ち物ですが、このドレスに金貨を出す者はいないでしょう」

 男は力なく言った。

「それなら、まとめてぼくが金貨二百枚で買ってやる」

「えっ?」

 男とスルーズがほぼ同時に同じ言葉を発した。

「葵様、ちょっとそれは……」

「構わない。マリーなら、こうしたはずだ」

 葵は二百枚の金貨の入った袋を男の前に放り投げた。葵の全財産だった。

 中身を確かめた男は、踏みつけた赤いドレスを軽くはたいてドレス衣装ケースに仕舞い、葵に手渡すと逃げるように荷馬車を走らせた。

 葵は衣装ケースを開けて赤いドレスを取り出した。

 靴の跡の付いたアナスタシアとの想い出の詰まった赤いドレスを手にしながら、葵は震え声でスルーズに言った。

「目標が…出来たよ。ぼくは…これで…歩き出せるよ」

 スルーズは悲しい目を向けた。

 アンチ魔法ツールで今は読心魔法は使えない。

 だけど、スルーズには葵の思いが理解出来た筈だ。

「この靴跡も、踏みつけられて傷んだ生地も、やったのはあの男じゃない。これをやったのはペトロ大公だ」

「葵様……」

「復讐だ。ぼくはマリーを死なせたペトロに復讐する」

 震える手でアナスタシアの赤いドレスを握り締める葵の背中をスルーズが抱きしめた。

 柔らかで心地よい風が二人を包み込んだ。

 真っ青で済み切った空を葵は見上げた。

(何で今日の空はこんなに青いんだろう?)

 心の中は怒りと憎しみで満ちているというのに。

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