第四章 魔女と太陽 6

 城じゅうの人手が裂かれ、城壁の中も外もくまなく探された。にもかかわらず、日が暮れても、フリーダの姿はどこにも見当たらなかった。

 城壁の上に揺れる松明の火を見つめながら、ソールは、フリーダの消えたテラスの上で、奥歯を噛み締めてじっと立っていた。考えはまとまらず、頭の中では疑問ばかりが巡り続けている。

 「ソール」

振り返ると、オラトリオが彼の風の精霊を連れて立っている。

 「フリーダは…やっぱり、いないのか」

 「馬は厩に残っていた。遠くへ行けるはずはないのだが」

しかし、その口調はどこか自信なさげでもある。

 「フルールの容態は?」

 「目を覚まして、今のところは正常だ。ずっと泣いておるが、ベイオールがついておるから大丈夫だろう。魔女に魅入られたのも、おそらくハルベルトと同じで一時的な発作のようなものだ」

 「……そうか。」

魔女の残した冷気は、城壁の向こうから吹いてくる風に吹かれてどこかへ消えてしまった。

 「オラトリオ、…"冬の魔女"は一体どうすれば倒せる」

 「倒す、か。…もしあれが本当に、人間の女たちを寄り代として代替わりしていく存在なのだとしたら。はてさて…」

杖によりかかりながら、黒いローブの魔法使いは静かにテラスの端へと歩みを進める。

 「フルール姫は、満たされぬ強い願望に付け入られたようだ。伝承が正しければ、スニルダもラヴェンナも、ともに悲劇のうちに命を落とした女性たち。孤独、絶望、怒り…悲しみ…、人の抱く欲望と、その欲望の満たされぬことが魔女を呼び込むのなら、それはもはや人にとって"宿命"だ。逃れることは出来ん。」

 「…だったら、フリーダは、どうして?」

 「……。」

 「分からない。ずっと変わりないように見えたのに…あいつのどこに、魔女に魅入られるようなのがあったのか…」

オラトリオは、じっとソールを見つめる。

 影が揺れる。


 "もしも、魔女が本当は倒せないものなのだとしたら。"


胸のあたりに手を当てる。心臓が痛い。

 本当は気づいていた。自分を見つめる春色の瞳が、以前とは違うものにありつつあることにも、自分がそれを嬉しいと思っていたことにも。

 あの日、馬と少女が降ってきたときから、変わり始めた世界。――変わってゆく自分の中の気持ちを、認めるのが怖かった。

 一人で故郷に戻るのが本当は辛かったのだ。

 それなのに、気づいた時にはもう、一番失いたくなかったものは目の前から失なわれてしまったあとだった。

 「俺はもう一度、北の山へ行くよ。フリーダは、あそこにいる気がする」

 「行って、どうする?」

 「分からない」

ソールの表情には、いつしか、悔しさが滲み出していった。

 側にいたのに、何も気づけなかったこと。

 あの時、彼女を一人残して先に行ってしまったこと。

 何か言いたげだった表情に気づいていたのに、それを無視したこと。

 (俺は馬鹿だ)

首を振り、ソールは、上着の裾を翻して歩き出そうとする。

 「馬を借りるって女王様に伝えておいてくれ。俺に何かあっても、あの馬なら賢いから自分でここに戻って来られると思う」

 「ソール! ――」

オラトリオの声が、彼を呼び止める。。

 「ひとつだけ思いつくことがある。満たされぬ思いの満たされた時にどうなるのか、だ。倒すのではなく、"救う"ことが出来れば、或いは…。」

 「…救う?」 

 「そうだ。ほかの誰にも出来なかったこと、お前なら出来るかもしれん。わしの思い違いかもしれんが…、フリーダ姫の願いは…。」

 「……。」

唇を噛み締めて、ソールは大股に歩き出した。向う先は、厩だ。

 厩に辿り着くと、彼は誰にも声をかけず暗がりの中に滑り込んだ。眠っている馬たちの間を擦り抜け、一番奥の頑丈な柵の中に入れられている灰色の馬に近づく。城に戻ってきてから、ずっとそこから出してもらっていないはずだ。

 「グラニ。今から連れて行ってもらいたいところがある。お前の足を借りたい。」

どっしりとした馬は、垂れていた首を面倒くさそうに上げて、軽く鼻を鳴らす。眠たそうな顔をしてはいるが、嫌だという表情ではない。ソールは、隣の柵の中にいたフリーダの白い馬も一緒に外に引き出した。

 「お前のご主人を迎えに行くんだ。一緒に来い」

スキンファクシも、抵抗はしなかった。ソールの言うことが分かっているようだった。それぞれに鞍を置いて厩の外に引っ張り出すと、彼は、肩の上に乗っている相棒に向って言った。

 「ティキ」

 「キュッ?」

 「ヤルルとアルルを探して来てくれないか。あいつらを置いていくと、後々恨まれそうだから――」

 「もういるよぉ」

頭上で声がして、厩の屋根から、ひょっこり二人が顔を出した。淡い緑色の髪がふわりと揺れ、透明な羽根をはばたかせながらソールの目の前に下りてくる。

 「置いていかれるかと思っちゃった」

 「フリーダを探しにいくんでしょ?」

 「ああ」

妖精たちは、二人がかりで抱えていた包みをソールの腕の中に落とす。

 「これは?」

 「女王様からのだよ。」

 「着替えと…、あと何だったっけ。色々」

 「魔法使いも何か入れてたよ」

包みの中にフリーダのいつも使っていた弓矢が覗いていることに気づいて、ソールは、首をかしげた。どうしてこんなものが―― けれど、もしかしたら必要になるかもしれない。

 荷物を鞍にくくりつけ、鞍の上に飛び乗ると、妖精たちはソールの上着のポケットにするりと収まった。夜更けの真っ暗な夜空には、それでも、わずかに光がある。月と星。曇り切れ間から覗く輝きは、旅人たちの道しるべだ。

 「いくぞ」

誰かに見つかって止められないうちにと、ソールは馬に拍車をかけた。王宮の明るさが、家々の窓に灯るランプの灯が、そして城壁に揺れる松明の火が、次々と遠ざかってゆく。まだ雪を被ったままの平原は、どこまでも続く一面の闇。

 北へ向かうのだ。そして、今後こそ、決着をつけなければならない。




 再び訪れた北の山は、以前見た時よりずっと小さく思えた。一面に被っていた白い雪はほとんどが溶けて流れ落ち、奇妙な形をした岩が黒く剥き出しになっている。巨人やドラゴンの気配もない。けれど山頂のあたりにかかっている雲だけは、以前と変わらないように見えた。

 「あそこに、フリーダがいるの?」 

 「だと思う。グラニ、出来るだけ山頂に近づけるか?」

当然だというように馬は一声いななき、山腹めがけて駆けてゆく。行く手のほうから冷たい吐息のような風が吹きつけてくる。山の上空を覆う雲から吹き降ろす風だ。

 「…意外と風、強いな」

羽織ってきた上着の裾がばたばたと大きく揺れる。

 「さむいー!」

 「なにこれえ」

ヤルルとアルルはポケットの中から悲鳴を上げている。

 「キュッ…」

 「…ああ。魔女の気配、間違いない」

倒したはずの、冬の魔女の気配だ。馬を岩陰に止めて地面に下りると、ソールは、手を翳して辺りを見回した。山頂はあの時と同じように、灰色の雲の中にある。息が白い。険しい斜面に取り掛かった時、ブーツの下で霜柱が割れる音がした。魔女を倒した後は溶けていたはずなのに、山頂近くの地面が、再び凍り始めているのだ。

 「フリーダ!」

声を張り上げて名を呼ぶ。

 「どこだ? 返事しろ!」

声が風にかき乱され、散らばっていってしまう。

 辺りを見回しながら歩いていたソールは、はっとして立ち止まった。そこは以前、氷の玉座にラヴェンナが座していた場所だった。氷の玉座がない代わり、ドレス姿の少女が一人、膝を抱えて、白く凍りついた地面の上にうずくまっている。

 「フリーダ…」

やっぱり、ここにいたのだ。ほっとすると同時に、ソールは、次の言葉を失っていた。

 「…来るような気がしてたわ。でも、無駄だからね」

顔を上げないまま、彼女は低く言った。この気配は、間違いなく冬の魔女のもの。それも、フルールを覆っていたものよりはるかに強い。

 白い靄のようなものが辺りに漂い始める。一歩踏み出そうとしたソールは、ブーツの底が地面に張り付いて動かなくなっていることに気が付いた。氷が足首まで這い上がってくる。

 「近づかないで。私は冬の魔女。こっちへ来たら、心臓を凍らせてしまうわよ」

妖精たちがポケットから心配そうに覗く。

 「どうしたの、フリーダ」

 「さむいよ…なんでこんなことするの」

 「私に近づかないで!」

叩きつけられた言葉とともに、肩の辺りに鋭い痛みが走った。ソールは思わず小さく呻いて傷口を押さえる。氷に貫かれた皮膚から鮮血が滴り落ちる。

 「さっさと帰って!」

 「うわっ」

突風とともに、足元の地面が崩れ、側にいた二頭の馬もろとも、崖を滑り落ちる。ひどく叩きつけられずに済んだのは、ヤルルの魔法のお陰で、空気がクッションのようになったからだ。

 柔らかい衝撃とともに地面に転がったソールの胸の辺りに、アルルがしがみついて傷口に治癒の魔法をかけてくれている。

 「ソール、ソール、大丈夫?」

 「ああ、何でもない」

見上げると、転がり落ちてきた崖の上のほうには、さっきまでより分厚い靄が渦巻いているのが見えた。フリーダの起こしている冷たい風のせいだ。あそこでは、体の小さい二人は飛ばされてしまう。

 心配そうなヤルルとアルルをを両手で包むと、彼は、意を決したように言った。

 「ここで待っててくれ。俺一人で行って来るから」

 「えー! 危ないよ」

 「ソールぅ」

 「大丈夫だよ。フリーダと話してくるだけだから。それに、皆一緒に行ったら多分グラニはさっさと王都に帰ってしまうぞ。誰かがこいつを見張ってないと」

灰色の馬は、フンと鼻をならして前足で地面をかいたが、本気で怒っているような素振りではなかった。短い間ではあったが、今では、この馬とソールの間にも仲間意識のようなものが芽生えていた。気位が高いだけではなく本当に優れた馬だということは、馬のことはあまり知らないソールでも分かっていた。

 さらに彼は、肩の上に乗っていたティキも片手でつかんで、そっと馬の鞍の上に置いた。

 「キュッ?!」

 「お前も、ここで待っててくれ。…一人で行きたいんだ」

異議を唱えたそうな顔をしながらも、ティキは大人しく鞍の上に腰を下ろした。尻尾をたてて、軽く振る。

 「分かってるよ」

 「ソール…」

アルルが、胸の前でぎゅっと手を握り締めている。

 「フリーダを、たすけてあげて。ぜったい、たすけてあげて。」

 「ああ。分かってる」

 「フリーダはね。ソールのこと…ほんとは、大好きだよ」

 「……。」

 馬の側を離れて一人で歩き出したとたん、寒さが全身に押し寄せてきた。ヤルルの風を防ぐ防御壁も、ティキの炎の加護も無い。吹き飛ばされないよう周囲の岩を掴みながら、ソールは、風に逆らうようにして一歩、一歩、前へ進みはじめた。

 崖を這い上がると、真正面から風が押し寄せてきる。

 風の中に、少女の姿が見えた。

 「フリーダ!」

さほど離れていないはずなのに、ひどく遠い。立ち上がってこちらを見つめている瞳。冷たい光を宿してはいても、瞳はよく知った色のまま。長い銀の髪が解けて、風になぶられるように散らばっている。そして――血の気のない真っ白な表情は、何か言いたげに、悲しげに歪められていた。

 「ダメよ、来ないで」

 「帰ろう。迎えに来たんだ」

 「いいえ。帰りたくない」

きっぱりと言って、彼女は首を振る。

 「私は…私が最後の魔女になる。もう分かってるんでしょ? 誰かが魔女にならなくちゃいけないんだって。魔女はそういうものなの。だったら私が…ここにいれば、誰も傷つけないで済むでしょ?」

 (違う)

それが本心からの言葉でないことは表情を見れば分かる。頭では分かっていても、覚悟を決められているわけではないのだ。自ら望んでこうなったわけではない。戸惑いと、悲しみ。重圧に押しつぶされそうになりながら、必死で耐えている。

 「こんなところに一人で何百年もいたら、いつかお前もラヴェンナと同じようになってしまう。帰ろう」

 「ダメよ。私は帰れない。帰りたくないの。だからもう、忘れて。私のことは…」

 「出来るわけないだろ!」

手を伸ばしかけたとき、背後から衝撃が襲い掛かった。口の中に血の味が広がって、目の前が一瞬、真っ白になる。

 「嘘つき」

前のめりに地面に両手をついたまま、ソールは、ぼんやりと目の前の凍りついた地面の上に立つフリーダの足を見つめていた。白い素足。それに、こんな風の中で彼女は、薄いドレス一枚しか着ていない…。

 「ヴィークリーズに帰ったら、どうせ私のことなんかすぐ忘れてしまうつもりだったくせに。私のことなんて、何とも思ってなんかないくせに!」

声は、遠くから響いてくるようだった。

 「戦いが終わったら、私は王都から出られない。王宮に閉じ込められて、誰かの妻にされて、それで、飾り物みたいに一生を終わっていくの。そんなの嫌よ。立場に引かれて群がってくる貴族だの騎士だのの求婚者たち、うんざりする。誰かに守られるのも嫌。だから…」

 「だから? …それがお前が魔女の声を受け入れた理由なのか。」

ソールは、風に飛ばされないよう、鎚を地面に叩き込み、それを足がかりにして立ち上がる。

 「そんなことなのか…? それが、お前の望んだこと?」

 「そうよ。私は一人でいい。王女なんかに生まれたくなかった…、私の道は、私が決めるの。私は、誰のものにもならない!」

 「……。」

フリーダが震えているのが分かった。寒さのせいではない。強く握り締めたスカートの裾。

 ソールは、心を決めた。

 「だったら…俺も、森には帰らない」

 「えっ?!」

 「ここにいる。お前と一緒に」

 「だ、ダメよ。何言ってるの? キミは…帰らなくちゃ…」

 「お前は王女だから、一緒には行けないと思ってた。家族と一緒に暮らすのが一番いいって思ってたんだ。でも本当は…そうしたかった」

少女の瞳が大きく見開かれ、うろたえたように、一歩あとすさろうとする。だがソールは、その腕を掴んで、雪のように冷たいフリーダの体を強引に自分の側まで抱き寄せる。腕の中で、少女が大きく体をのけぞらせる。

 「ばかじゃないの、私なんかのために、自分の故郷を捨てるつもり?」

細い体は芯まで冷えて、まるで氷のようだ。怯えているのだ、とソールは思った。腕の中で叫びながら身をよじる少女の声は、まるで悲鳴だった。

 「ばかはそっちだろ。何が最後の魔女だよ。王宮に閉じ込められるのと、こんなところに閉じこもるのと、何が違うんだ」

 「だって、…」

 「言ってみろよ。お前は、本当は何がしたいんだ?」

体の上に白く霜が降りていく。けれど、彼は動かなかった。ソールの心臓のあたりに、フリーダの固く握り締めた拳がある。やがて、その拳から力が抜けて、根負けしたように力なく体の脇に垂れた。

 「…ソールと、ずっと一緒に旅がしたかった。もっと世界の色んなところが見たかった…」

 「だったら」

俯いたフリーダの額に自分の顔を寄せながら、ソールは、囁いた。

 「そうしよう」

涙が一粒、零れ落ちた。風が弱まり、フリーダは、ソールに支えられるようにして地面の上に崩れ落ちた。

 「寒いだろ、そんな格好じゃ」

ソールは、羽織っていた上着を脱ぐと、それをフリーダの肩に上着をかけた。

 「…ごめんな。お前が辛いの、なんとなく分かってたのに聞けなかった」

見上げる瞳は、春の色。初めて会った時から、ずっと瞼に焼き付いて消えなかった色。

 「もう一人で悩んだりするな。」

 「だって…、」

すねたように口を尖らせ、フリーダは、小さな声で呟いた。「私を置いて、帰るなんていうから…。」

 「悪かったよ。」

 「それだけなの?」

 「それだけじゃないけど…」

フリーダの腕をとると、ソールは、上着の下から取り出したものを、その腕に嵌めた。「これ、お前にやるよ」

 それは、フッラから受け取った、金の腕輪だった。

 「……!」

真っ白だった少女の顔が赤くなっていく。

 「ちょっ…これ。待って。私… 魔女になったのよ?」

 「だから?」

 「人間じゃなくなっても…」

 「俺も人間じゃないよ」

 「わ、私、色んなもの凍らせちゃうかも…」

 「させないよ。俺が一緒にいる」

 「でも…」

 「言っただろ。一緒に、旅に出ようって」

周囲を取り囲んでいた灰色の雲を押しのけるようにして山の斜面に出たちょうどその時、目の前を黄金の光が横切った。

 真っ赤に染まる空と山の斜面。

 東の地平線から、金色の輝きが昇って来ようとしている。まばゆい熱が全身を包み込み、二人は、思わず手を翳した。世界が金色に染まって見える。

 「…綺麗ね」

フリーダが、ぽつりと呟く。「世界がこんなに綺麗なものだなんて、知らなかった」

 「もっと沢山、綺麗なものはあるよ。一緒に見て行こう」

 「……うん」

太陽の光に照らされて二人の影が長く伸びる。

 「もう体は大丈夫か」

 「あったまったわよ、十分にね」

顔を逸らしながら言って、彼女は、ソールのかけた上着の端をつまんだ。

 「…でも、この上着はもうちょっとだけ借りておくわ」

 「ああ。いいよ」

それ以上の言葉は必要なかった。いつしか風は止み、靄も去っていた。




 崖を降りると、馬と一緒に待ちわびていた妖精たちが飛びついてくる。

 「あ、ソール!」

 「フリーダぁ!」

二頭の馬と一緒に待っていたヤルルとアルルが、飛びついてくる。

 「ただいま。」

 「フリーダ、もうへいき?」

アルルが少女の頬をぺたぺた突いている。

 「なんとかね。」

苦笑しながら、彼女は手の平に小さな妖精の少女を受け止める。

 「心配かけちゃったわね。スキンファクシ、あなたにも」

白い馬が鼻を鳴らす。

 「フリーダの着替えも、ちゃんともってきたよ」

と、ヤルル。

 「あら本当。…弓? これって、母さまから?」

 「多分」

包みを解いた彼女は、はっとした表情になる。

 「…これ、私の、旅に出てたときの服と道具だわ」

 「旅に?」

まるで、彼女がもう王都には戻って来ないことを、最初から判っていたかのような選び方だ。それに、もう一つ。丸められた羊皮紙と、羅針儀も一緒に入っている。

 「これは…地図ね。オラトリオが作っていたものだわ」

いつだったか書斎で見せてもらった、未完成の世界地図だ。

 「なんだか、俺たちがこれからどうするか、分かってたみたいだな」

 「そうね。」

 「キュッ」

ティキが尾を振りながら、馬の上で飛び跳ねる。

 「ん? ああ、…言うの忘れてた。俺、ちょっと旅に出てみようかと思うんだ」

 「旅ぃ?」

ヤルルが声を上げる。「なにそれー、面白そう! どこいくの?」

 「どこいくのー?」

アルルも声を合わせる。

 「それはフリーダが決める。な」

 「え? あっ、…そうね」

少女は、困ったように頬をかく。「どこにしようかしら…どこでもいいの?」

 「いいよ。俺は、ついてくから」

 「アルルも行くー!」

フン、と鼻を鳴らしてグラニがソールの背中に頭突きする。

 「…ん、何だ。お前は王都に帰るんじゃないのか?」

 「ついてくる、って言ってるみたいだよ」

と、ヤルル。

 「ソールのこと、気に入ったんじゃな…うわぁ」

馬にかじられそうになって、慌てて宙に飛び上がる。

 「何するんだよぉー! もー、素直じゃないなぁ」

前足で不機嫌そうに地面を叩き、灰色の馬は、妖精を睨んだ。

 「ま、いいさ。お前がいれば、旅もラクになるし」

ぽん、とグラニの背を叩く。「これからもよろしくな。」

 「よーし、決めたわ!」

少女が声を上げる。「前から行ってみたかった場所があるの! 遠いし絶対無理だって思ってたけど、いいわよね?」

 「ああ、いいよ。時間はたっぷりあるんだ」

笑いながら、ソールは明るい春の色の眼差しを見やった。

 この世界に、もう冬の魔女はいない。最後の魔女がどこへ行ったのか、人々が知ることはないだろう。




 これは、北の地にその後も長く謳い継がれる物語だ。

 春告げの祭りの始まる頃に人々は思い出す。終わらない冬と雪と孤独の女王が去っていった時のことを、長い冬を終わらせた太陽と、黄金の鎚の言い伝えを。

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