第二章 国境の砦 5

 咆哮と共に、凄まじい衝撃が四方に広がっていく。びりびりと震える空気の振動でもろくなっていた建物の壁が崩れ落ち、フリーダもベイオールも耳を押さえたまま動けない。

 目の前にいるもの、かつて中庭だった空間にいるその巨大な黒いモノは、――ついさっきまで、まるで眠っているかのようにぴったりと地面に張り付いていたものだ。あまりにの大きさに呆然とし、どうやって倒したものかと思案していた矢先、突然目を覚まして襲い掛かって来た。一瞬のことだった。身を守るので精一杯で、二人はもはや戦う気を失っていた。

 「なんて大きさだ。これじゃ急所も狙えない」

 「無茶言わないで、まさか一人で倒す気なの? 急いで戻ってアストラッドに報せなきゃ! 私たちだけの手には負えない」

剣を構えたまま、ベイオールは悔しげに奥歯を噛み締めている。ここに来てから、まだまともに戦っていない。フリーダの前で、せめて一太刀だけでも浴びせたかった。

 「ベイオール、聞いてるの?! 早く逃げ――きゃっ」

ドラゴンの羽ばたきで風が起こり、目の前の壁が崩れ落ちる。そこは、さっきフリーダたちが通ってきた、廊下へ戻る道だ。

 「…どうしよう。ここはもう駄目だわ。他に出口は」

 「先に行ってください。おれが時間を稼ぎますから」

 「時間? あんなもの相手に、一体いくら稼げると思ってるの。キミの命を使ったって大した時間稼げやしないわよ!」

フリーダの言葉は容赦無い。だが、それが現実だった。翼の一振りでなぎ倒されてしまうほどの体格差を前に、出来ることなどそうは無い。

 黒い巨体が狙いを定め、大きく口を開いた。禍々しい暗い穴が、頭上にぱくりと開かれる。そのまま飲み込んでしまおうというのか。

 「何してるの、逃げて!」

フリーダの声は届いていたが、ベイオールは動かなかった。鬼のような形相で、剣を構えたまま頭上の眼を睨み返している。このまま、おめおめと逃げ帰るなど出来ないと思った。敵を前にして逃げるなど騎士道の名折れだ。命を捨ててでも――何としてでも、せめて、一撃だけは。

 その時だ。

 視界の端から真っ直ぐに、何かが飛び込んできた。それはベイオールめがけて食らいつこうとしていたドラゴンの頭を横殴りに跳ね飛ばす。

 ゴスッ…

 鈍い衝撃音とともに、ドラゴンの首が揺らいだ。

 「ソール!」

ほっとしたようなフリーダの声。黄金の鎚をくるりと回しながら、彼は、ベイオールと黒い巨体との間に立ちふさがった。

 「生きてたか。」

彼の口調は、そっけない。それから、視線をちらりとドラゴンのほうに向ける。

 「ずいぶんデカイな、他にはいなかったのか?」

 「見たのはそいつだけだ」

ベイオールは、むっとしながら答える。腹を立てるのはお門違いだと分かっていても、彼には、到底納得のいかないことだった。

 「助けてくれなんて頼んだ覚えはないぞ」

 「俺も頼まれた覚えはない」

軽く流しながら、ソールは、頭上で怒り狂った雄たけびを上げる黒い小山のような巨体を見上げた。振り回された尾が周囲の建物をなぎ倒し、黒い小人たちが悲鳴を上げながら吹き飛ばされていく。怪物にとって、自身をここまで大きく育ててくれた小さきものたちの存在など、眼中にはないのだった。

 戦うには骨が折れそうだ。ソールは、上着のポケットを叩いた。

 「ヤルル、アルル、フリーダと先に行っててくれ。」

妖精たちが這い出してきて、心配そうに彼を見上げる。

 「ソール?」

 「俺は、こいつを片付けてから戻る」

 「何を――」

 「行くわよ、ベイオール。」

フリーダは、動こうとしない少年の腕を掴んだ。「ソール、あなたも、無茶はしないで」

 妖精たちを引き連れて、少女はソールの現われたガレキの山を越えていく。ちっ、と小さく舌打ちしながら、ベイオールも後を追った。

 「キュッ、キュッ」

肩の上でティキが小さく声を上げる。

 「――そうだな。あいつは大きいから、思い切りやらないと効かないかもしれない」

両手で、鎚の柄を握り締めた。

 空から、ちらほらと粉のような雪が舞い降りてくる。

 一瞬、奇妙な静寂が落ちた。開けた空間に対峙する巨体と少年、今そこにあるのはただそれだけだった。ソールは、不思議な感覚を覚えていた。あれほど感じていた恐怖が、今はもう無い。死の影は視界のどこにも無く、体には熱がみなぎっている。巨大な敵を前にしても、ちっとも怖くないのだった。



*******



 さっきまで聞こえてきていた、地響きのような音が止んだ。

 砦の門のあたりでそれぞれの馬とともに待っていた二人は、顔を上げ、雪のちらつく向こうを見やった。フリーダはそのまま何かを待ちわびるように視線を固定しているが、ベイオールのほうは、盗み見るようにちらりちらりとフリーダの横顔を見やっていた。

 やがて、じれったそうに彼は口を開いた。

 「いつまでこうして、じっとしてるんです」

 「ソールが戻って来るまでよ。彼を置いていくわけに行かないでしょ」

 「戻って来ると思ってるんですか」

 「当たり前よ。」

厳しい、きつい瞳が傍らの騎士に向けられる。

 「それより、キミこそ何時までここにいるの。先に帰ってアストラッド義兄さまに伝えなさいと言ったのに」

 「フリーダ様を一人で置いていけません!」

 「…なら、文句言わないで」

はあ、と白い溜息。わずかな沈黙。

 「フリーダ様…あいつが、ドラゴンを倒せると本気で信じているんですか」

 「彼に無理なら、私たちのうち誰も出来ないでしょうね」

 「なぜ、そこまで信用するんです」

ベイオールは食い下がる。「あの男はこの国の人間ではない。他国の戦士でもない。得体の知れない、正体不明の存在だ。」

 「でも、私たちの命の恩人よ」

フリーダも言い返す。「あなたこそ、何でソールをそんなに敵視するのよ」

 「それは、…信用ならないからですよ!」

 「それだけ? 本当に?」彼女は腕を組みながら少年騎士を睨みつける。「私のやることには片っ端からケチをつけるのね、キミは」

 「貴女は王女だ。自分の立場に相応しいことをなさって下さい。」

 「そんなこと! ――言われなくたって…」

 「へくちっ」

言い争いが最高潮に達しようとしたとき、フリーダのマフラーの中にうずもれていたヤルルが小さくクシャミした。

 「寒いー、ソールまだぁ?」

アルルが震えている。フリーダは、手袋をはめた手で、マフラーの上から二人をそっと包み込んだ。

 「大丈夫、すぐ戻って来る」

 「ぐしゅっ…、あ!」

ヤルルが顔を上げた。「ソール!」

 振り返ると、がれきの山を乗り越えて、こちらに向かってゆっくりと歩いてくる少年の姿が見えた。待ちきれず、妖精たちはソールにとびついて冷たい手で左右から彼の頬を叩いた。

 「ソール、もどってきたあ」

 「おーそーいー」

 「待っててくれたのか、お前たち」

 「当たり前だよぉ。」

駆け寄ってきたフリーダは、雪の上に点々と落ちている赤いものに気づいて、はっとする。

 「ソール、それ」

 「ん?」

彼は、フリーダの視線に気づいて自分の手を見下ろした。「ああ、――手袋が擦り切れてしまったんだ。思い切りやったから」

 「手の皮が破けちゃってるじゃない! じっとしてて、すぐに治すから」

 「アルルもてつだうー」

ソールに両手を差し出させ、二人は治癒の魔法をかけていった。ティキは興味深そうな顔をして、肩の上からじいっとそれを見つめている。

 「他にケガは? 痛いところは、無い?」

 「とくには」

 「…まさか、あのデカいのを倒したっていうのか?」

ベイオールは信じられないという口調だ。「どんな魔法を使った」

 「ベイオール。そういう話は後にしましょう」

咎めるように言って、フリーダは、自分の馬を呼んだ。もう、辺りは暗くなり始めている。日暮れの時間だ。積もった雪が、青白く薄暗がりの中に浮かび上がって見える。

 「急がないと、夜までに帰り着けなくなるわ。さあ乗って」

むすっとしたまま、ベイオールも自分の馬に跨った。静まり返った砦を背に、馬たちは空へと駆け上がる。

 振り返ったソールは、遠ざかってゆく廃墟を一瞥した。灯りひとつ見えない灰色の塊は、やがて、視界の果てへと急速に消えていった。




 砦を囲む城壁の上には、篝火がいくつも焚かれ、帰り路を急ぐ馬たちの行くべき方向を指し示している。帰りついたとき、辺りはすっかり暗くなってはいたが、人の住む砦の周りだけはまるで昼間のように明るく照らし出されている。

 今か今かと帰還を待ち受けていたフリーダの姉、フィオーラは、馬の姿を見るなり、自ら足を運んで館の入り口まで出迎えに現われた。

 「お帰りなさい、全員揃っているわね?」

 「姉さま、わざわざお出ましにならなくても…」

毛皮の分厚いコートを羽織った女性は、白い息を吐きながら悲しげに微笑む。

 「そう言わないで。あなたたちが苦労しているというのに、私には祈っているくらいしか出来ないのよ。せめてこのくらいは役に立たせて頂戴」

言いながら、馬を下りたフリーダから弓と矢筒を受け取ると、ソールとベイオールのほうにも視線をやった。

 「ベイオール、あなたもお疲れ様」

 「姫様にねぎらわれるほどの働きはしていません」

むすっとした表情で答えながら、彼は、自分とフリーダの馬との手綱をとった。

 「馬を休ませてきます。では」

それだけ言って、歩き出す。フィオーラは、くすっと笑ってフリーダたちのほうに視線をやった。

 「…彼が不機嫌ということは、ソールが一人で片付けてしまったの?」

 「俺は大したことはしてない」

ソールが答える。

 「最後だけだ。途中ではぐれてから、フリーダを守ってたのはあいつだから」

 「そうなのね。何があったのか、中でゆっくり話を聞かせてくれるかしら? アストラッドが待ちわびてるの」

フィオーラについて、二人は館の奥へ歩き出す。廊下に掲げられた松明の火が揺れ、ソールの肩に乗っていたティキが嬉しそうに尻尾をくゆらせる。ずっと上着のポケットの中に隠れていたヤルルとアルルも、暖かくなったので外に出てきた。

 案内された居間には、砦の主アストラッドが待ち受けている。非常事態にはいつでも飛び出せるように鎖鎧で武装はしているが、その上には、室内用の優雅なガウンを羽織って、剣と手甲は傍らに置いてあった。

 二人が入ってきたのを見て、アストラッドは席から立ち上がって出迎えた。

 「座ってくつろいでくれたまえ。手水と暖かいタオルをここへ。飲み物と軽食もすぐに用意させよう」

 「ありがとうございます。でもその前に、お伝えさせてください。――あちらの砦、たぶん、取り戻せたと思います」

 「何だって、本当に?」

 「ええ。ドラゴンは、一匹だけしかいませんでしたし…それは彼が倒してくれたから…」

フリーダは、ちらとソールのほうを見やった。

 「黒い小人たちは、まだ潜んでいるかもしれませんが、彼らには何も出来ないと思うわ。」

手洗いのための水を入れたボウルと、タオルとが運ばれてくる。フリーダは手袋を脱ぎ、ボウルに手をつける。側では、ぱちぱちと音を立てて暖炉に暖かい火が燃えていた。ティキは、ソファの端を伝って火の側にかけていき、さも当然という顔をして暖炉の縁に腰を下ろす。何人もの使用人たちが入ってきては、湯気のたつスープ、焼き菓子、肉のパテと薄切りのパン、炭酸水水のグラスやティーポットなど、様々なものを次から次へと机の上に並べて退出していった。

 そうした大騒ぎが一段落つき、部屋の中に元通りの四人だけになった頃合を見計らって、ソールは口を開いた。

 「冬の女王って奴に会ったよ」

お茶を注ぎ分けようとしていたフィオーラの手が、ぴたりと止まる。ソーダ水のグラスを手にしようとしていたフリーダが勢いよく振り返った。

 「いつ?」

 「ドラゴンと戦う前」

 「キミ、そんなこと一言も言わなかったじゃない」

フリーダの声は非難の色を帯びている。

 「あの時、そんなこと言ってる暇無かっただろ」

 「それは…そうだけど」

 「本当なのか」

アストラッドの固い声。正面に視線を向けると、こちらをじっと見つめている男の顔があった。

 「そいつに出会った者は、みな、かどわかされて連れ去られるといわれている。何故、君は無事で戻ってこられた?」

 「呪いが効かなかったせいじゃないかな。ティキも一緒だったし、凍らされずに済んだ」

ソールは、目の前の手のついていないグラスをひとつ取り上げると、中身をぐいと飲み干した。

 「あいつに聞いたよ、なんで世界を凍らせるのかって。つまらない理由だった。世界を自分のものにしたいから、だとか。」

妖精たちは、話に構わず賑やかに声を上げながら好きな食べ物をめいめい探している。ティキは、その横でいつものようにまるくなって尻尾を振っていた。

 だが、アストラッドもフィオーラも、そしてフリーダも、動けないままだった。"冬の女王"と出会ったことを大したことないように言い、その目的も"つまらない"と言い切る存在を前に、どうしていいのか分からないのだった。

 ややあって、ようやくアストラッドが訊ねた。

 「どんな――奴だった?」

 「真っ白な痩せた女。髪がやたらと長くて、青い色の細い目をしてたな。手がやたらと冷たかった。でも、あれは実体じゃないと思う。手ごたえがなかったから」

フリーダが隣で悲鳴に似た声を上げる。

 「手ごたえって…、まさか、攻撃したの?!」

 「ああ、俺の敵だってはっきりしたからな」

 「なんて無茶を。もし、本物だったら――勝てなかったらどうするつもりだったのよ」

 「勝てない相手から逃げようとして逃げられると思うのか?」

 「…それは」

 「選択肢なんてない。敵と出会ったら、戦うしかない」

俯いてしまったフリーダに代わって、今度はフィオーラが言葉を継いだ。

 「あなたが無事で良かった。でも二度と、そんな無茶はしないで。今まで、冬の女王に挑んだ何人もの英雄たちが、彼女に攫われてしまったのよ。彼らはきっと、もう生きてはいないでしょう。そういう相手なのだから」

 「……。」

フィオーラの気遣うような眼差しに見つめられているのが妙にむず痒くなって、ソールは、視線を逸らして食べ物のほうに意識を集中させた。

 「さて。これからどうするのかしら、アストラッド?」

 「夜が明けたらすぐにも、精霊使いと掃討兵を送って向こうの砦から小人どもを完全に追い出す。これで魔女の前線基地のひとつを破壊して、我々の手に取り戻すことが出来たのだ。二度と利用されることがないように結界も張らねばならんしな」

 「私たちは予定通り王都へ向かいます」

と、フリーダ。「砦の奪還に成功したことを伝えて、増援を送ってもらえるようにします。」

 「そうしてもらえると在り難いな。向こうの砦の警備にも人が必要だ」

 「はい」

彼女は、膝の上で拳を握り締める。「やっと少しだけ、前に進めたんですね。やっと…」

 「先は長いぞ。敵の戦力を、ほんの僅かに削いだだけだからな」

アストラッドは、腕組みをしながら呟く。その表情は、これからどう戦力を配分し、どう戦うべきか思案している、軍の司令官らしい顔だった。フィオーラがすっと席を立ち、どこかへ消えていく。やがて戻って来た彼女は、片手に弦楽器を抱えていた。

 椅子に腰を下ろしながら、彼女は一同に微笑みかけた。

 「難しい話は明日からでもいいでしょう? 今日くらいは少し気を休めましょうよ。一曲いかがかしら」

 「わあ、姉さまのリラは久し振りね」

フリーダが笑顔になる。「いつものあの歌を弾いてくださる?」

 「ええ、いいわよ。」

弦の調子を確かめ、軽く指で弦をはじくと、澄んだ音が部屋の中に響き渡る。ティキがぴくりと耳を立て、妖精たちが振り返る。

 「なんのお歌?」

 「姉さまの得意な歌よ。物語になってるの、遠い昔のお話」


 ――虹の橋は崩れ去り 天樹の森は焼け落ちた


澄んだ女性の声が、指先から流れ出す透明な旋律に乗せて謳う。フリーダは目を閉じ、アストラッドも、曲に身をゆだねるように意識を集中させている。ソールは、曲に合わせて体をゆっくりとゆすりながら全身で曲を奏で続けるフィオーラを見ていた。

 これは放浪の曲だ。

 ずっと昔、大きな災いを逃れてこの地に辿りついた人間たちの旅の記憶。楽器を奏でながらゆらめくフィオーラの身体は、まるで波に揺られているようにも見える。


 ――死せる太陽 銀の月 巡る闇を越え、再び生まれた陽の下に

  ――古き神々は去り 新たな秩序の名の下に

  幾多の炎を乗り越え、われらは戦えり


 「これは…何だ?」

隣にいたフリーダが顔を上げる。

 「何って、詩じゃないの。聴くのは初めて?」

 「ああ」

節をつけて語るように謳われる詩は、不思議に体の奥まで染みこんでいくような気がした。それとともに、胸の奥がざわめいた。遠い記憶――血の中に刷り込まれた、今となってはもう思い出せない、幾多に重なり合った祖先たちの記憶。




 曲が終わったところで、ソールは口を開いた。

 「"古えの神々"っていうのは、どうして居なくなったんだ?」

 「ええっ、そんなことも知らないの。小さいときに、誰かに聞いたりしなかったの」

 「何も」

 「誰でも知ってる昔話だと思ってたのに。」

フリーダは呆れた様子だ。

 「ずっと昔に、神々の戦争が起きたのよ。それはそれは大きな戦争で、神々も、敵の巨人たちも、みんな死んでしまったの。人間は生き残ったけれど、他の沢山の古い種族が滅びてしまったのよ。っていうか、今の詩がその物語じゃない。ちゃんと聞いてなかったの?」

 「…よく、分からなかったんだよ」

小さな声で呟いて、ソールは視線を天井のほうに向けた。「覚えているような、覚えて無いような、不思議な感じで…」

 「……。」

アストラッドが、じっと彼を見つめている。

 「今の詩はすこし難しい言葉で語られているから、そのせいでしょうね。次はもう少し簡単なのにするわね」

微笑んで、フィオーラは再び弦に指をかけた。銀の弦から紡ぎ出される音は優しく、夜は、静かに更けていった。




 砦の中は眠りの静けさと暗がりに包まれていた。城壁の上にちらつく見張りの松明の火以外、町中にはほとんど光もない。残りの兵士たちは、アストラッドから翌朝早く出立することが告げられており、早めに床についているのだ。そんな中、半ば闇に包まれた中庭に、ひとり、剣を振るう影があった。

 空を切る音と荒い息遣い。

 かすかな気配を感じて振り返ったベイオールは、鋭い視線を闇の中に投げつけた。

 「何の用だ」

音もなく、闇の中から姿を現したのはソールだった。汗を拭いながら、彼はじろりとソールの周囲を見回した。

 「あのチビどもとリスは一緒じゃないのか。珍しいな」

相変わらずのむすっとした口調だが、さすがに疲れているのか、いつものような勢いはない。

 剣を構えなおし、少年騎士はソールに背を向けて再び鍛錬に打ち込みはじめる。その後ろ姿を、ソールは、離れたところからじっと見つめていた。

 「熱心なんだな」

 「ふん、慰めにきたのか」

 「慰める? 何を?」

 「なら何の用だ」

 「お前、フリーダにあんまり心配かけるなよ。」

 「な、…」

ベイオールははっきりそうとわかるくらい真っ赤になって、必死の形相で振り返る。

 「何を言ってるんだ貴様! 心配など…」

 「無茶してるのが分かるからな。あのバカでかいドラゴンに見つかった時、あんたは逃げなかった。勇気は認めるけど、逃げるべきだったと思う。」

 「貴様――」

殺気にも似た気配。もし誰かがその場を見ていたら、ベイオールはソールに斬りかかろうとしているのだと思っただろう。だが、ソールのほうは平然として、一歩も動こうとしなかった。

 「お前は、スキンファクシやヤルルやアルルには怒りを向けない。俺には向ける。」

 「当たり前だ! 馬や妖精に礼儀なんて言っても無駄だ。だが、お前は」

 「レイギ? それは何だ?」

 「……。」

次に叩きつけるはずだった言葉を失って、ベイオールは口をぱくぱくさせた。

 僅かな沈黙。

 溜息とともに彼は肩の力を抜き、額に手をやった。

 「はあ…。真面目に腹をたててる自分が馬鹿馬鹿しくなってくる」

剣をくるりと回して、腰の鞘に収める。

 「分かってたよ。おれには倒せなかった。…礼を言わなければならないのは、こっちのほうだ。あのデカぶつを倒してくれたことには感謝している。お前が来なければ、おれは死んでいた」

 「あんただけじゃない。フリーダもだ」

びくっとなって、ベイオールは振り返る。

 「あんたが逃げなかったから、フリーダも逃げなかった。二人とも死んでたぞ」

 「……。」

僅かな炎の光に照らされて闇の中に浮かび上がるソールの眼からは、なんの表情の読み取れない。怒りでも、哀れみでも、蔑みや同情でもない。――ただ、動かしようの無い事実を告げる言葉だけが真っ直ぐに突き刺さってくる。

 「わざわざ…、そんなことを言いに来たのか?」

 「お前に死なれるわけにいかないから」

真顔でソールは返した。

 「人が死ぬのは見たくない」

それだけ言って、ソールは、返事も待たず、来た時と同じように音も無く闇の中に消えていった。

 階段を昇り、廊下に差し掛かったところで彼は、壁にもたれて爪を嚙んでいるフリーダを見つけた。聞いていたらしい。あるいは、静かな夜のこと、声が反響して二階の廊下まで聞こえていたのかもしれない。

 「悪かったわね。気を使わせて」

 「何が?」

 「ベイオールよ。あいつは…なんていうか、その。悪い子じゃないんだけど、いつも空周りしてるから」

 「……。」

彼女は、言葉を捜すように視線を彷徨わせていた。

 「私が近くにいないほうがいいと思うの。私とでは、巧くいかないから。」

 「あんたは、何でそんなにあいつを嫌う?」

 「嫌いってわけじゃないの。ただ、彼は、私のことを"お姫様"としてしか見ようとしないから」

 「守られるのが嫌ってことか?」

 「なっ」

少女の顔がかすかに赤くなった。

 「分かったような口きかないでくれる? 何にも知らないくせに。山奥暮らしで、外の世界のことなんか何も――」

 「ここまで一緒に来た。見ていたから、少しはあんたのことも分かる」

ソールは、重ねるように言う。

 「あんたは、俺がはじめてドラゴンと戦った時、敵を引きつけようとしてくれた。勝てないと分かってるのに、逃げずに戦おうとした。あんたが強いことは知ってるよ。あいつと同じくらい強い」

 「……。」

少女は軽く眉を止せ、戸惑ったような顔をしてソールを見上げた。すべて見透かす瞳。どんな言葉にも動じない。何も知らない無知な少年だと思っていた相手が、ずっと近くにいた、獣の皮をまとった田舎者の少年が、急に遠い存在になったような気がした。本当は、何もかも分かっているのではないかとすら。

 「…王女として見られたくないのよ」

ぽつりと、彼女は言った。

 「お姫様は騎士に守られるもの、家を守るもの。そんな枠にはめられたくなかった。今まで何人も、戦いに出て行く男の人たちを見送ってきた。そしてただ、祈りながら待つの。戻って来ない人に涙を流すの。そんなのは嫌。ただ待ってるだけなんて…」

言いながら、言葉が確信に満ちた力強さを帯びていく。今まで漠然としか考えていなかったことが、とつぜんはっきりとした形を伴って目の前に現われてくるのを感じたのだ。

 「そう、守られるだけの女なんて嫌よ。姉さまたちのような、"夫をたてる良き妻"になんて、私は絶対になれない。自分の意志で生きていきたいの。だから弓を覚えたの」

 「そうか」

ソールは、頷いてフリーダの側を通り過ぎていく。

 「ちょ、…"そうか"って、キミねぇ!」

追いかけていくフリーダの甲高い声が廊下に響く。

 「言わせるだけ言わせておいて! このこと、誰かに言ったらひどいんだからね」

 「言わないよ」

 「絶対よ? こんなこと、誰にも言ったことないのに――」


 長い夜は、静かに更けていこうとしていた。

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