サツキさん

 あの日以来、アヤとは一度も会話をしていない。

 食事も一緒にとらない。

 顔も合わせない。


 一緒の家に住んでいるはずなのに、俺とアヤは他人以上に距離間のある生活を送っていた。


 そんな二人の状況を心配したのか、兄ちゃんが昨夜、突然家に帰ってきた。


「五日後。サツキをこの家に連れてくる。アヤに紹介しないといけないから」


 俺の部屋に入ってくるなり、兄ちゃんはそう言って笑った。


「それで……その場にヒサトもいて欲しいんだ」

「何で?」


 アヤに紹介するだけなんだから、俺がそこにいる意味はないだろ。


「何でって、朝が来て昼が来て夜が来てまた朝がやってくるのと同じくらい当然のことだろ」

「答えになってないからそれ。なんで当然なのかを」

「じゃ、そういうことだから。アヤにはお前から伝えといてくれよー」


 兄ちゃんは俺の言葉に耳を貸さずに、その言葉を残して去ってしまった。


「ちょっと! 兄ちゃん!」


 その声が虚しく俺の部屋に響き渡る。


「いやいやいや、何で俺がアヤに……。帰ってきたんなら兄ちゃんが直接言えばいいだろうが」


 胃が痛い。

 くそぉ。

 俺はもう、どうやってアヤと話したらいいか分からなくなっているというのに……。




  *****




 アヤに伝えられぬまま、当日を迎えてしまった。

 もちろん兄ちゃんは、この五日間、一度も家に帰ってきていない。


「はぁ……何で俺が」


 言わなきゃいけないんだ。

 いくら背伸びをしても、体がほぐれることはない。

 自室の窓を開けて太陽の光を取り込んでも、心が晴れることはない。


「でも、今日だからなぁ」


 ここのところ、毎日アヤは出かけている。

 だから、今日も出かけてしまう可能性は高い。


「ああくそ!」


 もうやけだ。

 伝えるだけなんだろ?

 アヤはまだ自分の部屋にいるはずだから、扉越しで、一方的に話せばいい。


 俺はアヤの部屋の前に向かった。


「今日は出かけるなよ。兄ちゃんがお前に用があるってさ」


 俺はアヤの返事も待たずに、そそくさとリビングへ逃げた。


 リビングで一人、アヤのことを待つ。


 ……。

 …………。

 ………………。

 ……………………。


 しかし、いくら待ってもアヤはリビングへこない。

 

 それどころか、誰かが階段を上ってくる足音の方が先に聞こえきてしまった。


 兄ちゃんとサツキさんが来たんだ。


「連れてきたぞー」


 そう言いながら扉を開ける兄ちゃん。

 後ろには、サツキさんの姿もある。

 腰のあたりまで伸びた艶やかな黒髪も、優しそうな目も、彼女の大人っぽさを際立たせていた。

 

「あれ? アヤは?」


 兄ちゃんに聞かれ、俺はそっぽを向く。


「まだ部屋じゃない?」

「伝えてくれなかったのか?」

「ちゃんと言ったよ」


 伝わっているかどうかは確認してないけど。


「そっか。……ま、それはそれとして」


 兄ちゃんはサツキさんの方を振り返る。

 サツキさんは笑顔を浮かべたが、その笑顔は、ものすごくぎこちないものだった。


「久しぶりね。ヒサトくん」

「はい。お久しぶりです。あ、こちらどうぞ。兄ちゃんもそんなとこで立ってないで座りなよ」


 俺はテーブルの下に入ったままだった椅子を引く。


「おお、すまんな」

「さすがヒサトくん。お兄さんと違って気が利くわねぇ」


 二人とも、俺に笑いかけながら椅子に腰かけた。


 ああ! だからなんで二人ともそんなにぎこちないんだよ!


「じゃあ、さっそくアヤを呼んできてくれ」

「え?」


 また俺?


「なんで。今度は兄ちゃんが行けば?」


 俺が兄ちゃんを睨むと、兄ちゃんは眉尻を下げてから、隣のサツキさんを見た。


「いや、俺は今……サツキがいるから」


 それは卑怯だ。

 反論できない。

 兄ちゃんの横にいるサツキさんの顔は真っ青だ。

 最愛の人兄ちゃんが寄り添っていないといけないと分かるくらい、衰弱しているように見える。


「わかったよ」


 俺は渋々了承する。

 リビングを出て後ろ手でドアを閉めると、本日何度目かすら分からないため息がまた出てきた。

 奥歯を噛みしめている自分がいた。


「いったいこれから何をしようってんだよ」


 兄ちゃんとサツキさんのあの様子を見て、嫌な予感を抱かない方がおかしい。

 まさか、サツキさんまでアヤとかかわりを持ってるんじゃないだろうな。


 ……いや、それしかないか。


 廊下の一番奥にあるアヤの部屋の前まで、出来る限りゆっくり歩く。

 部屋の前についてからノックするまで、少なく見積もっても一分はかかった。


 コン、コン。


 二度、扉を叩く。


「…………」


 反応は返って来ない。

 聞こえなかったのかと思い、もう一度ノックをする。


「何?」


 ドア越しではあるが、ようやくアヤは返事をしてくれた。


 俺は扉を開けようとドアノブを握ったが――結局開けられず、ドアノブを握ったまま話した。


「朝言っただろ。兄ちゃんが用があるって。それだよ」

「用って、なに?」

「兄ちゃんが、結婚相手を紹介したいんだと」

「へぇ」


 アヤは消え入りそうな声で続けた。


「でも、今は…………無理。ごめん」

「そんなこと言われても」

「一人でいたいから! 今は」


 明確に拒絶された。

 でも、俺は引き下がることは出来ないと思っていた。


 ――アヤに会う。


 たったそれだけのことなのに、サツキさんはすごく苦しそうで。

 

 でも、そんな体を引きずってここまできてくれて。


 アヤとサツキさんの間に何があったのかは知らないし、正直言って知りたくもない。


 だって嫌な予感しかしないから。


 ただ、おそらく二人の事情を知ってる兄ちゃんが、アヤとサツキさんを対面させると決めたのなら、それに従わないという選択肢を俺は取ることができない。


「ダメだ」


 俺は扉を思い切り叩いた。


「お前はサツキ・ナナクサさんに会わなきゃいけない」


 あえてサツキ・ナナクサさん、とフルネームで言った。


「サツキ・ナナクサさんも、お前に会いたいって、そう言ってるから――」


 その瞬間、ドアが開いた。


 急に開いたために、ドアが俺の額を直撃する。


「あ、ごめん」

「いや……別にいいけどさ。急に開けるなよ」

「うん。……ごめん」


 アヤは顔を伏せる。

 彼女の頬には涙の跡があった。


「で、さっきの話。名前。そいつがサツキ・ナナクサって、本当なの?」


 そのアヤの声は冷淡すぎる。

 なんて呼び方には、明確な敵意を感じる。


「ああ」

「何よそれ。やっぱり……やっぱりじゃない!」


 アヤは狂ったように叫び、ポケットから何かを取り出した。

 その物体の表面に光がきらりと反射して――――

 

「……あ、ああ。ああああああ」


 体が恐怖で怯えて動かなくなった。

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