俺は男だぁあ!

 俺が風呂から戻ってくると、部屋の中にアヤの姿はなかった。


 二階の一番奥の部屋に一応行ってみると、中から物音がする。


 とりあえず一安心か。


 風呂に入っている間に出て行かれちゃいましたじゃ、兄ちゃんになんて言い訳すればいいか分からない。

 一応、俺がアヤの監督責任者だってことになりそうだし。


「これからどうなることやら」


 リビングに戻ってくると、俺は首にかけていたタオルを頭の上にかぶせた。

 濡れた髪を拭きながら、さっきまでアヤが座っていた場所を見つめる。


「……そう言えばあいつ、俺のこと優しいって」


 色んな感情が込み上がってきて、嘲笑気味にため息をついてしまった。


 俺は優しくなどない。

 ただの嘘つきだ――――ん?


「どゆこと?」


 なんだこのスパイシーなにおいは?

 おおおおお、俺のにおいじゃないよな?

 これから女子と一緒に暮らすんだぞ?

 加齢臭なんてほんとマジやめて――――


「……っん?」


 俺は目を疑った。

 部屋に充満していたにおいの正体は、


「カレーライス?」


 加齢臭ではなくカレー臭だった。

 

 テーブルの上に二つ、カレーライスの入った木の器が置かれてある。


「えっ? ……あ、そうか」


 しばらく机の上を見続けて、すんなりと納得した。


 風呂に入っていた間にアヤが作ってくれたのだろう。


「あいつ……料理できたんだ」


 この家の料理担当はヒサトだった。

 兄ちゃんは日々仕事に忙殺されているため、その役割分担は当たり前のように決まったのだが、結局作っていたのは男だ。


 女の子が作った料理というだけで、そこはかとなく神秘的で美味しそうに見えてしまう。


 俺はタオルを首にかけ直し、席に移動しながらクスクスと笑っていた。


 カレーライスを作られてしまうほど長い間、自分は湯船に浸かっていたのかと。


 ――それについては笑えないな。


 そう思ったことがおかしくて、俺はまた笑う。

 そのまま席について、そのカレーライスを眺めてみると…………うん。


 俺の料理とは違う。


 細かく刻まれている野菜は食べやすくしようとした結果だろうか。

 ルーが少しだけ濃い色なのは、使っている香辛料の種類や分量が違うのかもしれない。


「んぁああああ。ほんとにうまそうだなぁ」


 背もたれに寄りかかりながら背伸びをしつつ、アヤが来るのを待つ。


 兄ちゃんが家に帰ってくるのはいつも不定期で、食事を誰かと一緒に食べるというのは久しぶりだった。


「おっ、ようやく来たか」


 ちょうど扉が半分ほど開く。

 その隙間からひょっこりと顔を出したアヤは、ゆっくりと部屋の中を覗き見して――――目が合った。


「あっ」


 アヤの声は裏返っていた。

 自分でも変な声が出たとわかったのか、アヤは恥ずかしそうに一度顔を引っ込める。

 乱れてもいない前髪を直しながら、何事もなかったかのように部屋の中に入ってくる。


「部屋、どうだった?」

「別に……ってか何で私が部屋にいたって知ってんのよ?」

「この家でお前が行くところなんてそこくらいしかないだろ?」

「ああ、まあ、そっか」


 ドアを後ろ手で閉めたアヤは、しかし何故か一向に近づいてこない。


 じろじろとこちらを見たり、急に目を逸らしたり、新米探偵のド下手な監視のようだ。


「どうした? 早く座れよ」

「何でよ?」

「何でって言われても……お前も俺が風呂からあがるの待ってたんだろ?」

「ってか! それより……その、どう?」


 いきなり大声を出したかと思えば、そのあとすぐに細々とした声に変わる。


 いきなり、どう? って


 何がどうなんだ?


「そんなのどうでもいいから、お前も早く座れ。カレーが冷めちゃうだろ。せっかく作ってくれたのに」

「えっ? まだ食べてないの?」

「ああ、一緒に食べようと思って」

「なっ……」


 なぜか頬を紅潮させたアヤは黙りこんでしまった。

 パジャマの裾をぎゅぅっと握りしめている。


「……何で? べ、別に先に食べててよかったのに」

「いや……せっかく一緒に住むんだから、一緒に食べようかと思って。ってかそれが普通だろ」

「でも私は居候で」

「あ! そっか。どうって、味のことだったのか」

「なっ……違うわよ!」

「安心しろって。誰かと一緒に食べるだけでどんな料理も美味しくなるんだから」

「それじゃあ、そんなんじゃあ、嬉しいけど嬉しくないじゃない」

「は? どういうことだよ?」

「何でもない! ああもうお腹空いた! 私も食べる!」


 なぜか不機嫌になったアヤ。

 

 はぁ。

 女ってのはほんとわからん。

 いきなり機嫌悪くなるとか、今後の生活が思いやられる。


「じゃあ、いただきます」


 俺はアヤが席に座ったのを確認して手を合わせた。


「いただきますぅ!」


 投げやりな感じで言ったアヤは、しかしスプーンを手に取ることもなく、チラチラと俺を見てくる。


 なんだ。


 やっぱり気になるんじゃないか。


 こういう分かりやすさばかりで女が形成されていたらどんなに楽か。


 ま、ここは大袈裟に喜んでおこう。

 けなす意味もないしな。


 俺はルーとライスを半分ずつくらいスプーンに乗せ、そのまま口の中へパクり。


「……んん、これは」


 部屋に充満していたスパイシーな香りそのままに、口の中にピリッとした程よい痛みが走る。

 激痛になる。

 甘さやら酸っぱさやら苦さやら、ありとあらゆる感覚が同時に脳に伝わって、一瞬、三人の天使が見えた。――いや、悪魔の間違いだった。


 まぁあああっぅずぅぅうううううううううううう!


 叫びだしそうになったが何とかこらえる。


 俺は男だ。


 アヤがせっかく作ってくれた料理を、まずい、なんて言えるわけがない。


 根性で飲み込んで――――なにこの感覚。

 胃が腐りそうなんですけど。

 でも飲み込んだことは飲み込んだから、あとは、うまいって感想を……。 


「独特な味だな……逆に病み付きになりそうだよ」


 ごめん。

 さすがにこれをうまいとは言えなかった。

 でも、まずいと言わなかったことは褒めてくれよ!


「ふーん。そ、そうなんだぁ」


 アヤの口角がわずかに上がる。

 言葉自体はそっけなかったが、嬉しさを隠しきれていない。


 どうやらアヤにとって、独特な味というのは褒め言葉になるらしい。

 きっとアヤは芸術家気質なのだろう。

 変な人だね、が褒め言葉になる人たちをバカにしているわけではないが。


「じゃあ、私も。いただきます」


 俺は生唾をごくりと飲み、アヤがカレー……らしき液体を食べる様子をじっと見つめる。


「うん! おいしい!」


 そう。

 おいしいよな。

 鶏小屋のような味が食欲を……そそらないよ!

 鶏に失礼なくらいだよ!

 本人がおいしいって言うならいいんだけども!


 俺は、そんなアヤに向けて一言。


「ま、料理はこれから俺が教えてやるから、作る時は言ってくれよ」

「……そ、それって、私の作ったカレーが美味しくなかったってことじゃない!」

「えっ、えええ? いや、美味かったって。本当に」

「もう食べなくて結構です」


 さっきの言葉を褒め言葉と受け取って、どうして今度は言葉の裏に隠れた真意を読み取ることができたのか。


 やっぱり女心はよく分からない。


 怒ってしまったアヤにはカレーを取り上げられたのは………正直言って、ラッキーだと思ってしまいましたごめんなさい。


 だってクソほどマズかったんだもんっ!

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