僕 3-4

 母さんの少し心配そうな声が受話器越しに耳に届く。いつまでも若くて、落ち着いた優しい声。僕は心配をかけないように、いつもより少しトーンを上げて、大丈夫だよ、と母さんに答える。

 僕の実家はそう遠くは無い場所にあった。しかし大学へ通うには少し手間がかかり、通学には不便だったため、一人暮らしをすることにした――という建前で、僕は一人暮らしを始めた。妹を亡くしてから心配性に拍車をかけた母は、パートをしながら、僕に仕送りを送ってくれる。だから僕はアルバイトもせずに一人暮らしを続けることが出来た。

 両親のことは嫌いではなかった。ただ雪葉と暮らしたあの家に居続けることが苦痛になっていた。目に入るもの、手に触れるもの全てが雪葉の記憶に繋がっていくようで、それが僕を責めているようなそんな気がしていた。

 だから僕はあの家から逃げ出した。逃げ出して一人で暮らすことを選んだ。


「今週の間、車を貸して欲しいんだ。使う予定とかある?」


 もう父は帰宅しているらしく、電話の向こうで父に訊ねる母の声が聞こえる。僕の頭に懐かしく、古ぼけたセピア色でリビングの風景が甦ってくる。

 今は母と父だけになったあの家でどんな生活をしているのだろうか。


「――そう、それじゃあ明日取りに行くから。うぅん、朝から大学もあるし、夕飯は友達と食べる予定があるから。うん、それじゃあ父さんにもよろしく言っておいて」


 通話を切って、僕はスマートフォンをテーブルに置いて、フローリングの上に胡坐を組んで座った。ゆいかはもうすっかりゆいかの特等席になったベッドの上でくつろいでいた。

 いや、ゆいかはくつろいでいる振りをしているだけだ。あの子の心はすでに夕方の電話で聞いた母の声に捕らわれていた。

 たぶん予想もしていなかったのだろう、母親のうろたえたあの声を。ただの家出で無くなったことが、罪悪感としてゆいかの細く小さな背に重く圧し掛かってきているのだろう。

 外からさぁさぁと小雨の降る音が聞こえる。夕飯のカレーの匂いがキッチンから流れてくる。もうそろそろ出来上がりだろうか。

 帰ってから、ゆいかはぼんやりとテレビを眺めていた。ゆいかはゆいかなりに色々と考えているのだろう。

 キッチンに向かって、僕はサラダを盛り付けて、カレーと一緒に盆に乗せてテーブルに運んだ。ベッド側にゆいかの皿を置いて、僕は訊ねた。


「やめたくなった?」


 ゆいかは体を起こしてベッドに座ると、手を太ももの上に置いたまま、しばらく無言で指を絡めて考えるように視線を逸らした。

 それからゆいかは小さくかぶりを振って答えた。


「わからない」


 ぽつりとこぼして、ゆいかはベッドから腰を下ろして、フローリングにぺちゃりと座る。


「二年生の頃はね、パパともママともよく話したんだ。日曜日には公園に行ったり、夏休みには海とか遊園地とかも行ったんだ。だけど四年生になったくらいからパパ忙しくなってね。家に帰るのも遅くなって、出張っていうのにもよく行くようになったの」


 僕は出しっぱなしにしたまま温くなったお茶を一口飲んだ。


「こっちの家に引っ越してきたときくらいかな。ママが男の人と帰ってくるのが多くなったの。私は凄く嫌で、ママも私がいるのが嫌だったみたいで、ママってそういうの隠せないんだよね。だから私は自分から外に出るようにしたんだ。馬鹿みたいでしょ?」


 自嘲の笑みをゆいかは浮かべた。小学生には見えない大人びた笑みは似合わず奇妙で、僕は思わず眉を寄せてしまう。


「離婚するのがわかってから、嫌われたくないからパパとママの邪魔をしないようにって色んなこと我慢してた。そしたらだんだんパパともママとも話せなくなっていって」


 そこまで言って、ゆいかは窓の外に目をやった。相変わらずの雨は霧のように細く窓を濡らしていた。


「どうしたらいいかわからないよ。どうしたいのかもわからないし。戻っても何も変わらないかもしれないし、変わるかもしれない」

「そうだね」


 僕が頷くと、ゆいかはため息をついて、背のベッドに頭を預けて天井を見上げた。

 結局のところ、ゆいかが戻っても親が離婚することは変わらないかもしれない。もし離婚しなかったとき、逆に今より家庭がぎくしゃくしてしまう可能性だってある。

 僕がそれ以上に気になったことは、ゆいかの母親がゆいかのとった行動の意味をどこまで知っていたのか、ということだった。


「――ゆいかのお母さんって、ゆいかが知ってて外に出てるの分かってたの?」

「分かってたと思うよ。たぶん」


 声かけて出なかったからわからないけど、とゆいかは俯き、視線をまたフローリングのほうに向けた。


「――分かってて、ママは私を放っておいたんだ……」


 呟くように、ゆいかは言った。それは僕に聞かせるわけではなく、自分ひとりに聞かせるための言葉だった。

 ゆいかの母親が、もしゆいかが全てわかっているのを知っていて、それでも男性との不倫を続けていたのなら、母親がゆいかのことを考えているようには僕には思えなかった。

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