僕 2-4

 僕は少女にベッドに座るように導いて、それから冷えタオルを渡した。少女は自分で額にそれを当てて、気持ちよさそうに目を細めた。


「ランドセルとか取ってくるから、ゆっくりしてて」


 そう言って、僕は扇風機のスイッチを入れて、階下へ向かった。階段に置かれた空のグラスと少女のランドセルを持った。ランドセルは思っていたよりも随分と軽い。

 よく考えてみると、自分の家に他人を入れたのは久しぶりであることに気付く。

おそらく友人が少ないことがその最大の要因なのだろう。僕が認める友人というのは、朝倉と未奈美くらいなもので、他は知り合い以下の関係だと思っている。

 部屋に戻ると、ベッドで少女が額にタオルを乗せて横になっていた。


「――気分どう?」


 優しく声をかけてやると少女は、少し良くなったよと僅かに笑んだ。顔色も普通に戻っている。

 僕は自然と笑みがこぼれた。タオルの上から額に軽く触れると、タオルが温くなっているのがわかる。そんな一つ一つのことが妹との記憶といちいち繋ぎ合わせてしまう。

 彼女がちらりと僕の目を見て、それから少し躊躇いがちに口を開いた。


「――あの、名前は何て言うん……ですか?」


 無理やり繋げるように彼女は敬語で僕に訊ねる。


「ん? あぁ、二ノ宮だけど?」

「私、荻城ゆいかっていうの」


 少女、ゆいかは名乗って視線を床に泳がせた。すでに慣れない敬語を使うことを諦めたのか、ゆいかは以前会ったときのような喋り方に戻っていた。

 からからと扇風機の音だけになって、しばしの沈黙が二人の間に流れた。


「そ、そう、ゆいかって言うんだ」


 とりあえずそう言うとゆいかは小さく頷く。いまいち、何を話せばいいかわからず、言葉に詰まってしまう。


「あの、二ノ宮さん」


 様子を伺う雰囲気を声に混ぜて、ゆいかは初めて僕の名を声に出した。


「――何?」

「ママが帰ってくるまでここにいていいかな?」

「いいよ。っていうか追い出すつもりも毛頭ないし、ゆっくりしてなよ」


 ほっと大袈裟に安堵の息を吐いて、ゆいかは身体の力をだらりと抜いて笑んだ。


「――ありがとう。少し、甘えさせてもらうわ」


 少しでも部屋の見栄えがよくなるように、雑誌を部屋の隅にまとめて重ねる。僕は勉強机に立てかけてある折りたたみの椅子を出して、それに座った。


「――今日、学校早かったんだね」


 部屋に持って入った赤いランドセルをちらりと見て呟くようにゆいかに言った。ゆいかもランドセルを一瞥して頷いてから答えた。


「体調悪くて早退してきたの。家にママいると思ってたから……。今頃家じゃ先生からの電話が鳴ってるだろうなぁ」


 何故かゆいかは微笑を浮かべていた。まるで他人事のように話すゆいかの姿はどこか不思議な雰囲気を醸し出していた。


「この間も早退?」

「――あぁ、あの小雨の日ね。この間はお休みしたから」

「休んだの?」

「うん。その時は仮病だけどね」


 仮病で休んでどうして雨の中、壁の上に座っていたんだろうか。僕はそんな疑問を頭に浮かべながら、しかし言わずに話を続ける。


「――まぁ学校なんて休みの方がいいよな」

「ほんとは毎日学校でも別に構わないんだけどね」


 ゆいかは少し困った様子で眉を顰めて矛盾したことを口にした。ベッドにうつ伏せになって頬杖をつく。額に乗せたタオルがベッドに落ちて、それを拾って自分の頬に当てて目を細めた。まるで自分の部屋のようにくつろぎだして、僕は僅かな驚きを裏に隠して笑む。


「勉強、好きなんだ」


 まさか、とゆいかは笑ってひらひらと手のひらを扇いだ。


「勉強が好きな小学生なんて少ないと思うわ。私の周りには多いけどね」

「じゃあどうして?」

「それは秘密」


 人差し指を立てて、小さな唇を隠すみたいに重ねた。


「なんだよそれ。勉強嫌いなのに毎日学校のほうがいいだなんて」

「授業以外なら学校は楽しいもの」


 それもそうだったな、と僕も思った。僕がゆいかくらいの年頃と言えば、妹がまだ小学校に入ったばかりで、まだ病気になることもなく元気に過ごしていた頃だ。同じ校区の小学生と集団で登校して、そして二人手を繋いで帰った。あの頃は確かに毎日が楽しかった。

 ふと、ゆいかが一人で道に佇んでいる姿が一瞬、脳裏によぎった。


「でも、あんなところに一人でいるのは危ないぞ」


 僕が子どもの頃は今よりもずっと安全だった。子どもが連れ去られたり、殺されたりしなかった。そう、それこそ変質者が狙っているかもしれないのだ。車の通りも、人通りも少ないアパート正面の道路は少女が一人でいるには危険だ。

 ゆいかはしばし考えるように人差し指を立てて、今度は仰向けになって、視線を僕に向けた。


「そうだね、今日みたいになったらあれだからね」


 またごろりとうつ伏せになって、頬を膨らませる。

 からからと、扇風機が相変わらずの音を立てていた。僕とゆいかの間にしばらくの沈黙が続き、僕はどこか居心地が悪く、床に置きっぱなしになっていた雑誌を取ってページをめくった。


「私のママとパパね、もうすぐリコンするんだ」


 唐突にゆいかが呟いた。うつ伏せのまま、顔の前に腕を組んで、視線はまっすぐと前を見ていた。


「そ、そうなんだ」


 何て答えればいいかなんて僕にはわからなかった。間の抜けた返事を返す僕のことをゆいかは気にも留めないで、小さく頷く。


「毎晩、私が部屋で寝てるうちに相談してるんだ。たぶんどっちが私を引き取るか決めてるんだろうね」


 ゆいかはため息をついて身体を横に向けて視線をこちらに投げた。


「もう少ししたらパパとママどっちがいい? なんて聞いてくるのかな」


 よくあるドラマの風景を思い浮かべて考える。が、僕の両親は離婚する気配も喧嘩しているところも見たことが無いため、上手く想像出来なかった。


「ついてくとしたらどっちがいいんだ?」

「どっちも嫌だなぁ。私、パパもママも好きだからさ、リコンなんてしなかったらいいのに」


 こんな話をする相手が周りにいないのだろう、ゆいかは大きくため息をついて僕に少し自嘲の混じった笑みを浮かべて見せた。


「大人は難しいみたいだからね。月並みの言葉だけど、一生会えなくなるわけじゃないんだから、そう考え込まないことだね」


 ゆいかは首を傾げて、つきなみって何? と聞き返してきた。とりあえず僕は、よく聞くようなことと答えた。意味があっているかはわからないが、だいたいそんなところだろう。

 ふぅん、とゆいかは布団に顔を突っ込んだ。僕の寝起きしている布団に他人が寝るのはどこか気恥ずかしい。

 会話が途切れて、僕はテレビをつけた。


「――テレビアニメとか見る?」


 ゆいかに言うと、ゆいかは首を横に振った。


「そういうの見るとママに怒られるから。まぁ、たまに隠れて見てるけどね」


 ふぅん、と僕はしばらくチャンネルを回してみたが、テレビアニメはやっておらず、バラエティとニュースばかりだった。

 指切り魔の報道はまだニュースを賑わせていた。ただ新しい情報が入っていないのか、報道される内容はいつもと変わらない。一つ変わったことと言えば、検死解剖を終えた小坂加奈子の遺体が自宅に帰り、葬式を終わらせたということくらいだ。

 僕はバラエティにチャンネルを合わせて、しばらくそれを眺めた。ゆいかはあまり興味がなかったのか、僕の知らぬ間にベッドの上で寝息を立てていた。

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