一章

僕 1-1

 天気予報に裏切られて、僅かな小雨が降ってきたのは、少し遅くなった買出しの帰り道だった。まだ夏の空は明るく、狐の嫁入りだな、と思いながら僕は空を見上げていた。

 コロッケと焼き鳥の入ったスーパーの袋にぽつぽつと水滴がつく。線を描いて流れた水滴がサンダルに落ちて、黒いしみを浮かべた。

 僕は雨に濡れる髪を掻きあげて、家路を急いだ。愛しきボロアパートが僕の帰りを待っている。

 一人暮らしを始めて二年が過ぎようとしていた。僕はアルバイトもせずに、大学と自宅を行ったり来たりするだけの日々を送っていた。代わり映えしない毎日は退屈で、だけどそれを不幸と感じるほど僕は悲観的でもなかった。


「通り雨に遭うのは少し不幸か」


 首を傾げて、歩きながら空を見上げた。雨脚は変わることなく、静かに僕の肩を濡らす。

 帰ったら早速風呂に入ろう。そしたら晩飯の仕度をして、食べ終わったら煙草を一本だけ吸って、ゆっくりしよう。

 哲学のノートを書き写さなくてはならないがそれは後ででも構わない。

 アスファルト全体が黒く染まり始め、しっとりと濡れた道は、僅かな光を反射していた。

 車もあまり通らない住宅街の裏道。その先に僕の住むアパートがある。錆びた鉄製の階段は雨に濡れると滑りやすく、こちらに来た当初はよく足を滑らしたものだ。だから僕は雨の日は特に注意して階段を上がるように心がけている。

 ふと煙草の自動販売機が目に入った。その緩い下り坂になっている道にぽつんとある自販機は、自宅までの道を説明するときにちょうど右に折れる目印になる。そして大学からの帰り道にもなっているため、僕にとっては大変使い勝手のよい自販機なのである。

 僕は目に止まったついでに、煙草を一つ買った。一日の喫煙量はあまり多くない方だが、そろそろ一箱吸いきるところだ。今日一服したら、たぶん吸いきる。

 そろそろ禁煙を始めなくては。ヤニのせいでうっすらと黄色くなった歯を思い浮かべて、ため息をついた。明日はさらに一本減らそう。

 そんなことを考えながら壁伝いに緩やかな下り坂を曲がったときだった。

 民家の壁の上に、少女が座っていた。

 思わず、立ち止まってしまった。小雨降る静かな街で、壁に座る少女はただ壁の向こう側を見つめていた。

 長い髪が小雨に濡れて、艶やかに光を反射している。毛先から垂れる雫が、まだ細くて白い足を濡らしていた。

 水滴を弄ぶように、足が揺れた。子ども用の小さなサンダルからは、白い水飛沫がきらきらと跳ねていた。


「――あ……」


 サンダルが足から離れて地面に落ちた。少女は声を小さく上げて、飛んでいったサンダルを見下ろした。僕はただそんな彼女を見つめた。

 歳は十歳前後だろうか、白のワンピースは雨のせいで肌に密着して、軽く透けて見える。黒の髪は長く、髪を弄る癖があるのか、細い指で少女はくるくると横髪を遊ばせる。くっきりとした二重まぶたの、ほんの少しのつり目が猫のようで、浮かべる笑みはどこか大人びて見えた。


「手を、貸してくれませんか?」


 見知らぬ人に怯えも見せず、少女は静かに言った。


「降りるの、手伝って欲しいの」


 足がかりである石垣は素足で下りるには痛そうに見える。かと言って飛び降りれば、アスファルトでこれもまた危ない。サンダルを取ってあげようかとも思ったが、彼女はすでに僕に向かって手を広げていた。


「――危ないから、ゆっくり降りなよ」


 少女の脇を支えて、降りるのを手助けしてやると、彼女はゆっくりと石垣を伝って、片足でアスファルトに降りた。僕の手から離れると、片足でけんけんをして落ちたサンダルを履いた。


「ありがとう」


 少女は軽く頭を下げた。その仕草は儀礼的で、気持ちを込めたものではないことぐらい、僕でもわかった。きっと甘やかされて育ったのだろう。こんな礼の言い方しかできないのはその証明に思えた。

 少女はまた壁に登るようなことはせず、どこか居心地悪そうに僕をちらちらと伺った。何も言わずに立つ僕が邪魔なのだろうか。壁に登るのを見られるのが恥ずかしいからかもしれない。

 僕に出来ることは二つだった。少女が壁に登りやすいよう、何も言わずにこの場を立ち去るか、それともこの居心地悪い雰囲気を解消するためにも一言でも声をかけるかだった。

 その二択のどちらを選択しようか、一瞬の迷いの中、何も言わずに立ち去ることが出来なくなるほど、少女と見つめ合っている自分に気付く。僕は選択の一つを捨てて、彼女に話しかけた。


「――そこで何してたんだ?」


 壁の上を指差すと、少女はちらりと一瞬だけ視線を背中のほうへと向けて、また僕の目に視線を戻した。


「雨の音を聞いてたの」


 少女は空から落ちてくる僅かな雨を見上げて、軽く手でそれらを受けた。


「雨の音?」


 聞き返してみて、僕の耳にサァと言う静かな響きが入ってきた。僅かな雨音は静かで、僕の記憶に色濃く残る激しい雨音とはまるで違っていた。


「ここは車の通りが少ないからいいね。雨の音しか聞こえない」


 少女の声が、雨音に混じるように囁かれた。

 その瞬間、僕の中で見たことのない景色が広がるのを感じた。霧雨の中、白く見慣れたこの街の風景が広く、そして遠くから見下ろすみたいに、僕の頭の中に映像として再生される。静かに染み入る雨音と少女の声。

 はっとなって、頭を振った。何だか幻想に食われてしまいそうになったからだ。


「――そんなに濡れて、風邪引くよ」

「それはあなたも同じでしょう?」


 僕は言われて自分の髪を指で摘んで横目で見た。小雨に濡れた髪からは雫がぽとぽとと落ち、肩を濡らしていた。


「僕の家はすぐそこだからいいんだよ。帰ったら風呂にも入るしね」


 まだ残り湯がある。暖めながらゆっくり浸かろう。読みかけの雑誌がまだあるはずだから、それを持ち込もう。

 車のエンジン音が遠くで響いた。少女は一度振り返り、壁の向こうの様子を探るみたいに耳を澄まし、そして軽く髪を払ってこちらに向き直った。


「もう帰れるみたいだから、そろそろ帰るわ。降りるの手伝ってくれてありがとう」


 少女は、どこか芝居がかった仕草で踵を返すと、水溜りをわざと踏みつけて、走っていった。壁に沿って曲がると、黒のセダンが入れ違いにゆっくりと走っていった。

 僕はしばらく少女の立ち去ったほうを眺めていた。耳に残る声と、雨音をしばし聞いて、すっかり冷めたコロッケと焼き鳥を思い出し、大きくため息をついた。

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