第11話 ささやかな成長
俺が産まれてから、およそ半年が経過した。
季節は、おそらく晩秋。
収穫の季節である。
実際の作業は農民の仕事ではあるが、貴族たる公爵家も、徴税と納税の関係で何かと忙しそうだ。
それはともかく、俺に一つ大きな変化があった。
ずばり、ハイハイが出来るようになったのである。
赤子としては当たり前の成長。
――まあ、若干早い方かもしれないが、毎日意図的に努力しているのだから、これくらいは余裕である。
ハイハイができるようになったメリットは、なんといっても、行動範囲が寝返りだけしかできない頃に比べ、段違いに広がるということだろう。
腕と脚を動かし、その気になれば、屋敷中を徘徊することも可能なのだ。
しかし、なんでも思い通りになるというほど、世の中は悪くない。
基本的に、過保護な母が起きている間は自由に動き回ることはできない。
だから、彼女が昼寝をしている寸暇を狙って行動に出ることになるのであるが、ここに一つの障害がある。
「ばばば」
俺は、ベッドの縁に手をかけて、床を覗き込んだ。
今、俺がいるベッドから床までは、50cm以上の高さがある。
たかが50cm。
されど、50cm。
それは、飛び降りた赤子が首を折るには十分な高さだ。
(しかし――!)
俺とて、ただ無為に時を過ごしていた訳ではない。
(必死にサージュの講義を盗み聞きして、魔法について学んだからな)
魔法には大きく6種類の力に分類される。
赤をイメージカラーとする火、青の水、緑の風、黄色の土、白に光、黒の闇。
そして、俺の無属性は、色でいえば『黒に近い灰色』だ。
無というと、何となく白色をイメージしがちなのだが、実際は、無属性というのは、『全ての属性がいっしょくたになった混合状態』を意味するらしい。
雑にいえば、キャンバスに全ての絵具をぶちまけて、混ぜ合わせた状態に似ている。
そこから、好みの色を抽出すれば、望む属性の魔法を使えるのだ。
「むみみみみ」
俺は、手近な毛布をひっつかむと、手先に神経を集中し、頭の中で、薄い黄緑を想像する。
まだ赤子の俺の力では、微細な、しかも、一種類の魔法の力を抽出するのが精一杯だ。
しかし、それでもこうしてかけ毛布を膨らませ、即席のエアクッションを作り上げることくらいはできる。
膨張したそれは、ただ息を吹き込んだような軟弱なものではなく、確固な意思を持った空気塊としてそこに存在していた。
「クエッ」
母の契約獣――ブルーバードが、露骨に姿を現して、俺を観察している。
母の命を受け、彼女の意識がない間、俺の安全を監督しているのだ。
これも母の愛の一種であるとは理解していたが、俺は勝手にこいつを、チクリクソ鳥と呼んでいた。
俺がベッドを飛び出ると、母を目覚めさせ、すぐにベッドに引き戻しやがるからである。
だが、もちろん、そのまま手をこまねいている俺ではない。
(世界はギブアンドテイク、そうだろう?)
俺は、空気が漏れないように身体で毛布を抑えつつ夢想する。
かつて、酒池肉林を楽しんだクルーザー。
雨上がりに、無窮の水平線に降り注ぐ、『天使のはしご』を。
俺の手から発した、淡い明かりを、チクリクソ鳥がついばむ。
これが、奴の餌。またの名を賄賂という。
「クエッ、クエッ」
チクリクソ鳥が、俺の耳元で、小さく二回鳴く。
意訳すれば、『三十分くらいは勘弁してやる』、といったところか。
俺は毛布を下にして、ベッドから自由落下。
そのままドアへと直進して、つかまり立ちの格好で体重をかけ、押し開く。
「ぶはー」
二階の廊下に出た俺は、そこで一息ついた。
(さて。今日はどこに行こうか――父の部屋にはろくなものがなかったが)
今、俺が求めているものは知識である。
しかし、それはなんでもいいというものではなく、あくまで社交界で活かせそうなものに限る。
つまりは、この世界で要求される教養や、ウィットに富んだ言い回しなどを知りたいのであって、間違っても小難しい軍学書などはお呼びじゃない。
(今日は第一夫人の所にでもお邪魔してみるか)
父の除けば、この屋敷の中で一番知的水準が高そうなのは、正妻のザラである。
食事の時などに帰る方向を見て、部屋の位置などはすぐに把握していた。
俺の母の部屋は2階の北側、中ほどにあるが、第一夫人の部屋は、真反対の南側だ。
「バブバブバブバブバブバブ」
俺は全力のハイハイで先を急ぐ。
母はもちろん、メイドたちに見つかっても、元の部屋に戻されてしまうからだ。
幸い、屋敷の広さに比して、使用人の数は少ない感はあるが、それでも油断はできない。
「バヒュー。バヒュー」
なんとか、ザラの部屋の扉の前まで来た俺は、しばし呼吸を整える。
バンッ!
唐突に開く扉。
「うぇーん! 吐息と溜息の違いなんてわかんないもん! お母さまのいじわるー! ヒグッ! ヒグッ! ヒグッ! ヒグッ」
我が姉キニエが、喚き散らしながら廊下を駆けていく。
興奮状態なのか、俺に気が付くことはなかった。
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