第31話
――あれはなんだ。
誰もがそう思った。
無理もない。それは人の形をしていながら、人外だった。
露出した肌の至る所が裂け、崩れ、黒々と濡れている。
焦点が合わず、ぎらぎらと暗い光を放ち続ける瞳に、涎らしき体液を垂らす、だらしなく開いた口。まるでスプラッタ映画に登場する、生ける屍。ゾンビだ。
相違点はただ一つ。その胸にある、ナイフの柄のような突起物。
それはまるで、それの生命に楔を打っているかのようで。
「しょ、う……?」
誰かがうわ言のように、それの個体名を呟いた。
数時間前、特殊大実験場Cの器具庫内にて。
「――――、」
「おはよう。よく眠れたかしらぁ?」
甘ったるい女の声が、瞼をしばたたかせる男の肌を撫で上げる。
辺りに光は一切ない。物の輪郭は捉えられず、その圧迫感だけが、何かがそこかしこにあることを教えてくれる。
でも、それは酷く曖昧だ。不確定だ。
――どこだ、ここは。
男の精神がみしみしと音を立て始めた。今すぐにでも、その存在を肌で感じたい。確実にあるということを理解して安心したい。
闇が、周囲の存在を感じられないことが、これほどまでに窮屈だとは。
「――――、」
男に声は出せない。その恐怖に、声帯から心臓、指先などの末端器官に至るまでの全てが締め上げられている。
――俺は、どこにいる。
闇に飲まれていく。自分がここにいるという確信が持てない。
「うふふ、そんなに怯えちゃって。大丈夫よぉ、あなたはこれから、楽になるの」
楽になる。その言葉を聞いて、男の脳裏に浮かんだのは、死だった。
殺される。
別に死んだって構わない。むしろ望むところだと翔は思っていた――はずだった。
「ぃ、やだ……」
小虫の羽音が如き声。死にたくない、消えたくない。
「復讐――したいんでしょう? この世の全てが許せないんでしょう?」
男は頭をふるふると揺らす。
女の言葉が入ってくる。嫌だ。聞きたくない――
だが、今、この闇の中で、自分に掛けられる言葉だけが、世界との繋がりを感じさせてくれる希望だった。
我思う故に我あり。
どっかの誰かが残した言葉。とても強い言葉だ。でもそれは、自らを強く持てない者にとっては何の慰めにもならない。
周囲の全てが闇に閉ざされ、周囲の全ての存在を感じられなくなり、ただ一人、宙に浮くように漂う。
そんな状況になって、それでも自らの存在を自らだけで証明し続けることのできる者が、この世にどれだけいるだろうか。
疑わないでいられる人間が、本当にいるだろうか。
「憎しみを堪える必要なんかないわ。あなたを不幸にしたんだもの。その罰は、報いは、受けて当然のものよ。それをあなたが執行しないで、一体誰がするというの?」
女への恐怖と、自身の存在を見失うことへの恐怖。
「私が助けてあげる。あなたには力がない。だから、私が力を貸してあげる」
縋りつくしかない。死にたくなければ、この暗い光に。
「さあ、この手を取って?」
男にその手は見えない。それでも、男は手を伸ばす。
「――――、」
温かい感触。男の心が綻んだ。
女の手を頼りに立ち上がる。男の目の前には、女の気配が確かにあった。
「復讐を終わらせましょう? 壊して、殺して、滅ぼし尽くして、そうやって復讐を果たせたなら、その時こそ、あなたは新しく始められる」
新しく始める。また、新しく始められる?
それは男にとって何よりの救いで、絶望の象徴。
ああ、でも――
「思い出しなさい。あなたの中には憎しみがある。我慢しないで、大切に大切に燃え上がらせなさい」
「……どう、すれば……?」
「目を閉じて、今までの全てを思い浮かべなさい。あなたが世界から受けてきた数々の不幸、その全てを」
男は、一つ一つ順に、まるで追体験するように克明に、再び不幸を味わっていく。
嘲笑、侮蔑、憐憫、孤独、恐怖。
少しずつ少しずつ、消えかけていた炎に燃料が足されていく。
暗闇への恐怖はどこかへ行った。今、男は確かに立っている。
そうして男の中には、煌々と光る一つの支柱が出来上がっていた。
「準備はいい?」
男は頷く。次いで、ごそごそと、女の動く気配がした――
「っ――⁉」
胸を侵す、冷たい感触。
「復讐の成就なんて、人の身に余る願いを抱くのなら、まずはその枷を捨てないとねぇ?」
逃げなければ。本能が悲鳴を上げている。
だが、誰も動けない。筋肉が強張ったまま勝手に震えている。
ゆらり。
化け物の身体が揺れる。その視線が、一颯たちを捉え――
「――――――――‼」
轟声と共にぐちゃぐちゃの腕を振り乱し、猛然と走り出した。
「っ――!」
一颯が、佐斗と綾香を庇うように前へ出る。
策なんてない。二人が動けないことを察知した一颯に、それ以外の選択肢はなかった。
距離は約三十メートル。故に猶予は長くて五秒。思考を研ぎ澄ませ、最善を模索する。
最優先事項は勿論、
「全員、今すぐ逃げろ! 出口に向かって走れ!」
あらん限りの力で、恐怖に硬直した級友たちの意思へ発破をかける。例え思考が纏まらずとも、一つの指針さえ与えれば、それがきっかけになるはずだ。
直後、化け物は一颯の目の前に。涎と血で汚れた口が、端が裂けるのも無視して開かれていく。
あれに齧られるのは不味いかもしれない。一颯は咄嗟にその首と顔面目掛けて手を伸ばす。
「っ……!」
瞬間、衝撃が腕に身体に返り、堪らず足が地面を滑った。
浮遊感は一瞬。一颯は背中から地へと倒れ込む。
迫る歯。顔面と喉を手で、胴を足で押さえる。
他方、化け物の指や爪は肩に食い込んでいくも、構っている余裕はない。
少しでも気を抜けば、一瞬にして一颯の首は噛み千切られる。致命傷だけは、絶対に避けなくてはならない。
「ぐっ……そ……!」
判断を間違えたことを一颯は悟った。最優先なんてそんなもの、自分自身に決まっている――!
どこかから上がる誰かの悲鳴。遠いのか何なのか、一颯にはもうよく聞き取れない。
押し込まれる。全身の筋力を総動員してなお、この化け物には敵わない。
ギラギラと濡れる歯が、遂に首筋に突き立てられた――
刹那、一颯の喉元を何かが掠める。怪物の脳天がそれを吸い込み、横へ跳ねた。
怪物の全身が力を失い、へな、と一颯へ垂れ下がる。
――は? まさか、死んだ?
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