第28話 死ぬ、死なない、死ぬ、死なない……(花占い風)
エレベーターの存在と設置場所の関係で、ほとんど使われることのないコンクリートの階段。フードを目深に被った翔は、右手にビニール袋を提げて、一人、上っていた。
踊り場の壁で光る蛍光灯が、ギラギラと目に優しくない。
一歩上るごとに鳴る足音がやけに響く。
階段に接続する通路、翔からは死角となる角の向こうに、人の気配はない――はず。
あらゆる神経が無駄に尖っている。
この苦痛から解放される唯一の方法は、自分の部屋に戻ること。
たったそれだけのことなのに、どうしてこんなにも遠い。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
息が切れる。苦しい。暴れ狂うこの心臓、どこかへ投げ捨てられないだろうか。
やっとの思いで三階まで辿り着いた翔は、通路のはるか向こう、おそらくは自身の部屋の扉の前に、何者かが立っていることを理解した。
無意識のうちに階段へと引き返す両足。翔は思わずへたり込みそうになるのを堪え、角から覗き込むようにして、通路の先の様子を窺う。
不審者は、何やら扉の方へ腕を伸ばしたり引っ込めたりしているようであった。中の住人の反応がないから苛立ってチャイムを何度も押している、というよりは、チャイムを押すか押すまいか躊躇っている、というような感じ。どちらでもいいからさっさと消えてくれ、と翔は苛立った。
だが、不審者はいつまでもそこから移動する素振りを見せない。それどころか遂には、扉の向かいの壁に背を預け、座り込んでしまった。
――おい、マジかよ、ふざけんな。
そう心の中だけで独り言つ。これで、しばらくはここから睨み続けるしかなくなった。
不意に、階下から人の気配がして、全身に力が入る。どうやら階段を上がってきているらしい。一気に訳が分からなくなった翔は、誰に見られているわけでもないのに、誤魔化すように階段を下り始めた。
少しずつ近づいてくる気配に、翔の身体の硬直具合は増していく。翔には、階段の壁側に左肘が擦れるくらいまで寄り、顔を伏せる以外に、この恐怖に対応する術がなかった。
そうして、すれ違う。向こうは今の翔のように買い物帰りの、ただの男子学生だ。彼は一瞬、訝しげに翔の方を見るだけで、特に気にした様子もなく通り過ぎていく。だが、翔にそれを確認するだけの余裕はない。
翔が我に返った頃、彼は寮の外にいた。
時刻は八時。周囲は街灯や、背後の第二寮、視線の先の第三寮などから漏れ出てくる光でそこそこ明るい。喧噪が、左方、学生寮団地を抜けたあたりから微かに伝わってくる。
「はぁ――」
ずしり。疲労感が重くのしかかる身体を、翔は引き摺るように動かして、道路に出た。
翔が求めるのは、どこか、落ち着ける場所。絶対に人が立ち入らない、いつまでも一人でいられるような場所だ。
そんな場所がこの辺りにあるかどうかは甚だ疑問だが、翔は探すしかなかった。
一刻も早く平穏を取り戻さなければ、心身が死ぬ。死ねば楽になれそうな期待はあれど、従うわけにはいかない。
翔は歩く。通行人は今の所いない。右手のビニール袋だけが、がさがさとやけにうるさい。
――なんで、なんで俺ばっかこんな目に……。
――俺は、幸せになっちゃいけないのか……?
今日で退学。そう思って、少しは解放されると信じていたのに、最後の最後でこの始末。
ぽつり、ぽつりと、翔の足元に落ちる雫。雨は降っていないが、それが止むことはない。
――こんばんは――
「――、」
――また無視? 酷いのねぇ、あなた――
「――――――、」
幻聴。脳味噌が勝手に作り出した偽物。それにしては、色香漂う声音であった。
まるで、愛玩動物の下顎をしっとりと撫で上げるような、無意識的に翔を嘲弄するような、女性の独り言。
翔は、伏せていた顔を少し持ち上げ、それを上目で見た。
夜の闇に紛れる、スーツ姿の女性。そのすらっとした立ち姿は、優秀な普通のOLといった印象を抱かせる。彼女が不気味なほどに柔らかな笑みを湛えていなければ、翔には声の主が彼女であったとは思えなかっただろう。
女は右手に持ったスマホを軽く振って、
「何度も何度も送っているのに、どうして返信してくれないの?」
――なんて、言った……?
――何度も何度も……? 返信、だと……?
「っ――お前――!」
翔が目を見開く。その瞳はたちまちのうちに激情に染まった。
あれは、302号室という寮の一室は、暗がりの中の静寂、誰に望まれるでもない停滞だった。それでも、今の翔にとっては、楽園に最も近い場所だったのだ。
そこに不躾にも乗り込んで来た一人のお節介と、羽虫が如く群がる電子音。
あの老害に対しては、得体の知れない恐怖があった。だが、目の前の女は違う。あれは、ただのいかれた人間だ。翔が怯み竦むには値しない。
翔は、女に飛び掛かろうと僅かに身体を沈ませると、溜めた力を爆発させ――
「――っ⁉」
瞬間、全身が硬直した。
翔は走り出そうとした体勢のまま、微動だに出来ない。視線も、女を捉えたまま、瞬きすら許されない。
全身が恐怖に満たされていく。混濁する思考の中、翔はこの理解不能な現象が、過去にも一度あったことを思い出した。
ともかく、今は逃げなくてはいけない。あの女が宗次郎のように優しいとは限らないのだ。
四肢に今一度力を籠める。筋肉が緊張するのが伝わって、ほんの僅かだけ足が動いた。
「へぇ――あなた、その状態で動けるのねぇ。これは失敗だったかしらぁ」
何を言っているのかは分からない。だが、動けるということは逃げられるということ――!
「ま、どうでもいいけどね」
追いつかれた。走り出しているつもりで、結局数センチしか動いていなかった。
額に、女の指先が添えられる。
「おやすみなさい」
母親が愛する我が子を寝かしつける時のような、そっと呟かれた言葉。
意識が白くなる。自我が真っ逆さまに沈んでいく。
翔に、逆らうことは許されなかった。
筋肉が弛緩し、翔の身体が糸に吊るされた人形みたいにだらりと垂れ下がる。
「それじゃあ、行きましょうか」
踵を返し、歩き出す女の後に続いて、翔の身体は、ぐらり、ぐらりと、魂が抜けたように歩み進むのだった。
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