第15話 挨拶は相手の目を見てしましょう。

 一颯は路地入口から一息に距離を詰め、暴れる綾香に覆いかぶさる。


「三浦っ、三浦! 落ち着けっ、もう、大丈夫だから!」


 聞こえていない。狂乱状態にある綾香は、相手が誰であろうと身の安全が確保されない限り、無差別に四肢を振るう。拳が一颯の胸を殴打し、左足の爪先が腹部に突き刺さった。


 それでも一颯は退かず、綾香の肩をがしりと掴んだまま揺らして、声をかけ続ける。


 瞬間、無音の殺意が一颯を襲った。


「ぅぐっ……!」


 右腰部を貫く灼熱に、一颯は苦悶の声を漏らす。


 背後。やはり誰かいる。


 針金みたいな小さなものの跳ねる音も聞こえる。


 背後の何者かが持つ刃物は、どうやら随分としょぼいものらしい。


 もっと殺傷力の高い武器を使用されていたら、この程度――背筋を軽く抉る程度では済まなかっただろう。


――だからまだ、放っておけばいい。


「み、うらっ、三浦! もうっ、泣かなくていい! もう怖がらなくていいんだ!」


 一颯は叫び、揺らし続ける。聴覚と触覚を刺激し続ける。


 だが変化はなく、届いているのかさえ疑わしい。


 一方で、背後の攻撃は何とも苛烈。一颯の背中には、狂ったように次々と裂傷や打撲傷が刻まれていく。


――まだ、まだだ。


 まだ、大事には至っていない。


 激痛を噛み殺す心は冷ややかに、ただ目的を果たすための判断を下す。


 それが気に入らなかったのか、何かが一颯の襟首を掴んだ。力任せに引かれ、首元を締め上げながら、一颯の身体が少し持ち上がる。


 反射的に振り払おうと、一颯が反撃に出た。鋭く振り向くその遠心力を乗せた、右拳での裏拳打ち。


 直後、一颯の手の甲には、はっきりとした衝撃が伝わった。


――頃合いだ――!


 目的が達せられた。


 敵性存在の確認、及び敵の意識の誘導。


 見えない敵を確認しなければ戦えず、何より、敵の意識を守護対象――綾香から切り離さなければ、戦いに支障が出る。


 戦いにおいて、露出した弱点を狙うは道理。だから敵には、綾香を忘れてもらう必要があった。


 綾香を落ち着かせることなど、二の次だったのだ。


 代償は大きい。いかにお粗末な攻撃だろうと、積み重なれば鋼をも貫く。一颯の背は、見るも無惨なものに成り果てていた。


 筋線維断裂、出血多量。しかしそれをおくびにも出さず、一颯はすっくと立ち上がる。


 刹那。


 銀色の殺意、一条の軌跡を以て、一颯に迫る――!


 一颯は咄嗟に両腕を目前に構えた。防御姿勢。


「ぐ……!」


 引き裂かれた箇所から鮮血が零れ落ち、激痛が一颯の脳を焼く。これもまた致命傷とまではいかない。が――


 カチリ。


 スイッチが切り替わるような感覚。蓄積されたダメージが、遂に許容量を突破したのだ。


 生存を望む冷たい本能が、一颯の中でひっそりと鎌首をもたげ、目の前の事象だけに意識が集約されていく。


 その間も、一颯の右へと流れた銀光は、再び標的を捉えるべく翻る――!


 だが、もうそれでは遅い。


 一颯の左足が先に届く。


 明確な手応えが一颯にあった。同時に、明滅するようにして銀光が姿を隠す。


 間髪入れず、一颯は攻勢に出た。


 肉眼には見えないながら、確実に存在する何かの腹部目掛けて、両拳を矢継ぎ早に走らせていく。


 一撃、二撃、三、四……。


 全て直撃。敵の後退る気配が伝わってくる。


 一颯はそのまま、綾香がいる場所とは反対の壁際へと追い詰めていく。


 そうして、追いの一撃が――空を切った。


「っ!」


 一颯の視界右端を銀光が滑る。


 一颯は慣性に従い流れゆく身体をそのままに、右腕を盾にすべく持ち上げ――


 激痛が先に来た。肩口からねっとりとした赤黒い液体がじわじわ染み出していく。


 移動を許してしまった。一颯はすぐさま綾香をカバーできる位置まで戻り、ボクサーのように構える。右肩から、刺さったままになっていたカッターの刃を抜き取り、放り捨てた。


――ほんっと、めんどくさいな……!


 姿が見えないというのは厄介が過ぎる。この場所が暗がりであることも非常によろしくない。


 それに、あの『何か』は姿だけでなく、自身周囲の音も消しているらしい。


 一連のやり取りの中で、『何か』の動作音、殴りつけた際の衝撃音というものが一切聞こえてきていないのだ。


 一颯は特別鼻がいいというわけもないので、やはり直接身体に接触して実体を捉えるしかない。が、そのための攻撃は最大の防御作戦も仕留めるには至らず。


 せめて何か武器になるものを一つでも持ってくるべきだった。


 あの一瞬の攻勢の中で、確実に終わらせるべきだったのだ。


 そんな後悔もそこそこに、一颯はこれからの立ち回りを模索する。


 攻めるか守るか。どちらにしても致命的なリスクがあり、迷いが生まれた。


 それは明らかな隙。勿論、周囲への警戒は止めていない。


 だが、足りない。元々、全神経を集中させてもなお危うい状況なのだ。意識を割くこと自体、もはや自ら心臓を差し出すことに等しい――


 しかし、一颯の身体に更なる傷が刻まれることはなかった。肩口から伝う血が、肘のあたりまでを赤く染め上げて、今にも滴り落ちそう。


 その理由―—変化は、一颯の目の前で起こった。


 明滅する人の形。四つん這いになって苦しみに喘ぐ、一人の男が現れたのだ。


「お前、は――!」

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