第8話 女性心理、マジムズイ

「はぁ、やっと追いついた……。藤見君、気付いたらもう教室にいないんだもん。昨日、言ったよね、私も完成まで協力するって」


 一颯の前まで来た綾香は、僅かに息を切らし、額に汗を滲ませながらも、少し責めるようにそう口にした。


「ああ、覚えてるけど」


 非難される謂れがないとばかりに、一颯は綾香へ懐疑の視線を送る。そもそも、一度は断った件だ。彼女の押しの強さに一颯が負けただけで、依頼者である彼女との打ち合わせは全て、昨日の内に済ませてある。協力は必要ない。


「じゃあ待っててよ」

「なんで?」

「なんでって、普通は待ってるものでしょ?」

「――なるほど」


 『普通』という概念を引き合いに出されると、一颯には反論ができない。


「いや、なるほどって。――はぁ、まあいいわ。明日は待っててよね」

「それはめんどい」

「なんでよっ」

「だってめんどいものはめんどいし。うーん、まあ強いて言うなら……あー、やっぱめんどいしかないわ」


 暑さで話すのもめんどいとか言ったらきっと怒るんだろうなと思って、一颯はめんどいを貫き通す。


「……あなた絶対、私と話すのも面倒だとか思ってるでしょ」


 ばれていた。


「すみません」

「否定してよっ」


 綾香の顔が、とても傷ついたと語っている。


「……わけが分からん」


 本格的に面倒になってきた一颯は、一人研究棟に向かって歩き出した。潔く認め謝罪した結果がこの反応。傷つくなら自分から問い詰めて来なければいいだろうに。


 綾香は「え、ちょ、ちょっと待ってよ!」と動揺した後、一颯に聞こえない小さな声で「いい人だと思ったのに」なんて不機嫌そうに呟いて、一颯の後に続いた。


 そうして、仏頂面を一人従えた一颯は通用門を抜けて、熱々のコンクリートの駐車場を越え、『第五研究棟』と書かれたガラス張りの自動ドアから中に入る。


 冷気が一気に押し寄せ、綾香が僅かに身を縮こめた。すぐに駅の自動改札機みたいな機械があって、それに学生証をかざして奥に進む。


 少し行くとエレベーターがあったが素通りし、階段を使って二階へ。


 第二研の部室は階段のすぐ近く。ノックをして、二人して中へ入った。どさ、と机に鞄を置いて椅子に座る一颯を見て、綾香も遠慮がちながら同様にして一颯の向かいに腰を下ろす。


 室内に初理の姿はない。魔道具の話を彼女抜きで進められるわけもないので、探す必要がある。


――スマホでの呼び出しに応じるような人なら、話は簡単なんだけどな……。


 一颯は初理のスマホの存在意義を疑問に思いながら、ひとまず一息。そして、


「三浦はここで待っててくれ。白希先輩を連れてくる」


 一颯は立ち上がり、唐突なことに少し戸惑っている綾香を残して部室を後にした。


 まずは同階の計算機室から。扉に付いた小窓だけでは全部を見渡すことができないため、開けて中へ入る。


 広さは一般教室二つ分ほど。そこに十数台の机が整然と並べられている。机の上には、液晶モニターがそれぞれ三つずつと、PC本体が一つ置かれ、その内の一つが、今まさに稼働しているところだった。


 授業が終わってすぐ、人気のほとんどないこの部屋で、唯一、人の気配、初理だった。


 今日は非常に運がいい、と一颯は内心ほっとする。初理が部室にいないことは常だが、基本的に行先不明、この建物中、最悪、隣の棟まで探し回る羽目になるところだった。


「白希先輩」


 画面を真剣な眼差しで見つめる初理に、一颯は声をかけた。


 しかし、反応がない。


 ヘッドホンなんかを初理が着けているわけじゃない。きっと、鼓膜は振動した。その振動が電気信号となって、脳にも伝わった。ただ、脳が無視しただけだ。


 ということで、無視できないようにする。一颯は慣れた手つきで、大音量を発するスマホを初理の耳に寄せた。


 瞬間、足元のキャスターを、がら、と鳴らして初理が飛び退く。耳を庇うようにしていて、常に変化の乏しい初理の表情が今回ばかりは本当に驚いたように見えた。


「耳が壊れたらどうしてくれるの」


 それで睨んでいるつもりなのかと疑いたくなる眼差しが一颯に向けられる。


「それは——困るかもしれません」


 主に初理を現実世界に強制帰還させる手段が減るという意味で。


 なるほどこれからは別の方法にした方がいいかなと、一颯はなんとなくPC画面に視線を移す。そこには、今も刻一刻と変化し続ける様が映し出されていた。


「――実験中だったんですね」


 それも、綾香に依頼された魔道具に関しての、だ。


「うん。でも、一颯に邪魔された」


 一颯は押し黙り、今回ばかりは自分に非があると認めるしかない。一颯はてっきり、いつものように自分のやりたい研究をやっているものだと思っていた。


「一颯はもっと私を信用するべきよ」


 しかしながら、初理のその言葉には異議を唱えずにはいられない。


「今までの自分の行動を思い返しても、もう一度同じことが言えますか?」

「言えるわ」

「そんなわけあるか」


 自信満々に答える初理の脳天に、一颯はすかさず手刀をお見舞いした。あう、という声と共に頭を押さえた初理は、一颯をじっと見上げる。


「一颯はいちいち乱暴」

「む――そうです、かね」


 初理の言葉に、一颯の中には一抹の恐怖が生まれた。これくらいなら大丈夫、という認識が、事実、誤りであったとしたら――


「気を付けます」


 神妙な面持ちで一颯はそう答えた。


「うん。気を付けて」


 ちょっと満足そうに頷いた初理は、再びPCに正対する。カチカチとマウスを操作して、静止していたPC画面が再び動き始めた。


 それから、一颯と初理は目の前の画面や手元の資料を使って、様々な議論を交わしていく。これだと学外使用許可が下りないとか、この仕様は今の技術や設備だと実現不可能だとか。


 綾香を待たせていることなんて、そもそも知らない初理はもちろん、一颯の頭の中にさえ完全になくなっていた。


 だから、議論に一旦の区切りがついて、仕様書を書いてみようとなって何気なく部室に戻った一颯を、今から誰かを殺しに行くんじゃないかと疑いたくなるような(あくまで一颯の主観)、激情の籠った視線が貫いた。


 この時、一颯と綾香が別れてから既に三時間が経過していた。部室の窓から覗く景色は完全に真っ暗になっている。


「――おかえりなさい」

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