23 風は武蔵野へ 下
「現在、河越の黄備えは動かせぬ。これは確認の意味で申し上げた……で、今、小田原にいる綱高どのの赤備え、元忠どのの黒備えは動かせまする」
「ちょっと待ってくれ、金石斎」
氏尭が発言を求めた。
「今、赤備えに征かれてしまっては、小田原は空っぽになるぞ。いくら何でもそれは……」
「氏尭、それも考えてある」
氏康は金石斎に断りを入れ、発言した。
「先の舟戦で舟を失った水主たち、これを城に入れて、城兵としてくれ……舟ができるまでの間は」
「え……」
「それで給金を払ってやってくれ。さっきの水主たちの扱いとやらは……そういうことなのだろう?」
「そ……そうです! 舟が無いと暮らしが成り立たないと苦情が来ていて……ありがとうございます、兄上」
「うほん」
氏尭のとなりで、金石斎は咳払いをし、場の様子を見て、また説明をつづける。
「……それでは、赤備えと黒備えはこれでよし。で、白備え、清水小太郎吉政どのは、先の話のとおり、駿河へ行っているため、これは殿が直々に率いておる。ゆえに動かせまする」
おれが率いるのは小太郎が戻るまでの間だ、と氏康は付け加える。
「そして、青備えじゃが……これは動かせぬ。理由はいくつかあるが……まずは里見家。これは鎌倉と佐倉で退けられたものの、まだ何か企んでおるやもしれぬ」
さもありなん、と風魔小太郎がうなずく。
「あとは……北条の領内の兵を、すべて河越に持っていくというのも考え物じゃ、ということ。里見家以外の大名が何かしでかすかわからんし、それは関東の外からかもしれぬ。また、武田と今川とは同盟和睦しているとはいえ、油断はならん」
ほかに、治安維持の問題や、予備兵力として、最後の最後まで取っておいた方が良いと金石斎は述べて……終わりに、こう言った。
「……そういうわけで、あとは宗哲どのが帰ってくるとして、その兵も入れて、動かせる兵は、しめて八千」
「八千……」
関東管領、いや、今となっては古河公方が率いるとされている、河越城包囲軍は、号して八万。
対するや、北条方は八千。実に、十倍近くの兵を相手しなければならない。
「……きついな、おい」
綱高はこぼしたが、彼とて赤備えを率いる第一線かつ第一級の将帥である。北条家の現状からして、八千が限界だということは理解していた。
「……そうすると」
左馬助が発言を求めた。
「仮に、このまま
「左馬助の言うとおりだ。何とか河越城内と
氏尭が風魔小太郎の方を見る。
しかし、氏康が風魔小太郎を制した。
「待て。今はそもそも、和睦後をどうするかという話をしておる。河越城内への
「そうです。河越城については、のちほどに致しましょう」
ほかならぬ、河越にいる北条綱成の実弟である弁千代がそう言うのなら、誰も何も言えない。
元忠が、話題を元に戻すため、謹直に言った。
「……して、殿。八千の兵をもっていかがなさるおつもりで?」
「うむ。ねらいは、古河公方と和睦後の、
「おお……」
「先にも言ったとおり、こたびのこと、扇谷上杉が起点だ。今川は望みの河東を手に入れたから、これ以上は何も言うまい。しかし、扇谷上杉はちがう。河越を差し出したら、江戸を。江戸を差し出したら、相模を、と言うてくるに相違ない」
「夢よもう一度、といったところですかな。御大層なことで」
綱高が皮肉たっぷりに言い、元忠も珍しくとがめもせず、むしろうなずいて同意した。
「むろん、扇谷上杉がこれ以上は求めない、というか扇谷上杉にわがままを言って進撃する余力が無い場合、関東諸侯への調略を試みる。調略に応じなければ、八千の兵をもって攻略する」
氏康は扇谷上杉家を含め、関東諸侯を各個撃破するという方針を示した。
たしかにこれなら、八千の兵でも足りる。
足りるどころか優勢に持ち込むことができる。
場に居る家臣一同、氏康の方針に賛同の意を示した。
「……では改めて、命を下す。北条綱高の赤備え、多目元忠の黒備えは進発する。これに、おれの直属の兵と、おれが清水小太郎吉政より託された白備えを合流させ、その上で出陣する」
「御意……腕が鳴るねぇ」
「しかと、承りました」
綱高と元忠は、連れ立って退出していった。竹馬の友らしく肩を並べ、そして堂々と歩いていく。
「つづいて、氏尭と根来金石斎、申し訳ないが、また小田原で留守居を頼む。これは、先ほどの水主たちとのからみもあるので、二人に頼みたい」
「承知いたしました。でも、次は連れてってくださいよ」
「かしこまってござる」
氏尭と金石斎は、早速、水主たちのところへと、むしろ速足で去って行った。
「弁千代は、おれについてくるように。今まで通り、そばにいて働いてくれ」
「承知仕りました」
弁千代は礼儀正しく一礼する。
「左馬助」
「は」
「では、改めて小田家中、菅谷貞次どのへ、古河公方への和睦の取り成しを頼む。おれの書状が必要と言うことなら、どういう文面が良いか教えてくれ。すぐに書く」
「了解いたしました。では、下書きを書いて、改めて参ります」
左馬助は鋭く一礼して、退出した。
後に残った風魔小太郎は、氏康の前で黙然と座っていた。
「……風魔小太郎よ」
「は」
「じい様からつづく、あの約定、おれは忘れていない。今回、果たせないにしても、必ず果たす。おれがだめでも、おれの子が果たす」
「……別に言葉にせずとも、分かっておりますゆえ、お気になさらず」
「感謝する。では、出陣後、北条勢の所在は、古河公方や両上杉に気取られぬようにしたい。頼めるか」
「安んじてお任せあれ」
返事をした瞬間、風魔小太郎は煙と消えた。
「……忍法と申すのでしょうか。いつ見ても不思議ですね」
弁千代が
「忍法、照れ隠しだな」
「え?」
「あの小太郎は、褒められたり頼りにされたりすると、いつもああ消えるからな」
「そうなんですか?」
「まあな」
氏康はそこで伸びをひとつする。
季節は秋から冬へ移り、厳しい寒さが関東全域を襲っていたが、相模の野山にも、木々が芽吹き、獣たちも、ちらほらと見えてきている。
厳しく、長い冬も終わりつつある。
だが、だからこそ河越の古河公方や関東管領、関東諸侯の動きも鈍っていよう。
「孫九郎……」
氏康は、年来の兄弟であり、親友であり、そして戦友である北条孫九郎綱成のことに思いを
*
同じ頃。
北武蔵。
河越城外。
「なぜじゃ……なぜ、誰も軍議に来ぬのじゃ」
古河公方・足利晴氏は荒れていた。
古河公方着陣の報に湧いた関東諸侯であったが、今ではすっかり自陣に
理由は、晴氏が着陣早々「総攻めである」と号令を下したからである。
山内上杉憲政、扇谷上杉
泡を食ったのは太原雪斎で、彼は諸侯の陣へ足を運んだが、その諸侯自身が単身、正月に領国へ帰ってしまい、まだ帰陣していないと言われてしまった。
晴氏は怒気を発し、こうなれば山内上杉、扇谷上杉だけでも攻撃すべしと息巻いた。そしてその軍議を開催したにもかかわらず、誰も来ないという憂き目を味わっていた。
「雪斎禅師、こはいかなることぞ?
雪斎はがらんとした晴氏の陣内を見て、
「山内の方は、国元の
「なんと。あの上州の
「左様。その業正どのが、包囲のみで勝てるのなら、このままで良し、と言われましてな」
それは雪斎が開戦当初から述べてきた策であるため、雪斎はそれ以上、何も言えなくなってしまった。
「……それなら、扇谷上杉はどうなのだ」
「扇谷上杉は……」
家宰である
「……つまり、混乱しており、とても軍議には来られない、と」
「いかさま左様」
晴氏はうなだれる。
せっかく、自分が出てきたのに。
このまま、河越を
そうすれば、関東は思いのまま。
恩賞など、好きなだけ与えよう。
そして、関東を制したら、次は西。
京に上り、天下に覇を唱えるのだ。
「……だというのに、なぜ、誰も来ぬのじゃ。今、すぐそこに栄耀栄華の入り口があるというのに」
そういうことを言っている折に、小田政治が菅谷貞次を伴ってやって来た。
「失礼いたす」
「……ご苦労」
「公方さま、本日、小田政治儀、
「なんじゃ」
「こちら小田家の臣、菅谷貞次でござりまするが、こたびの戦を終わらせる妙手を示さんと申し、ぜひ公方さまにお聞きいただきたいと」
「……そうか」
足利晴氏と小田政治の関係は微妙だった。互いに足利の血筋ではあるが、お互いは疎遠であり、一方は「古河公方」であるが、一方は「将軍の叔父」である。どちらがえらいということを揉めることは無かったが、晴氏の野望は天下であるため、政治は潜在的な敵と言えた。
政治の側からすると、今回の戦いは小田家の勢力伸長のための戦いであり、彼としては河越を
――だから、北条家の使者・諏訪左馬助による河越開城の提案は、渡りに船であった。
風は武蔵野へ 了
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます