37 危地、そして







 今荒城の夜半よはの月

 変はらぬ光がためぞ

 垣に残るはただかつら

 松に歌ふはただ嵐


 土井晩翠「荒城月」







「駄目だ、奴の行方、皆目かいもく分からねぇ」

 清水小太郎吉政は、白備えで夜目の利く者たちを四方に放ち、扇谷おうぎがやつ上杉朝定ともさだの行方を探らせていた。

 しかし、誰もそれがつかめる者がおらず、北条新九郎氏康と、清水小太郎は立ち往生していた。


 先行して朝定の動きを追っていた風魔小太郎も見失ってしまったらしく、彼らしくなく、歯噛はがみして悔しがっていた。

「この風魔小太郎、一生の不覚。よりによって、この折にの上杉を足取りが掴めぬとは」

 この夜陰に、この湿地の中、迷いなく駆けていたと思えるくらいの速さだった、と風魔小太郎はこぼしながら、地を蹴った。

 氏康は、それを聞いて何か言おうとしたが、その瞬間、清水小太郎が叫んだ。

「おい待て! 河越城の方! 騒ぎの音に……篝火かがりびが揺れてやがる!」

 攻められてるんだ、と清水小太郎はつづけ、今にも駆け出さんばかりに、身を乗り出して河越城の方を見た。


 倉賀野三河守と倉賀野十六騎、そしてその手勢が、ついに河越城に至ったのだ。






 危地、そして







「うろたえるな! わしの弓を持て!」

 河越城将・大道寺盛昌は、小姓を務める孫・大道寺孫九郎に自慢の大弓を持ってこさせた。

「父上」

周勝かねかつ、もしもの時は、忍び口から生きている者たちを連れて、逃げよ」

 副将を務める嫡男・大道寺周勝には、退却の準備を命じた。

「おじい様、敵将、見えました!」

「うむ、わしにも見えた、あれは山内上杉馬廻り、倉賀野三河守と見た」

 盛昌が三河守を視認すると同時に、三河守も盛昌を確認した。


「……伊勢の鼠賊! 今こそその城を奪ってくれる! そして貴様らは、根切りだ!」

 言うが早いが、三河守は兵に命じて火矢を射させる。

 もちろんこれは陽動で、河越城を燃やすためではない。

 だが、城兵としては消火にあたらざるを得ず、そして城兵は少ない。

 そこが三河守の付け目だった。


「今ぞ! 城門をたたけ!」

 足軽に持って来させた丸太で、城門を突く。

 ごん、という鈍い音が二、三回響くと、ついに城門に割れ目が生じ、三、四回目で城門は破壊されてしまった。

「ざまを見よ! 伊勢の鼠賊! 鼠賊からついに城を奪う時こそ至れり!」

 三河守は狂喜して、騎乗したまま城内へ突入しようとした。


「あなどるな!」

 盛昌は城門の内側に仁王立ちしており、そして弓を構え、三河守に向かって矢を射る。

「……ぬぐっ」

 三河守は器用に馬を半回転させ、その矢をかわす。

「今だ! 戸板でも何でもいい、城門に持って来い!」

 盛昌の命を受け、城兵たちが手に手に戸板を持って城門へ向かう。

「よし」


 だがこれが精一杯だ、次は無い。

 この隙に、生き残った者たちを……。


「周勝、はよう……うっ」

 その矢は、盛昌の思いを裏切るがごとく、盛昌の腕に深々と突き刺さった。

「あ……があっ」

「それでもう弓は持てまい……伊勢の鼠賊、もう終わりだ!」

 三河守が、城門の破れた隙間を通して、矢を放ったのだ。

「もはやこれまで……皆の者、逃げよ! わしにかまうな!」

「おじい様!」

「何をしておる、さっさと行けい!」

「おじい様の仇!」

 大道寺孫九郎は祖父の落とした弓を拾い、何と三河守に向かって矢を放った。

 矢は三河守の兜の鉢金に当たる。

わっぱ、貴様ぁ」

 三河守は屈辱のあまり、顔を赤くする。

「あの童から射よ! そしてこのまま城をいただく!」

「や、やめよ! 孫を……」

 盛昌の叫びもむなしく、倉賀野十六騎がそれぞれ弓に矢をつがえる。



「……地黄八幡、お前はようやった」

 長野業正なりまさは、北条孫九郎綱成の激しい斬撃を受けながらも、器用に受け流し、そして嫡男の吉業を、綱成の背後に回らせることに成功した。

「……じゃ、が。これでもう詰みよ。吉業は強い。果たしてお前に吉業の剣がかわせるかな」

「……たしかに強そうだな」

 綱成は業正につけられた刀傷の数々の痛みにこらえながらも、平然と言い、そして付け加える。

「親の加勢でようやっとお出ましになるぐらいに強そうに見える」

 業正はかっとなり、怒鳴りつけるように嫡男に言う。

小癪こしゃくな! やれ、吉業!」

「ふっ……食らいな!」

 吉業がすでに抜いていた刀を振り上げ、思いきり振り下ろす。同時に業正も突きを放つ。

 綱成は刀を片手に持ち換え、残った片手で脇差を抜く。そして刀で業正の突きを受け、脇差で吉業の刀を受け流す。


「……ぐっ」

 だが完全に受け流すことはできず、腿のあたりを斬られてしまった。

 倒れ伏す綱成を前にして、吉業は小躍りをして喜ぶ。

「やった! やったぞ! 地黄八幡を斬った! おれが、斬ったぞ!」

「見事じゃ吉業。では、とどめじゃ」

 業正も喜色満面の笑みを浮かべ、つい、吉業の隣に来て、刀を構えるのを手伝った。

 綱成はその隙に何とか立ち上がろうと、腕に力を込めるが、這いずることしかできなかった。

 怪我自体は、大したことはない。

 それよりも、飢えと疲労が蓄積していた。

「…………」

 薄ら笑いを浮かべる吉業を見て、それでも、綱成は立ち上がろうとする。


 ふらふらと。

 ゆらゆらと。

 業正が笑ったような気がした。

 それでもいい。

 みっともなくてもいい。

 とにかく、立て。


「おれは……」


 あの日。

 父が敗け、駿河を追われ、駆けた果てについた、あの日。

 伊豆で出会った、国主の息子。

 伊豆千代丸、今は新九郎。

 弟が無事だ、妹が息をしていると。

 自分より先に、泣いて喜んでくれた、新九郎。


「北条を守ることを……」


 刀を手放してはいなかった。

 両手に力を込めろ。

 父をたおした、あの男のように。

 立て。

 構えろ。

 そして。


「……諦めたりはしない!」


 綱成の睥睨へいげいに、業正と吉業は怖気おぞけふるった。

 特に吉業は腰を抜かしそうになり、業正に支えてもらう始末である。

 そこで、ちょうど黄備えとの戦いから外れたとおぼしき、老いた騎馬武者が近くにいるのに気づき、業正は命令した。

「おい、そこのお前」

 騎馬武者は自身を指差して、業正の発言の意を正す。

「そうだ、お前じゃ。はよう、そいつをその槍で突くなり叩くなりしろ」

 今度は騎馬武者が綱成の方を指差す。

「……いちいち面倒くさい奴じゃな。そう、その立っているのがやっとなそいつじゃ」

 業正の発言の尻馬に乗って、吉業も怒鳴った。

「おいじじい! 父上の言葉が分からないのかぁ? さっさとそこの地黄八幡をぶちのめせっつってんだよ! 早くしろ!」

「…………」

 騎馬武者はようやく得心が行ったようで、槍を構える。


 もはや、ここまでか。

 だが、おれは……。


「最後まで……足掻あがいてやる!」


 綱成は刀を強く握った。



「風魔小太郎、朝定が迷いなく駆けて行ったのなら、お前でも追いつけない……そう言ったな?」

「は、はい……」

 北条新九郎氏康は、その風魔小太郎の返事を聞いて、馬から下り、近くにいた白備えから火を借りて、地に顔を付けて、地面を横から見つめた。

「お、おい、何やってんだ、新九郎?」

 清水小太郎が友であり主君である男の奇怪な行動を見て、驚く。

「……いや、朝定が逃げるとしたら、どこか、と思ってな」


 氏康が地面に顔をつけたまま話をつづける。

「それは丸に二つ引き……古河公方・足利晴氏の陣をおいて、他にない」

「あっ……そうか」

 清水小太郎が左手の拳で、右手の手のひらをたたく。

「風魔小太郎」

「は」

「ここから古河公方の陣は、どっちだ? まっすぐでいい」

「それは……あちらです」

 風魔小太郎の指差す方向へ、氏康が顔を向ける。


「……あった」

「何があった、新九郎?」

「踏みならされた地面だよ、このぬかるみの中に」

 氏康は立ち上がって馬に乗る。

「よし、皆、ついて来い」

「おいちょっと待て、どういうことだ?」

 清水小太郎も馬に乗りながら、氏康に聞いた。

「……おそらく軍議は古河公方の陣でやっていたんだろう、それなりにな。で、その行きと帰りで、そういうができたのだろう」

 氏康はひとつため息をついた。

「雪斎禅師の策だろう。こうして、八万の軍の足をもって、この湿地を踏みならし、を作り、もし攻めるとしたら、そのを使うつもりだったのだ……猪助!」

 戦の最中であり、ことを急ぐので、氏康は風魔小太郎を介さず、直接、風魔衆の二曲輪ふたくるわ猪助に声をかける。


「ははっ」

 猪助はかしこまって、片膝をつく。

「こちらに向かっているという真田どのに連絡つなぎを。千葉の百騎、このを用いるように、と」

「……もう聞いておりまする。主に伝えましょう」

 猪助が振り向くと、そこには真田の草の者、霧隠が端然と立っていた。

「いつの間に」

 風魔小太郎は舌を巻いた。自分が気づかないとは、この霧隠という男、と。

「主、真田幸綱の命により、拙者、この場に先行した次第」

 霧隠は氏康にこうべを垂れる。

 氏康も頭を下げた。

「それは都合がいい。よろしく頼む」

「……これは恐縮。では御免」

 霧隠は、雨滴が水面に落ちるかのごとく、す、と消えた。

「良かったな、猪助。これで朝定を追うのから外れずに済んだな。さ、行くぞ」

「え? あ、は、はい……」

 不得要領な猪助をしり目に、氏康は馬首をめぐらし、駆け出す。

 あわてて風魔小太郎や猪助も駆け出すのであった。



 河越城外。

 夜戦の外側。

 その軍勢は、月明りを浴びながら、じっと夜戦の状況を見ていた。

 軍勢の旗印は、月に星。

 千葉家の家紋である。


「……虎胤どの」

 真田幸綱はとなりの馬上、原虎胤に向かって言った。

「お行きなされ、地黄八幡の元へ」

「……よいのか」

 虎胤は彼にしてはめずらしく、ためらいながら言う。

「今、猿飛が綱成どのの場所に見当をつけました。あそこです」

 幸綱の指差す方を、虎胤は目を細めて見た。

「われらこれより、河越城を目指します。しかし、綱成どのはあそこ。ここは、二手に分かれましょう」

「……いや、わしの感傷にひきずられて、大局を見誤っては」

「おりません」

 幸綱は笑顔だった。

「今、綱成どのを失っては、このいくさ、そしてこの先、北条は立ち行きません。ゆえに、大局を見ておりまする」

「……これは一本、取られたな」

 虎胤も笑った。千葉の百騎の面々も、笑った。虎胤と幸綱が佐倉に来て以来、共に鍛え、そして共に河越へ征く間に、彼らは皆、仲間となっていた。

「……では、すまぬ。わしは征くぞ」

「ご武運を」

「おう。妙見さまのご加護を」


 ……ちょうどそこへ、霧隠が、す、と姿を現し、氏康からの伝言を伝えた。



 ごん、という音と衝撃を北条孫九郎綱成は感じた。

 どうやら騎馬武者が槍を突き出したらしい。


「…………」

 その割には痛みを感じない。

 はて、そんなに早く死んでしまったのかと思ったところで、綱成は目の前の光景が異様なものになっていることに気がついた。


 長野業正なりまさの言葉に唯々諾々と従っていたはずの騎馬武者が、槍を、業正の嫡男・吉業よしなりに向けて突き出していて、吉業はその衝撃で、後方へ転倒していた。

「お、お前……」

 業正は騎馬武者に対して、怒り心頭といったところで、ぷるぷると震えながら、罵声を放つ。

「馬鹿者が! なんてことをしてくれる!」


 騎馬武者の回答は業正の想像を超えていた。

「……安心せい、峰打ち、ではない、柄で突いただけじゃ」

 見ると吉業はうなり声を上げながら、立ち上がった。

「このじじい、よくもやってくれたなぁ……」

 吉業の様子に胸をなでおろした業正も、吉業に加勢して怒鳴る。

「そうじゃ、ようも、ようも……何故こんな馬鹿げたことをする!」


 騎馬武者は、ごき、ごきと音を立てて首を回し、そして業正と吉業を睥睨へいげいした。

「それはなア」

 綱成は騎馬武者のその声に記憶があった。


 まさか。

 もしかして。

 遠く、江戸から。


「お前らが、とか言うからに決まっておろうが!」

「美濃どの!」

 騎馬武者は原虎胤であり、夜目が利かずにさまよっていたところ、ちょうど業正が声をかけた、ということらしい。


 吉業は何が何だか分からずに戸惑っていたが、業正は瞬時に事態を理解した。

「待て! 貴殿は鬼美濃、原美濃守虎胤じゃな?」

「応」

「……なら、わしは山内上杉家中、長野業正じゃ。そして、われら父子に邪魔立て無用! 当家、山内上杉家と武田家は……」

「やかましい!」

 虎胤が槍をひと振りすると、疾風が生じ、業正と吉業は思わず、あとじさる。

あるじを放っておいて、この北条綱成を親子でやろうって奴に、とか言われたくないんだよ、上州の黄斑とら

 虎胤はここで馬から下り、綱成に肩を貸した。業正と吉業がここで動こうとしたが、虎胤の眼光にそれは阻まれた。


「……すまぬ」

 綱成は疲労の色を隠せない様子だった。

 虎胤は懐中より小袋を取り出し、それを綱成の手に握らせた。

「気にするな、それより、これは真田幸綱から預かった丸薬じゃ。草の者がここぞという時に、疲れや気鬱を吹き飛ばす時に使う、と」

 綱成がそれを一粒取り出して、口中に入れた。

「…………」

 あまりの不味まずさに顔をしかめる。


と思え、すぐ慣れるそうじゃ……さて」

 虎胤は綱成から肩を外し、業正の方に向き直る。

「わしはこいつの父を殺した。だから、こいつの父の代わりに、今、戦おうと思う」

「は?」

 何を言っているのか分からない、という表情の業正と吉業を特に気にせず、業正は綱成に言う。

「行け、地黄八幡。黄備えたちをこの機に集め、そして山内上杉、本陣を目指せ」

「……かたじけない」

 綱成はもう回復したらしく、「御免」と言うと、近寄って来た愛馬にまたがる。

「黄備え! ここを抜ける! 向かうは山内上杉本陣ぞ!」

「ま……待て! いくら何でもそれを許すと……」

 業正が叫ぶ。吉業がその脇から「待ちやがれ」と破落戸ごろつきのように槍を突き出してきた。

「……ふん」

 綱成がほんのわずかにたいをずらして槍をかわすと同時に、いつの間にか手にした槍をひと振りした。

「あっ……ぐぅ……いてええ」

 綱成の槍は、吉業の腿を斬り裂いた。ちょうど、吉業が綱成の腿を斬ったときと同じ位置を。

「虎の子と言われ、堕したか」

 綱成はそれだけ言い置いて、虎胤に一礼して、黄備えと共に、山内上杉憲政の本陣へと突進していった。


「ち、父上ぇ」

「よ、吉業、落ち着け」

 吉業は大げさに腿を押さえて転がり回る。二回、三回、回って何かに当たって止まる。

 吉業がふと見上げると、虎胤が腕組みをして見下ろしていることに気づいた。

「ぎゃっ、お、お助けぇ」

「……確かに堕したな。これでは、野良猫以下じゃ」

 虎胤が素槍をかまえると、吉業はきゃっと叫んで脱兎のごとく逃げ出し、近くの木の陰に隠れてしまった。


「お、おい吉業……」

 あまりの醜態に、さすがの業正もたしなめようとしたが、虎胤の気合の高まりを感じたことにより、それはかなわなかった。

「いい加減にしろよ、上州の黄斑とら。茶番劇なら、上州に帰ってやることだな」

「……ぐっ、おのれ」

 業正は手下を呼んで虎胤の相手をさせようとしたが、虎胤が場に現れた隙をつかれて、ほとんどが黄備えに倒されていたことに気づき、彼の憤りは頂点に達した。

「おのれぇ……ならば鬼美濃、貴様の首を、吉業の初陣の獲物としてくれる」

「それはそこの仔猫がわしと戦ってくれるという意味かな?」

「しゃらくさい!」

 業正が抜刀し、猛然と虎胤へと斬りかかる。

「くだらん!」

 虎胤の素槍はその斬撃を薙ぐ。


「わしの首が欲しくば、死を覚悟してかかってこい、上州の黄斑とら。できるものならな」

「世迷言を!」


 ……上州の黄斑とらと鬼美濃の、死闘が始まる。







危地、そして 了

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