第1部 河東一乱

02 双つの杉を倒す夢






 二本の大きな杉の木を鼠が根本から食い倒し、やがて鼠は虎に変じる


 北条記 






 夢を見ていた。

 幼い頃、子どもの頃、そしてつい最近の頃の夢を。



 ――三歳の頃。


 どうしたどうした、泣くな、伊豆千代丸。

 何があった?

 じい様に話してみい?

 父上に叱られた?

 雷が怖くて隠れていたら?

 はん……氏綱には、じい様から言い聞かせておく。

 ここで寝ておいで。

 じい様がついてる。

 雷だって、怖くないぞ。


 おや、もう起きたか。

 何、変な夢を見た?

 言うてみい、じい様はこれでみやこ夢占ゆめうらをやっていたこともあるでな。

 何? 二本の杉を、鼠がかじり倒して……鼠が虎となっただと?

 まことか、伊豆千代丸!?

 誰かある!

 氏綱を呼べ!

 吉夢じゃ!

 吉兆じゃ!


 氏綱……ああ、怒るな怒るな。

 それより伊豆千代丸が吉夢を見た……そう、という霊夢じゃ……。

 長生きは、するもんじゃな……まさか、あの霊夢を本当に見るとはのう……。

 わしは果報者よ。



――十二歳の頃。


 伊豆千代丸……母はもう、

 そなたの元服姿を見るまでは生きたかったが……もはや、これまでじゃ……。

 泣くでない、これも天命じゃ。

 仕方ない。

 それよりも……死ぬ前に、そなたに言うておきたいことがある。


 そなたも知ってのとおり、わらわは北条の生まれ。

 そう、あの鎌倉の執権の血筋じゃ。

 じゃから……この足利将軍の御世では、生きづらくてのう。

 ところがじゃ、そなたの父上が現れて……ほんにいい男ぶりで……。

 こほん、とにかく、北条であることに負い目を感じること無いと言ってくれてのう……。

 そしたら、ほんとうに姓を北条に変える、かしこくも帝のお許しを得たと言うて……。

 何やら、関東支配の都合だの、家格を今川に匹敵させるだの言うておるが……実は、わらわのせいよ……。


 これから、そなたも北条の名乗りをすることになろう……じゃが、それが負い目に、重荷になるようなら、やめてもよいのじゃぞ?

 父上には、母がそう言うていたと言えばよい……。


 名乗りは変えない?

 北条になる?

 伊豆千代丸……。

 そなたはほんに、ほんに……いい子じゃのぅ……母は幸せ者じゃ……。



――つい最近の頃。


 どうやら……もう……父は泉下あのよへ逝く時が来たらしい、氏康。

 すまんな、もう少し……今少し……お前にいろいろと教えてやりたかったが……。


 何、あの五か条で充分?

 ふっ……それも、そうか。

 そうだ、わしはのが好きでな、花押もやめて虎の印判にしたぐらいだからな。

 虎と言えば……じい様か、じい様の夢をお前も見たというが……だからと言って、それにこだわることはないぞ。

 お前はお前で、自分の夢を描け。


 実はな、あの二つの杉を倒して虎と成る鼠の夢は、じい様の法螺ほらだ。

 そう……両上杉に、したのだ。

 お前には……本当のことを言うておこう。


 どうだ……別に夢でも何でもないということが、分かっただろう?

 何、それでも、自分にとっては夢?

 やってみるというのか?

 ほう……。

 ならば、やってみるが良い。

 泉下あのよで、じい様と、先の母上と見守っているぞ。

 ただ……お前はもう鼠ではない。

 はなむけとして、わしの二つ名をやろう。

 鼠ではない、獅子として、二つの杉を倒してみるが良い。

 相模の獅子よ……わが志を託せて……わしは果報者じゃ。






 ふたつの杉を倒す夢






「……おい、起きろ、新九郎、起きろ」

 ごんごんと、床をたたく音がする。


 うるさいな、もう少しこの夢を見させてくれ。


 北条新九郎氏康は、脇息にもたれて眠っていた。

 そこを氏康の乳兄弟、清水小太郎吉政が起こしに来ていた。

 巨漢の清水小太郎は、最初こそ床を金棒かなぼうで叩いていたが、次第にいらいらとして、ついに大音声を上げた。

「起きろっ、伊勢伊豆千代丸! 叔父上が呼んでおるぞ!」

「……おれを、伊勢と呼ぶな!」

 氏康が脇息から頭を上げて怒鳴り返した。

「……しかも幼名で呼ぶとは……いい加減にしろ、小太郎」

「さっさと起きないお前が悪い。は、お前の方だ」

 氏康と清水小太郎は前述のとおり乳兄弟であり、幼馴染である。だから、二人でいるときは遠慮のない態度でいた。ちなみに、清水小太郎は北条五色備えのうち、白備えを率いている。

「しかもよくそんなところで寝られるな……感心するぞ」

 あきれ顔の清水小太郎に、氏康は立ち上がってまわりを見遣る。

「何というか……ここは、じい様のがするからな……」

「そうだな、ここはじい様が最初の城だからな」


 二人が今いるのは、駿河東端の興国寺城である。

 今や伝説と化した、伊勢宗瑞(後世に北条早雲として知られる人物)の出世の第一歩が、この城である。今川家に嫁した盛時の妹の子、龍王丸(のちの今川氏親)をお家騒動から救った功績で与えられた城である。

 ここから、伊勢、そして北条氏の躍進が始まる。その名のとおり、まさに興国。国興しが、ここから始まったのだ。


 伊勢宗瑞は、興国寺城を得たあと、伊豆の堀越公方を駆逐し、相模の小田原城を奪い取り、三浦半島の三浦氏を殲滅して、伊豆・相模を支配下に置いた。

 つづく伊勢氏綱は家督を継いで早々に「北条」に改姓し、武蔵へ進出し、房総にまで影響力を及ぼす存在となった。かつ、今川家の外戚として、今川氏輝(氏親の子)没後のお家騒動、花倉の乱に介入して、今川義元を支援し、彼を駿河の国主とした。ところが、当の義元が氏綱の意向を無視して武田家と同盟を結んだため、駿河へ侵攻。井伊、堀越といった遠江の豪族に手を回して義元を二正面作戦で翻弄し、河東(駿河東部)を支配下に置いた。


 ――そして天文十四年(一五四五年)七月、義元は、河東を奪われた屈辱をすすがんと、兵を発したのである。



「迷惑な話だ」

 北条氏綱の嫡男、北条新九郎氏康は、今川軍の河東侵攻の知らせを聞いて、そう思った。

 代替わりをして、新当主とあなどって河越を攻めてきた扇谷おうぎがやつ上杉家を撃退し(この時は単発の攻撃だった)、内政に励み、いよいよ落ち着いてきた、という時期にこれだ。

 だが、見過ごすことはできない。他家に比べて歴史が浅い北条家だが、興国寺城を中心とした領域は、いわば創業の地。河東を取られるということは、その創業の地を取られる。

 実は氏康の正室は義元の姉であり、そのあたりで交渉もあり得ると判断して、自ら出陣することにした。

 興国寺城に着陣したのは、祖父・伊勢盛時の武功にあやかってのこともあるが、何より――


「新九郎! わしが呼んどるというのに、いつまで寝ておるか!」


 氏康の叔父・北条宗哲(のちの北条幻庵)が、眉間にしわを寄せながら、興国寺城の広間に入って来た。

 宗哲は伊勢新九郎盛時の末子であり、前当主・氏綱の弟である。宗哲と名乗る前は、長綱と称していた。そして、のちに幻庵と号し、このあと、氏康の子・氏政、孫・氏直の代まで生き、北条五代すべてに仕えたという、稀有の経歴の持ち主となる。

 このとき、宗哲は駿河東部の長久保に城を持っており、その関係から今川家を中心とする西側への軍事・外交を担当していた。そのため、氏康は興国寺城で宗哲と合流し、今川家への対処を協議することにしていた。


「まったく、無礼にもほどがあるぞ」

 先刻から、当主に対して、誰も遠慮がないな……と氏康は思ったが、特に言及しなかった。北条家とは、そういう遠慮のない自由な気風が、ある意味美徳だった。

「すまぬ、叔父上。長久保の城から、わざわざのお越し、大儀」

「うむ。では早速、軍議を始めるか」

 宗哲は氏康の正面にどっかと腰を下ろした。

 小姓の弁千代がいつの間にか地図をそそくさと持ってきて、床に広げた。弁千代はまだ元服前の少年で、北条綱成の弟である。駿河方面へ兵を進めるのならば、福島家だった頃のことが役に立つこともあろうと、綱成が氏康に小姓とするよう頼んだのだ。

「まず、今川軍であるが、駿府を発して富士川を越え、善得寺に布陣しており……」

 宗哲が扇子の先を地図上で動かして、今川軍の動きを説明する。


 河東一乱。

 河東(駿河東部地方)をめぐる戦いをそう称しており、第一次は、北条氏綱が今川義元を破り、河東を手中にした戦いのことを言う。そして第二次は、今川義元が河東奪還を期して、北条氏康へ仕掛けた戦である。

 そしてこの戦いは、河東のみにとどまらず、関東にまで波及する、大きな戦乱を巻き起こすのである。






ふたつの杉を倒す夢 了

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