第37話 贈り物には幸福がある
入学してから三度目の春の花の月。
ついに私は追試を食らった。
学期末試験の結果が公表され、
パトリツィアは「なんてこと!」と世界の終わりでも迎えたかのように悲嘆していたし、カトリナは「休んでいたぶんの勉強を、私がちゃんと教えてあげられなかったからだわ」と思いつめていた。
一方の私は、答案用紙の半分を空白で出したときから嫌な予感はしていたので、すでに心の準備はできていた。
もうこの成績を取ってしまったのだからしょうがない。休んでいた授業のぶんの補講も決まっているし、あとは追試験さえ合格すれば、落第は免れる。
ただ、このことをアウフムッシェル領にいる夫人に知られるわけにはいかないので、成績表の送付状は、私がこの手で握り潰した。春休みも王都に滞在する予定にしていてよかった。これで正々堂々と補習を受けられる。
そして迎えた春休み。
私は事前に決めていたとおり、ブルーメンブラットの別荘ですごしていた。
学校に向かうことを考えると、アウフムッシェルの別荘からよりも、こちらからのほうが距離が近く、補習を受けるためにもよかったのかもしれないと思った。
「——いま戻ったわ」
学校から帰ってきた私が談話室に入ったとき、そこに、フェアリッテとノワイエ以外の姿があるのに気づく。
フェアリッテが「お帰りなさい」と振り返ったとき、彼女も私を振り返った。
私はその顔に微笑んで話しかける。
「お久しぶりですね、オルタンシアさま」
「プリマヴィーラ嬢。ご無沙汰しております」
同じように、オルタンシアも笑み返してくれた。
あらかじめノワイエから聞いていたように、オルタンシアもラムールからリーベへとやってきたのだ。
「よくリーベにお越しくださいましたね。長旅だったでしょう。どうぞ座ったままで」
オルタンシアがチェアから腰を浮かせようとしたので、私はそれを断って、被っていた帽子を外しながら、彼女のそばに近づく。
久しぶりに見る顔なのに、ノワイエと揃いの色をした髪と目のおかげで、ちっとも懐かしい気がしなかった。
オルタンシアは、象牙色の柔らかなブラウスに、焦茶地に繊細な柄の入ったラムール式のドレスを着ていて、地味な色合いの格好だというのに、まるでチョコレートの妖精みたいにかわいらしい。
純真な眼差しで私を見るオルタンシアの様子は、心からの親しみがあるように思われて、補講を受けた疲れも吹き飛ぶようだった。
「プリマヴィーラ嬢も、所用で外出していたと聞いています。お帰りになったばかりでお疲れではないですか?」
私の所用をフェアリッテが伏せてくれたことを知り、その気遣いに心から感謝した。
「大丈夫ですよ。私もご一緒しても?」
「もちろん」
そう言うが早いか、席を立ったノワイエが、私の分の紅茶を入れてくれる。フェアリッテがまったく動かないのを見るに、どうやらこの席の主人は彼らしい。
私はオルタンシアの向かいの席に座った。
「今回の滞在で、フェアリッテさまだけでなく、プリマヴィーラ嬢ともお会いできるなんて。誘ってくれたノワイエには感謝しなくてはなりませんね」
「ええ。お声いただけたおかげで、私もオルタンシアさまに会えましたから」
私がそう返すと、オルタンシアはどこか安堵したように肩を落として、「ああ、二人がきちんと話せるようになって、本当によかった!」としみじみ言う。
「ラムールにいたときだって、本当に気が気じゃなかったんです。ノワイエは躾のなってない犬みたいに吠えて、プリマヴィーラ嬢を困らせて」
「ああ、もう、やめろ。その話はいいから」
「やめてさしあげるもんですか。貴方がきちんと謝ったことは進歩だけれど、だからと言って、全部なかったことになんてできないわ」
「オルタンシアさま。私はもう気にしてませんから。お互いに誤解もあったようですし」
「ああ、本当に、女神のようにお優しい方だわ。ノワイエ、貴方はプリマヴィーラ嬢の雅量に感謝するべきよ。貴方の非礼の数々を思えば、プリマヴィーラ嬢は、貴方の舌を引っこ抜く権利だってあるんだからね」
オルタンシアに叱られたノワイエは、尻尾を丸めた犬のようにたじろいでいた。
ラムールでの件を反省している彼は、私を前にして強く言い返せないようだった。自分の過ちを否定することもできず、オルタンシアにやりこめられるばかりだ。
「リーベに行くって貴方が決めたときだって、これ以上プリマヴィーラ嬢にご迷惑をかける前に、貴方の肋骨の怪我を長引かせてしまおうかなんて、そんな魔が差したくらいよ」
「うるさいな、もうわかったから」
「本当にわかったのかしらね。夏に私が注意したときだって、貴方はやかましく思うだけで、ちっとも態度を改めなかったんですもの。わかったと言うなら、もっと申し訳なさそうな顔をしてくれないと」
「しつこいぞ、俺にしか強気でいられない意気地なしのくせに! 俺を相手にするときくらい、外でも言い返してみたらどうだ!」
オルタンシアも、人前で話すことが苦手な自覚はあるので、それをあげつらうノワイエに尻込みしたものの、しかし、すぐに得意げな顔をした。
「ふん! 私だって、最近言い返せるようになったもの。プリマヴィーラ嬢のおかげでね」
「ヴィーラの?」
「はい。切り返しのコツを教えてもらったので、それを実践しました。いつもの、意地悪なミュゲにです」
ミュゲという名には覚えがあった。
私が「あのミュゲ?」と尋ねると、オルタンシアはしかと頷いた。このことは絶対に報告せねばという使命感に満ちた顔で、オルタンシアは力強く話す。
「前の夜会で身につけたのと同じアクセサリーを私がつけていたから、ミュゲが“田舎ではそれが流行ってるのかしら?”なんて言ってきたんです」
「まあ。アクセサリーくらいいいじゃないの」
「だから、“寝起きのままの髪で外出するのが貴女の流行りなの?”って言い返してやりました。ミュゲは巻き毛がコンプレックスなんです」
相手の嫌がるところを的確に突いているオルタンシアが面白くて、私は「よくぞ言ってやりましたね」としたり顔をする。
オルタンシアは笑みを深めて続けた。
「それだけではありませんよ。ミュゲがホストに挨拶をするとき、お辞儀の角度が深すぎたんです。相手は伯爵夫人なのに、まるで公爵夫人を前にしたときのように身を屈ませたんですよ」
「相手の顔を覚えてなかったのかしら?」
「お辞儀の角度を間違えるなんて、平民上がりの無作法者しかしないような、致命的なミスだわ。そのミュゲってひと、意外と隙だらけね」
「でしょう? それで私、“なるほど。貴女の立場ではその角度がふさわしいのね”って言ってやったんです!」
貴族令嬢のミュゲを平民以下の身分だと揶揄したのが痛烈で、しかも、それをこのオルタンシアが言い放ったということが爽快で、私は声を上げて笑った。
ただし、フェアリッテとノワイエには受けが悪かったようで、二人とも表情を曇らせた。
「そんなことを言って大丈夫なの?」
「相手はミュゲだぞ。やり返されないか?」
「言い返さないのもよくないけれど、言いすぎもよくないのではないかしら。貴女の立場が悪くなるかもしれないわ」
フェアリッテとノワイエが心配するので、途端にオルタンシアも覇気を失くす。もしかすると自分はとんでもないことをしでかしてしまったのではないかと、可哀想なくらいおろおろしていた。
そこで私は尋ねてみる。
「では、お二人がオルタンシアさまの立場なら、なにもお言いにならないのかしら。これまで意地悪をしてきた相手のミスを見逃すと?」
「そんなの言ってやるに決まってるわ」
「なんなら俺にもその角度でお辞儀させます」
急に手の平を返した二人にオルタンシアはびっくりしたが、当の二人は意気揚々と、シャンパングラスでするようにティーカップを打ち鳴らしている。
私は目を回しながら肩を竦めた。
「そんな、言ってることが違います!」
「自分が言うのはいいのよ。責任が取れるから。でも、
「リッテは、私が人前で誰かを悪く言うと、いつも聞き捨てならないという顔をするものね」
「そりゃあそうよ」
「でも、
「そりゃあそうよ」
ノワイエが腹を抱えて笑った。
フェアリッテは事を大きくしないために私を叱るふりをするけれど、その実、
「オルタンシアが言うから、というのもあるわよね。いつもおとなしい貴女が言うと、たとえばノワイエが言うよりも、よっぽど強い印象になってしまうんじゃないかしら」
たしかに、チョコレート菓子のようなオルタンシアの口から皮肉が飛びだすと、誰が言うよりもびっくりしてしまうかもしれない。
オルタンシアは拗ねたような顔をして、「じゃあ、私は言い返しちゃだめってことですか?」とこぼす。
「そうじゃないけど、ヴィーラ風の皮肉はスパイスが効きすぎるのよね。その素材そのままの旨みを活かしてもいいと思うのよ」
「じゃあ、リッテ風味で振る舞ってみてよ」
「“ねえ、ミュゲ。貴女の場合、もう少しお辞儀を高くしてもいいんじゃないかしら。あの方に忠誠を誓いたいなら忘れてくれていいわ”」
フェアリッテはシェフのように恭しく胸に手を当て、「こちらがご注文の一品、ヴィーラ産皮肉のリッテ仕立てにございます」と付け足した。
要約内容はそのままに、口あたりがマイルドになっていて、完璧な仕上がりと言えた。
「親切すぎないか? 俺なら言ってやった気になれなくて、満足しないと思う」
「でしょうね。私は、みんなが気を遣って言いにくいところを、冗談混じりに教えてあげただけよ。それを助言と取るか皮肉と取るかは、そのひと次第だわ」
ノワイエにとっては親切と思えるものでも、ミュゲにとっては業腹であろうということだ。
いつも馬鹿にしているはずのオルタンシアに言われたとなれば、なおさらである。
「では、
「“ええ、オランジェットよ。それに瞳はミントキャンディーなの”」
「
「“学問には明るいほうよ。おかげで才能が芽生えたのだから、努力とは素晴らしい財産よね”」
「……フェアリッテさまらしいですね」
フェアリッテの言うことは、事を丸く収めるための気回しに近い。相手の悪意を
淑女としての模範解答と言えるだろうし、私自身、そのしなやかで気高い姿勢を真似たこともあるけれど、並々ならぬ忍耐強さを必要とする、根気のいる振る舞いだった。
「オルタンシアが強い言葉を使うと、ブーレンビリエ夫人は貴女を叱るしかなくなるわ。私がヴィーラを止めるしかないようにね。でも、貴女が親切であればあるほど、ブーレンビリエ夫人は貴女の味方をしてくれるはずよ」
優雅に泳ぐ白鳥が水面下で忙しなく足掻いているように、会話で花を咲かせるフェアリッテは、泥臭く根比べをしているのだろう。
オルタンシアは納得しかけていたが、フェアリッテの言葉は続いた。
「でも、ブーレンビリエ夫人の目の届かないうちならかまいやしないわ。相手が口を開く気も失せるくらいに言い負かしておしまいなさい」
私たちはどっと笑った。
それからの、四人ですごす春休みは、間違いなく、この三年間で最も楽しい休暇だった。
午前中は補習と課題をこなし、午後からは自由を満喫する日々で、私たちはいろんなことをして遊んだ。
フェアリッテはノワイエと、私はオルタンシアと、チェスの腕前が拮抗しており、フェアリッテたちが熾烈な聖戦を繰り広げている隣で、私たちはクイーンが同盟を結んだりしていた。
お茶の時間が近づけば、ノワイエはメイドを差し置いてよく働き、素晴らしいお茶を提供してくれた。
そうなると、私たちはノワイエを
フェアリッテが王太子妃教育で忙しくしているときは、ノワイエとオルタンシアのリーベ観光に付き合い、三人で帝都のあちこちを練り歩いた。
オルタンシアがリーベのドレスも欲しいと言ったときは、フェアリッテも時間を捻出して、一緒にブティックまで買い物に行った。
ラムールの
もちろん、春休みのあいだも夜会のお誘いはあったけれど、私は「学業を優先するため」という大義名分を
そうなると、私の最重要課題は、補習と追試の件をアウフムッシェル夫人に知られないようにすることで、乳母には「落第しないと約束するから、絶対に報告しないで」と強く念押しした。乳母の忠誠心が私と夫人のどちらに傾いているかに、すべてがかかっている。
「そういえば、プリマヴィーラさまは
「ええ。オルタンシアさまは?」
「実は飲んだことがなくて。でも、ずっと興味はあったんです」
オルタンシアがそう言ったことがきっかけで、帝都で最も人気のある
この日、フェアリッテは王太子妃教育で宮殿に赴いており、また、ノワイエもアインハルト殿下と会う約束をしているということで、出かけたのは私とオルタンシアの二人だけだった。
馬車はフェアリッテが使っていたため、私たちは歩いて
「今日、プリマヴィーラさまにお誘いいただけて嬉しいです。ラムールでは、まだ男性の社交場のイメージが強く、私たちは入りにくくて……」
「リーベも似たようなものですわ」私は肩を竦めて言う。「ただ、女性向けに営業しているお店もあるので、そちらに行くことが多いです。そういう店では
それを聞いて、オルタンシアは「お土産に買っていこうかしら」と画策しはじめる。
もう春の花の月は終わろうとしており、春の蝶の月になれば新学期が始まる。そのころにはオルタンシアはラムールに帰らねばならず、こうしてリーベを満喫する時間は限られていた。
「残すところ数日となりましたし、オルタンシアさまの行きたい場所などが他にもあれば、お付き合いいたしますわ」
「そんな。もうじゅうぶん付き合ってくださって、申し訳ないくらいです」オルタンシアは顔の前で両手を振った。「ラムールにはない聖場も回れましたから、思い残すことはありません。実はノワイエともいくつか回っているので」
つい先日、私が追試を受けているあいだにも、二人は観光をしていたようだ。
ちなみに、私はその追試で及第点を取れたので、最悪の事態は免れている。肩の荷が降りたことで、いまは晴れやかな気持ちだ。
「プリマヴィーラさまは、《真実の泉》を訪問したことはありますか?」
オルタンシアの問いかけに「いいえ」と答える。
そもそも、私は《邂逅の森》以外の聖場に行ったことがない。入学してからは観光するような時間も熱意もなかったし、入学前にいたってはあまり外出を許されていなかった。
「王都の神聖院の近くにあるというのは知っていますが……オルタンシアさまは訪問されたんですか?」
「はい。ノワイエと二人で行ったのですが、祝福の特性上、どうやら告白やプロポーズの名所でもあったらしく……私たちを恋人だと勘違いした司祭さまに、末長くお幸せに、と声をかけていただきました」
そう言われた二人の微妙そうな顔色が想像できて、私は腹を抱えて笑った。
なるほど、道理でカトリナがデートスポットの定番と言っていたわけだ。嘘偽りなき愛を証明するという趣は、理解できないでもない。
「ラムールには《真実》を冠する聖場がないので、盲点でした」
「ラムールにはどんな聖場がありますか?」
「そうですね、《除災》に《速癒》に、観光名所として有名なのは《悪運の井戸》でしょうか。井戸に向かって最も恐れていることを叫ぶと、その運命からは逃れられるそうですよ」
「都合のいい祝福ですね」
「あくまでも最悪の事態を免れるだけです。その昔、戦争のために徴集された男が、死にたくないと叫んだのち、両足と片目と味覚を失って帰ってきた、という逸話があります」
「なるほど。多くのものを失っても、命があるだけましとするかどうかは、平和な時代を生きる私には測りかねますね」
「私も恐ろしい逸話だと思いました。運命とは、万物に公平で、残酷なものですね。人は決められた運命を辿ることしかできないから……それが少しでも幸福に近い形であることを願うしかないんだわ」
どんな僥倖も、試練も、巡り合わせも、あるいは別れも、すべては定められた運命であり、アルトゥール・シュレーゲルミルヒ曰く、飲み干すしかないのだ。
「……身に起こったことが悲劇であればあるほど、どうあっても逃れられない運命だったのかしらと、みじめな気持ちになりますね」
私はぼんやりとこぼした。
そうして話しこんでいるうちに、目当ての
王都の一等地に立つその大きな建物は、白亜がごとき煉瓦の壁面と、大きなショーウィンドウから覗く華やかな雰囲気が、道ゆく人々の遠目を引く。
ただ、今日はどうにも盛況なようで、店に入ってすぐ、待合席まで満席になっているのが見えた。
「たいへん人気のようですね」
そう言いながら、オルタンシアはそわそわとあたりを見回して、念願叶って来れた
貴族の趣向に合わせて、外観も内装も見栄えのする造りになっているが、貴族でない女性も多く来店している。待合席に座る客たちは、上等に見えるよう身なりを整えてはいるものの、平民や貴族崩れというふうな者も多い。
「ここは貴族も平民も分け隔てなくもてなすのがコンセプトなんです。少し待つことになりますが、オルタンシアさまはかまいませんか?」
「もちろんです」
店員に案内されるまま、私たちは待合席へと向かったところで、
「あら。オルタンシアさまではないですか?」
と、声をかけられたため、私たちはそちらへと振り向いた。
声をかけてきたのは、今まさに待合席を立ち、店員に中へと案内されようとしていた女性だった。
私たちより二回りほど歳の離れているだろう、栗色の髪をひとまとめにした、背の高い女性で、世にも珍しい紫がかった碧眼が目を引いた。
春らしい薄紫のドレスは、その上等な生地に反して装飾があまりなく、まるで布を買うのがやっとだったようなデザインで——平民上がりの準貴族だろうとあたりをつける。
「まあ、メリザンド先生?」オルタンシアの顔がぱっと華やぐ。「メリザンド先生ではありませんか! こんなところでお会いできるなんて……いまはリーベにいらっしゃったのですね」
「ええ。オルタンシアさまこそ、いつからリーベにいらしたのですか?」
「春休暇からです。ノワイエがラムールに留学に来ているので、様子を見に来たんですよ」
オルタンシアの反応から、ラムールの知り合いであることがわかった。
なりゆきを見守っていた私に、オルタンシアが振り返って紹介する。
「こちらは、私の家庭教師をしてくださっていた、ブラン子爵家のご令嬢、メリザンド・ル・ブランさまです」
男爵家が精々だと思ったのに、子爵家?
それに、その歳でご令嬢というのも気になった。とっくに結婚して、貴族夫人として子供だっていそうなものなのに。
すると、オルタンシアに紹介されたメリザンド・ル・ブランは、しなやかに眉を下げて微笑みながら言う。
「オルタンシアさま。ここはラムールではありませんので、ブラン子爵家の名ではなく、どうかデイム・メリザンドとお呼びください」
デイム——つまり
準男爵と呼ばれる称号は、帝国で売爵されているもので、リーベにもラムールにも存在しない位である。世襲爵位ではあるものの、厳密には貴族ではなく、出入りできる社交界も限られている。
それに、準男爵夫人を指す“レディ”ではなく、準男爵位を持つ者を指す“デイム”を名乗ることも意外で、なんだか、聞けば聞くほど首を傾げてしまうような、異質な女性だった。
そんな彼女にも、オルタンシアはにこやかに答え、「では、デイム・メリザンド」と私のほうへ手を遣る。
「こちらは、アウフムッシェル伯爵家のご令嬢で私の友人、プリマヴィーラ・アウフムッシェルさまです」
そう言ってオルタンシアが私を紹介するので、私も挨拶をしようとした。
けれど、それより先に、メリザンド・ル・ブランが口を開く。
「まあ、プリマヴィーラ?」
「はい?」
「ああ、いえ、申し訳ありません。こうして会う機会が不意に訪れたものだから、驚いてしまって。そう。貴女があのプリマヴィーラさまでしたのね」
「……私をご存知なのですか?」
「手紙越しにお名前だけ。それも、教え子二人から出てきた名前なんですもの。忘れられるはずがございませんわ」
メリザンド・ル・ブランは青紫の瞳を優しく細めて笑った。
その表情から伺うに、私の評判はずいぶんよいようで、オルタンシアはずいぶん私を褒めてくれたのだろうと思われた。隣のオルタンシアも、手紙に私の名前を出したことを知られて、気恥ずかしそうにはにかんでいる。
ただ、教え子二人と言ったのが気になった。わざわざ家庭教師にまで話すような友人が、私の周りにいただろうか。
「ちなみに、その教え子というのは、オルタンシアさまとどなたでしょう? 私も知っている方ですか?」
「クラウディアですわ」
突飛に出てきたその名に、私は息を止めた。
胸の奥でじわりと熱が灯り、言葉を失う。
「クラウディア・フォルトナー嬢。彼女も私の教え子だったんです。貴女にお会いできて嬉しいですわ、プリマヴィーラ嬢」
青紫の瞳は、実に穏やかに、私を見ていた。
立ち話もなんなので、とメリザンドは私とオルタンシアとの相席を許してくれた。
店員に通されたのは、平民も入り乱れる一階のテーブル席ではなく、貴族も居座りやすい二階の個室だ。一階よりもさらに高級感のある空間で、誰にも邪魔されず会話を楽しめる。
私たち三人は、向かい合うように低いテーブルを囲むソファーに腰かけて、頼んでいた
「ブラン家はラムールの子爵家ですが、あまり裕福ではないので、長女の私も仕事をしなければならなかったんです。昔から子供が好きで、教えることも楽しかったので、入学前のご令嬢の家庭教師をするようになりました」
デイム・メリザンドはそのように語る。
下位貴族の令嬢が上位貴族の家庭教師や侍女として働くことは、さほど珍しくない。
雇用側からしてみれば、見知らぬ平民を雇うよりも、身元がはっきりしているぶん、安心して仕事を任せられるのだ。
ふと、私は尋ねる。
「
「当たらずも遠からず、ですかね」デイム・メリザンドは屈託なく返す。「教えることが楽しくて、結婚をするのが嫌になったんです。貴族女性として生まれたからには、いずれ誰かと結婚して、その家門を守る女主人にならなければならないでしょう? でも、私には、それがひどくつまらないことに思えて……一人立ちしたかったんです」
「それで爵位を」
「帝国は先進的で、女性も職に就いて活躍できる風潮が広まっていますから。準男爵という称号があれば、それは信頼となり、実績となり、間口の広さにも繋がります」
つまり、デイム・メリザンドは、仕事のために誰とも婚姻を結ばず、貴族夫人になる人生を捨てたということだ。
その真新しさに私は驚いていたし、そういう道もあるのかと天啓を得たような気もした。
「オルタンシアさまとは、入学される前の二年間だけですが、勉強を見させていただいておりまして……その縁で、いまも手紙のやりとりをしているんです」
「メリザンド先生の授業はとてもわかりやすいんですよ」オルタンシアが嬉々として語る。「それに、字が綺麗で、刺繍もダンスもお上手で、見習うところの多い素敵な先生でした」
「そんな、オルタンシアさまのお力になれたならなによりです。オルタンシアさまは熱心に授業を受けてくださるので、私も教え甲斐がありました」
オルタンシアはデイム・メリザンドを心から信頼しているようだったし、デイム・メリザンドもオルタンシアをとてもかわいがっているように見えた。
家庭教師と教え子の関係が絶ったあとも、便りを送りあう仲なのだから、きっと本当によいご縁だったのだろう。
「教え子の何人かとは、いまも文通を続けているんです。仕事であちこちを転々としがちなので、便りはまちまちですが」
「それでも、いまも交流があるのは素敵ですね。プリマヴィーラさまのご友人である、そのクラウディア嬢も、先生の教え子の一人なんですよね?」
「はい。オルタンシアさまの前に教えていた子なんですよ」デイム・メリザンドは懐かしむように話す。「入学前に四年ほど教えていました。元々とても器用な子で、勉強もダンスも苦手ではありませんでしたが、刺繍の上達が特に早くて、どんどん難しい図柄にも挑戦して……とても意欲のある教え子だったのを覚えています」
「へえ」
「けれど、それまで熱中できるものがなかったからかしら、出会ったばかりのクラウディアは、どこか冷ややかな目をした子でしたの。授業をしていくうちに、心を開いてくれるようになったけれど……まるで、誰にも懐かない、気高い猫のような少女でした」
デイム・メリザンドの語る像と、私の記憶にあるクラウディアが重なる。
クラウディアの涼しげな瞳は、他者への無関心をそのまま硝子玉にしたかのようで、愛想はいいものの愛嬌がなく、私は誰のことも好きではありませんと告げていた。
「誰とでも上手く付き合えるのに、深く関わろうとはしないから……私の手から離れたクラウディアが、親しい友人を見つけられるか、心配したものです」
しみじみと語ったデイム・メリザンドが、やがて、穏やかな目で私を見遣る。
彼女はさっきもそんな穏やかな目で私を見ていた。雪解けを見つけたときのあたたかさを思わせる、まろい眼差し。
「けれど、貴女がいたのだから、それも杞憂でしたわね」
胸の奥で灯った熱が、小さく揺れはじめる。
その熱に浮かされたように、私は、今の自分がどんな顔をしているのかさえ、気にも留められない。
デイム・メリザンドと目が合ったときから、予感があった。私の知りたかったものの後ろ髪を掴める予感が。
「——気の置けない友ができたと、彼女からの手紙にありました。緑の瞳が凛々しく、まるで
見失ってからもうずいぶんと経ってしまったから、きっとそんなものはどこにもないと思ったし、最初からなかったと疑ってもいた。
私とクラウディアの関係は、一から十まで偽りと憎しみで彩られていたんだわ、なんて。
彼女に裏切られたあの日から、いつもいつも、想うのは私ばかりで、その想いの先で藻掻き苦しんでばかりで、こんなみじめな思いを味わうくらいなら、運命なんて呪ってやりたいとすら思った。
けれど、目の前の彼女の言葉は、不思議と腑に落ちて、私はおもむろにハンカチを取りだし、膝の上に広げて見せた。
その立派な絹地には、名馬と若葉を
デイム・メリザンドが目を見開かせる。
「まあ。もしかして」
「……一昨年の冬休みに、彼女から贈られたものです。手慰みで刺したのだと聞いていました」
「あの子らしい言い訳ですね」デイム・メリザンドはおかしそうに苦笑した。「ただの手慰みで、ここまで丁寧に刺すわけがないのに。理由もなく渡すのが照れくさいから、きっとそんなことを言ったんだわ。ああ、でも、私がすっかり話してしまったことは秘密にしておいてくださいな。きっと彼女が嫌がるでしょうから」
そうだ。私の知るクラウディアも、自分の感情を表に出すことを嫌がるひとだった。そういうことはまぬけでだらしがないことだと考えていたから、彼女は、他人と本音で話すようなことはしなかった。
彼女の本心は、いつもひっそりとしたところにあった。選択授業の帰り道や、身を寄せ合った小声の距離、誰の目にも映らない足下。
そして、いま、私の手元に、それは一刺しずつ丁寧に縫いつけられていた。
「そういえば、クラウディアと最後に手紙を交わしたのは、もう二年も前のことだわ。きっと学業で忙しくしているのでしょうね。よろしければ、あの子のお話を聞かせていただけませんか?」
デイム・メリザンドがほがらかに尋ねた。
ハンカチを握る私の手に、力がこもる。
彼女との硝子の友情は、砕け散ったまま、いまでもきらきらと輝いていて、胸を切りつけるほどに忘れられない。
「……入学してからしばらくして、彼女から声をかけてくれたんです。私は人付き合いが不得手で、誰からも遠巻きにされるような人間でしたが、それでも、彼女だけは話しかけてくれました」
時を遡る前の、一周目の記憶だ。
あのころの私はいまよりもよっぽど酷い
しかし、クラウディアは、手のつけられない腫れ物の私とまっすぐに対話してみせ、その末に、嫌いなものだらけの私の唯一になった。
「私にとっても、初めての友達でした」
彼女とすごす時間が楽しくて、そばにいられることが嬉しくて、私の散々な運命の中で、いっとう上等な存在だった。
気持ちが溢れて、はらはらと涙が流れる。
悲しみとも切なさとも違う温度をしたそれは、私の頬を優しく撫でるように伝う。
デイム・メリザンドは呆気に取られたような顔をしていたけれど、すぐに微笑を
かけがえがないから、もう二度と元には戻らないだろう。私たちの関係はとっくに破綻していてなすがままだ。
けれど、失われた青春のまばゆさは、きっと本物だったのだと思う。思い出すだけで胸の震えるような、尊く美しい日々だった。
「……もしかして、ラムールでもおっしゃっていた、例のご友人のことですか?」
オルタンシアが気づいたように言う。
私はハンカチで涙を拭い、オルタンシアのほうを見て頷いた。
「プリマヴィーラさまは、その方の言葉遣いをお手本にして、社交術を覚えられたのですよね。プリマヴィーラさまのお友達なら、きっと素敵な方なのね」
やがて、私たちの手元に
深く息を吸いこめば、陰るばかりだった私の胸の内に、春の光明が差しはじめた。
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