第31話 ノワイエが業を背負って来る
季節は冬の天の月。
冬休みが明け、新学期を迎える。
寮に帰ったものの、パーティーで顔を合わせる機会もあったため、パトリツィアやカトリナと会うのも、久しぶりという感じはしなかった。
馬車の疲れを癒やすため、すぐに就寝した私たちは、おかげですっかり早起きしてしまい、いつもよりゆとりを持って朝の支度をする。
鏡台の前の私は髪を梳き、いつものリボンを結ぶ。すでに支度を終えたパトリツィアは、椅子に腰かけて、提出物の確認をしている。
制服のタイを整えていたカトリナが、ふと厳かな顔をして、「そういえば、プリマヴィーラ」と私に言う。
「この前のパーティーでのこと、あれから進展はあったの? 手紙では、カナール家もフォローをしてくれたとあったけれど」
「ええ。貴女たちのおかげよ。一早く夫人に報告してくれたから、カナール家が味方になってくれたの」
離宮でのパーティーの一件で、例の男は家を通した正式な謝罪をした。アウフムッシェルはそれを受け入れ、表向き、話はまとまっている。
「例のひと、ブルーメンブラットにも弁償するそうよ。未来の王太子妃と敵対するわけにもいかないから、それとは別のお詫びもしたと聞いたわ」
「当然よね。だけど、貴女には謝罪の一つで済ませるなんて、誠意に欠けると思うわ。アウフムッシェルだって黙ってないでしょう」
そう憤慨するパトリツィアに、私は肩を竦める。
「アウフムッシェルは事なかれ主義なの。片田舎のしがない伯爵家だから、大した要求もできなくて」
半分本当で半分建前だ。
アウフムッシェルが私の名誉回復のために躍起になるとは思えない。特に未婚の令嬢では立場も弱いため、要らぬ揉め事は避けたがるものだ。
私個人としては、すでに報復も済ませているので、これ以上なにかを要求したいとも思っていない。次があれば舌を抜いてやるくらいだ。
「事を大きくして噂されるより、何事もなく次の夜会を完遂するほうが、夫人にとっては大事だったのよ」
事実、私とフィデリオの手伝いとして、乳母が王都にまで来ているのだ。アウフムッシェルの別荘に滞在し、パーティーのたびに私たちの世話を焼く手筈になっている。
おかげで冬休み中は社交界に出ずっぱりだったし、新学期が始まってからも、毎週末にパーティーの予定を入れられてしまった。私はいよいよ逃げ場を塞がれたというわけだ。
気怠さを隠しもしない私を見て、パトリツィアは心底同感という様子で頷いた。
「この冬はお互いに大変だったわよね……夜会にお茶会に、参加しなければならないものが多くて、正直、課題どころではなかったわ」
「パトリツィアなんて、休む暇もなさそうだったわね。どこに行っても貴女の顔を見た気がするもの」
「父や母が私を片づけるために躍起になっているのよ。新学期からは学業に注力したいと訴えたけれど、最悪、授業を休む日も出てくるかもしれないわ」
パトリツィアも私と同様に、結婚相手を見つけるため、社交会にたびたび顔を出さなければならなかった。彼女の顔には疲労が滲んでいて、私たちはお互いに共鳴した。
縁談の進んでいるカトリナは、少し居心地を悪そうにする。自分一人だけ幸先がよいことを安心していられるほど無神経ではなかった。ルームメイト二人と同じように困り果てていますという表情を作る。
「……無理しなくていいのよ、カトリナ」
「貴女が幸せで、私たちも嬉しいわ」
「な、なにかしら。私は本当に、毎日が大変で苦労していてよ。レオンったらね、私を前にすると、手紙の半分もしゃべってはくれないのよ?」
「そういえば貴女たちって、当たり前のようにお互いを名前で呼ぶわよね。仲が良くて素敵だと思うわ」
「冬休みのあいだも手紙が絶えなかったようだし、お似合いの二人じゃない。婚約式にはぜひ花束を贈らせてちょうだい」
「ああっ、もう、なんてこと! ごめんなさい、私、どうあっても貴女たちを傷つけてしまうわ! 早く消えてしまいたい!」
カトリナが真剣に落ちこみはじめたので、私もパトリツィアも話を変えることにした。
「ねえ。そろそろ朝食にするのはどう? いまならきっとどの席だって空いているし、スープだって一番あたたかいはずよ」
気苦労の多かった冬休みも明け、今日から新学期が始まるのだ。せっかく社交界から距離を置ける名分を得たのだから、もっと弾む話をしたい。
支度を済ませた私たちは、食堂へと向かう。
朝の早い時間だと、食堂へと続く道も静かで、冷気を浴びた薄い日差しさえも染み入る。
「そういえば、ラムールとの交換留学よ」パトリツィアはしみじみと言う。「どうしてゾフィア・フローン嬢ではなくゲルダ・リーゼンフェルトなんかが監督生に就任したのか、これではっきりしたわ。我が校を代表してラムールへ留学するなんて、フローン嬢にしかできないことだものね」
「貴女、リーゼンフェルト嬢が監督生になったこと、いつまで根に持ってるのよ」
「この身が朽ちようとも。誰が監督生でも私は祝福したけれど、彼女だけは許せないのよ。私が第一学年のころ、大して得意でもない馬術を選択したのは、彼女のせいと言っても過言ではないわ」
「二年前か。根深いわね」
「五年前よ。入学前からの仲ですから」
話題が移ろったことで、カトリナの口も滑りがよくなる。
「そうよね、パトリツィア、去年まで大変そうだったもの。今年は縫術を選んだくらいだし、元々は縫術志望だったんじゃないの?」
「ええ。でも、ゲルダ・リーゼンフェルトとかいう女が、私が刺繍の一刺しを間違えるたびに、いちいち指摘しては先生に言いつけてくるのよ!」
パトリツィアは硬く拳を握って訴える。
こんなパトリツィアは見たことがない。よその令嬢をとかいう女と呼ぶなんて。
私とカトリナは目を丸めながらも、きっと余程の恨みがあるに違いないと思った。
パトリツィアはふうと怒りを鎮めつつ、顰めた顔のまま、恨めしそうに語る。
「彼女は完璧主義なの。しかも、その理屈を他人にまで当てはめてくるのよ。おかげで私、針の穴に糸を通すときですらなにか言われんじゃないかって、気が気でなかったわ」
「誰にでも些細な失敗はあるのに、嫌な女ね」
「でしょ? もっと言ってちょうだい。私、ゲルダ・リーゼンフェルトの悪口ならなんでも聞きたいわ」
いつもお
自分と重なる部分を見つけて、私は一気に楽しくなる。
「成績がいいのを鼻にかけてる。きっと他人の不出来な部分ばかり見つけて楽しむタイプよ」
「わかる! 癪に障る顔するのよ」
「おやめなさい、二人とも」カトリナが私たちを宥める。「リーゼンフェルト嬢に聞かれたらお仕置きよ。彼女はいまや監督生なんだから」
「権力を笠に着て、えらそうよね」
「そうよ、みっともないったらありゃしない!」
「おやめなさいったら!」
まだ人通りの少ない時間だったが、私とパトリツィアがゲルダ・リーゼンフェルトの悪口を止めないので、本人やその友人に聞かれるのではないかと、カトリナはずっとはらはらしていた。
食堂に着くかという頃合いで、私もパトリツィアも満足した。ようやっと口を落ち着かせる私たちに、カトリナはほっと息をつく。
「まあ、なんだか人集りができているわね」
食堂の入り口付近に人が集まっている。
後ろがつっかえているのだから奥に進めばいいのに、なにやら遠慮がちに尻込みをしているのだ。
カトリナは「なにかしら」とこぼし、パトリツィアはそのうちの一人に声をかける。
「おはよう、エミーリア。なにかあったのですか?」
「まあ、おはよう、パトリツィア」エミーリア・リューガーが振り返る。「ラムールから来た留学生の方々がいらっしゃるんです。ベルトラント殿下とアインハルト殿下が揃って話しかけてらっしゃってね。おかげでみんな萎縮しちゃって、遠巻きに眺めるしかないんですの」
ラムールと聞いて、私は眉を顰める。
そのわずかな動きにすら、リューガーは肩を強張らせて、それでも私を無視できずに「おはようございます、プリマヴィーラ嬢」と声をかけてくる。怖いなら無理しなくてもよいのに。
カトリナは「ラムールの留学生ですって」と、興味深そうに声を弾ませた。そのまま人混みの中をするすると抜けていくので、私とパトリツィアもそれを追う。
私は二人を盾にするように、あまり目立たない位置で様子を伺う。
リューガーの言うとおり、食堂の真ん中では、ベルトラント殿下とアインハルト殿下の後ろ姿があり、そばにはフェアリッテも控えていた。
三人を囲むように監督生たちも集まっていて、ラムールからの留学生を歓迎しているのだろうと思われた。
そして、もてなされた留学生の中には、前もって聞かされていたとおり、ノワイエ・ル・ジャルダンの姿があった。
「見て、かわいい男の子もいるわ。彼はきっと一年生よね。春めいた刺繍襟が似合ってる」
「彼がジャルダン家の令息じゃない? フェアリッテ嬢とも親しく話しているみたいだし」
カトリナたちがひそひそと話しているのを聞きながら、私は内心で
まさか本当に来るなんて。ノワイエのやつ、なにを思ってリーベに留学なんて決めたのかしら。
どうせ面倒なことになるに決まっている。私がノワイエにしたことを騒ぎたてて、それこそクラウディアが《真実の祝福》で証明なんてしてしまえば、私は戦争の火種を使ろうとした悪女だのなんだのと言われそう。
舌を抜くべきは、あの令息ではなく、ノワイエのほうかもしれない。
「そういえば、プリマヴィーラも夏休みのあいだ、ジャルダン家と交流を持ったんですってね。ノワイエさまってどんなひとなの?」
短気で幼稚で
などと、思いのままに罵るわけにもいかず、私は「どんなひとだったかしらね」と言葉を濁らせる。
すると、私たちと同じように輪を外れたリューガーが、代わりに口を開く。
「フェアリッテから聞きましたが、とても快活で気さくな方みたいですよ。それに、馬術や武術にも秀でているのですって」
「まあ」
「アインハルト殿下と同い年だから、親善交流のために、今年の狩猟祭はお二人で一緒に出られるのだとか」
「もうすぐ狩猟祭ですものね」
「ただ、他のメンバーはまだ決まっていないそうですから、お二人とお近づきになりたい方々で、争奪戦になりそうですわ」
「どうせ最強の布陣で固められるに決まってますのにね。リーベ王室だけでなく、ラムール貴族の顔色まで窺わなくちゃいけないなんて、並の人間では荷が重いわ」
この冬の天の月を越えれば、毎年恒例の狩猟祭が待っている。
令嬢たちが織物の腕を競いあう前夜祭に、令息たちが狩猟の腕を競いあう狩猟祭、
「私ね、今年の前夜祭は、自分の名で出ようと思うの」カトリナがこそっと言う。「去年はミットライト嬢のお手伝いとして参加したけれど、せっかくだから、自分の決めたタピスリを織りたいなって」
私とパトリツィアが「素敵じゃない」「いいと思うわ」と応援すると、カトリナは気恥ずかしそうにはにかむ。
「そもそも前夜祭って、第二学年以上が主体のイベントだものね。織物のできない一年目は暇だった記憶しかないわ」
「パトリツィアは狩猟祭には参加しないの?」
「プリマヴィーラ。誰もが貴女みたいに、弓の腕前も兼ね備えているわけではないのよ。私は馬を走らせるのもやっとだったし」
「夏休みのあいだに買ってもらった馬も、お父様の趣味なんだっけ? 男のひとって本当に馬が好きよね」
「でも、パトリツィア。去年の貴女がよく乗っていた馬は、貴女に会えなくて寂しそうだったわよ」
「嬉しいけれど、あの子、すぐに舐めてこようとするのが苦手で……」
「懐いてるのよ、貴女に」
馬のかわいさを理解できないパトリツィアは、嬉しくなさそうに唸った。
やがて、二人の興味がノワイエから離れたため、私たちは朝食を摂るための席を確保した。それとなくノワイエから離れた席へと誘導したため、私と彼が偶然にも対面することはなかった。
一度、そのブルーグレーの瞳と視線が交わったような気がしたけれど、私はそれに知らないふりをした。
さて、私が避けても周囲が放っておかないのが、時のひとというものだ。
国境の向こうからやってきた若い令息は、なにかにつけて注目を集めた。
やれノワイエが馬術選択をしただの茶芸部に入っただの、なにをしても噂になるので、否が応でもこの耳に入ってきた。
なんなら、この学校に茶芸部があることをはじめて知った。私は部活動に興味がないため、植物園の管理をする園芸部くらいしか覚えていない。
クラスメイトの中では、特にヴォルケンシュタインが情報通で、教室に響き渡るような声で「今日はアインハルト殿下と図書館に行くそうよ!」と吹聴してくれる。
おかげで、ノワイエと接触せぬよう、その周辺を避けるという配慮ができた。
たまに、ノワイエがフェアリッテを尋ねに私たちの教室に訪れるなど、ひやっとする瞬間もあるのだが、そういうときはアーノルドが気を利かせて、それとない誘い文句で教室から連れ出してくれる。ここ数日、私の中で、アーノルドの株が上がりつづけている。
新学期が始まってしばらく経ったころ、馬術の授業の前に、私とディアナが先生に呼びだされた。
「二人さえよければ、下級生に混じって、馬術や騎射の授業を受けませんか?」
そう言ったのはグルーバー先生だ。
制服から着替えた私とディアナは、久しぶりに会う先生を見上げ、目を瞬かせる。
選択教養が騎槍に移って以降、担当教師も、馬術と騎射を担当するグルーバー先生から、騎槍を担当するゼーベック先生へと変わった。私たちはもうグルーバー先生の手を離れている。
しかし、情に厚いグルーバー先生は、騎槍には参加できず、縫術にも関心のない、時間を持て余した私たちを、不憫に思ってくれたらしい。
人好きのする微笑を浮かべ、私たちさえよければ、と提案してくれた。
「アウフムッシェル嬢もミットライト嬢も、特に熱心な生徒でしたからね。ゼーベック先生は騎槍のほうにつきっきりで、騎射にまで手は回せないでしょう。お二人が馬術選択に残ったという話を聞いたときから、なんとも気がかりで」
「先生のあたたかいお心遣いに、なんと申しあげればよいか」
「すでに素晴らしい騎手であるお二人には、物足りない授業になるかもしれませんが……少しでも有意義な時間にできればと考えています。今日はちょうど第一学年の馬術と被っているので、そちらに参加していただくこともできます。いかがでしょう?」
先生とディアナの会話を聞きながら、私も考える。
第二学年の騎射に混じるのはともかく、第一学年の馬術など、お遊びもいいところだ。
ただ、第三学年に上がってから、この授業に不満があったのはたしかだ。だらだら馬を走らせたり、動かない的を矢で狙うよりは、教育過程のある授業を受けたほうが身になる。
グルーバー先生の提案はありがたかった。
「また先生の授業を受けられるなんて願ってもないことです。ぜひお願いしたいです」
「私もディアナ嬢と同じ気持ちです。親身になってくださり、本当にありがとうございます」
ということで、私たちは馬術の授業に混ざることになった。
二人で厩へと向かう途中、私はこぼす。
「……でも、馬術とは運が悪いわね。騎射ならもっと楽しめたでしょうに」
「そんなに嫌なら騎槍に混ざりますか?」
「力比べで彼らに敵うわけがないじゃない。怪我をするに決まってるわ。そう言う貴女はいいのかしら。いまさら馬術を学ぶなんて退屈でしょう」
「かまいません。私は馬が好きなだけなので」
厩に着くと、ディアナは一番手前にいた馬の鼻筋を柔らかく撫でた。
表情は変わらないものの、どことなく穏やかな目をしていて、馬が好きというのは本当らしいと悟った。
「狩りの腕はどこで磨いたの?」
ディアナの弓の腕前は、誰もが知るところである。去年も一昨年も、狩猟祭では見事な獲物を提出していた。
「私にはたくさん家庭教師がついていましたから、そのときに。私は小柄なので、矢を射る力が足りず、習得には時間がかかってしまいました」
馬を撫でながらディアナが答える。
たしかにディアナは華奢で、たとえ踵のある靴を履いていたとしても、私の身長には及ばない。首という首が細く、どこもかしこも筋力のなさそうな、頼りない作りをしている。
「プリマヴィーラ嬢の腕前も、目を見張るものがありますね。ずっと馬術や弓術を?」
「そうね。騎射については、林の中の的を射たり、小動物を狩る程度だったけれど。それで言うと、私は体格には恵まれたから、さほど苦労もなかったわ。他のことが不得手だったから、よりいっそう好きになったの」
「勉強も苦手なご様子ですしね。最近の貴女の成績にも、目を見張るものがありますから」
さらっと
ディアナが小さく笑った気がした。鼻で笑ったのかもしれない。
「いいんじゃないですか? 学に秀ですぎる令嬢というのも、殿方は敬遠すると聞きますし。屋敷の管理をするだけの学さえあれば、女主人にはなれるでしょう」
「貴女は帝国を管理するだけの学が必要になるものね。そういえば、貴女が婚姻を結ぶ相手は皇太子なの?」
「いえ、皇太孫です」
「次の次の皇帝ってこと? 意外に悠長ね」
「齢三十余りの皇太子には、すでに三人の妃がいて、皇后の座も埋まっていますから。それに、皇太孫は私たちの一つ下です」
「あら、歳の離れた相手でなくてよかったじゃない」
パトリツィアの例を考えると、一回り以上離れた相手である可能性もあったのだ。打算で結ぶ婚姻ではあるものの、まだ同世代と言える相手なのは、幸運なことだろう。
そう思って私が答えると、ディアナは急に黙った。馬を撫でる手も下ろして、石のようにじっとする。
「……やはり、歳が離れていると、だめなのでしょうか」
「なに?」
「歳が離れれば離れるほど、その目で見る世界も変わるでしょう。やはり、自分より幼い相手だと、未熟な子供のように見えるのでしょうか」
「…………」
ノイモンド・フォン・シックザールは、私たちより四つだか五つだか年上だったはずだ。
そう気がつくと、どんどんディアナが落胆しているように見えてきて、私は呆れて目を眇める。
「……貴女、帝国に嫁ぐのよね? 皇后になって、運命に復讐してやるのよね? あの方への未練が捨てきれていないようだけれど、そんなので大丈夫なの?」
「それとこれとは別なのです」
「復讐なんて諦めたほうが貴女のためじゃない?」
「聖女として生まれて、復讐のために生きてきました。諦めることはそのまま、私の人生の否定になります」
「だったら貴女の思うままに突き進むといいわ。どうせあの方だって、貴女のことは妹みたいなものだと言っていたしね」
追い打ちをかけたことで、ディアナは物も言わなくなった。
この女、ちっとも表情を変えないくせに、意外とわかりやすいわね。
ガランサシャのように、聖女の顔色を見分けられるようになってきた。
「叶わぬ想いだとか言っていたくせに、割り切れていないじゃないの。貴女には聖女も国母も荷が重いんじゃない?」
「……私にまつわるすべてはいつだって過分です」
あのディアナが弱音を吐いている。
天変地異だ。
たぶん世界の裏側では槍が降っている。
「まあ……馬に慰めてもらったら?」
私たちは馬を
すでに多くの生徒が集まっていて、人前に立つと、ディアナはすぐに完璧な聖女の仮面を被る。この女の仮面の皮の厚さには純粋に感心する。
静かな笑みを浮かべるディアナの隣で、私は視線を感じはじめていた。
聖女に対する畏敬の目でも、物珍しさからくる好奇の目でもない。私へと一直線に向けられる、じりじりとした眼差し。
この感覚には覚えがある。
ラムールでたびたび受けたものだ。
そういえば、第一学年の馬術には、ノワイエも参加しているんだった。
なるべく避けようと思っていたのに、こんなところで出くわしてしまった。
やがて、グルーバー先生も合流し、生徒を見渡して声を張りあげる。
「皆さん。今日は上級生の二人も授業に参加します。ディアナ・フォン・ミットライト嬢と、プリマヴィーラ・アウフムッシェル嬢です」
紹介されたことで、下級生たちの目が一気に集まった。その中でもひときわ強い視線をくれたのがノワイエだ。
私はしらーっとそれを
いくらノワイエでも、空気も読まずに怒鳴り散らかすこもはないと信じている。
敷地の奥では、ゼーベック先生の授業を受けるアーノルドが、どこか心配するように、こちらへと視線を寄越していた。なにかあれば駆けつけてやろうという意思だけは感じた。
「第三学年の生徒の中でも、二人は指折りの騎手ですよ。学ぶことの多いご令嬢ですから、皆さんも頼るとよいでしょう」
いよいよ授業が始まり、グルーバー先生から「後輩に手本を見せていただけますか?」とお願いされる。私たちは了承し、先生の指示どおりに馬を走らせた。
実践が始まると、第一学年の令嬢たちのなかには、まず馬の背に乗ることから始めなければならない者もいて、すぐに私たちは手を貸すこととなった。あるいは、自分の後ろに一人乗せ、平地を歩き、馬に乗る感覚に慣れさせてやった。
令息は足腰が強く、令嬢よりかは馬に慣れている者が多かった。おかげで授業が退屈なのか、離れたところで槍を扱う先輩たちを、羨ましそうに見つめていた。
そのとき、令嬢たちから
視線を遣ると、アインハルト殿下が馬を走らせ、柵を跳び越えたところだった。
続いて、ノワイエも柵を跳び越える。
二人は爽やかに笑って、「やるな」「次は競走だ」と言葉を交わしている。
声をかけあう二人の姿に、仲がいいんだな、とぼんやり思った。また、フェアリッテの言う気さくで元気ないい子のノワイエをはじめて見たので、そんな顔もできるのかと内心驚いた。
「ミットライト嬢とアウフムッシェル嬢も、自由に駆けていいですよ」グルーバー先生が私たちに言う。「下級生のよい手本となってくださり、ありがとうございました。せっかくなので、走るところも見せてあげてください」
馬の数が足りないため、私たちは馬が空くのを待った。
すると、アインハルト殿下とノワイエたちが戻ってきて、ちょうど馬から下りる。
私が近寄るより先に、アインハルト殿下が「どうぞ、ミットライト嬢」とディアナに声をかけたために、私の動線は狂った。
立ち止まって、覚悟を決める。おもむろにノワイエのほうを振り返り、彼と目が合う。
「さきほどはお見事でした」
なにを言われるよりも先に告げた。
あえてにこやかな顔で。
「アインハルト殿下と打ち解けられたようでなによりですわ。お二人が馬を走らせる姿は、まるでご兄弟のようでした」
ノワイエのやや強張った表情の上で、眉が顰められた。睨みつけるような苦々しい顔だけれど、ラムールにいたときのように突っかかってはこない。
「……お久しぶりです。プリマヴィーラ嬢」
そればかりか挨拶をしてきた。
名前で呼ばれたことには驚きだけれど、私はそれを顔には出さず、「お久しぶりです」と返す。
「ラムールではお世話になりました。リーベにいらしていかがですか?」
「……クラスメイトのみんなも、とてもよくしてくれます。ラムールとは違う文化に触れられ、たいへん勉強になります」
話しているうちに、ノワイエの表情から硬いものが抜けていく。どちらかといえば淡々とした受け答えで、丁寧な言葉遣いも
大人な対応をしている。ジャルダン家の森でのことなんてなかったかのように振る舞っている。
例の件を掘り返す気がないなら、私にとっては好都合だ。
私もラムールにいたときのように、朗らかな笑みを浮かべる。
「私がラムールで貴重な経験をさせていただけたように、ノワイエさまにとっても、リーベでの時間が有意義になることを祈っております」
馬を譲ってもらおうと、私はノワイエに近づく。ノワイエが浮かせた手の、その手綱を受け取ろうとしたとき、私とノワイエの手が触れあった。
パシン!
と、音が鳴るほど、私の手が弾かれるほど。
ノワイエはそれを振り払って、
馬がわずかに
近くにいた令息が「えっ」と声を漏らす。すぐそばの令嬢も呆然とし、口元に手を当てた。
反動で半身を揺らした私も、わずかに呆気に取られたが、すぐに正気を取り戻す。
「ノワイエさま、」
「黙れ!」
耳まで真っ赤にしたノワイエが、私を怒鳴りつけた。その声は空高く響いて、遠くで騎槍をしている令息たちの耳にも届く。
先に馬に乗っていたディアナが、「どうかされましたか?」とこちらへ駆けてくる。聖女の仮面を被ったいま、諍いの芽を感じては捨て置けなかったのだ。
硬直するままなにも言わないノワイエ。
やがて、グルーバー先生も心配そうに視線を寄越すので、私はすぐに手綱を掬い取り、「なんでもありません」と答える。
「馬が少し暴れたのです。ノワイエさまが恋しかったのかしら。自分に懐かない馬も扱えるようにならないと、まだまだ一人前とは言えませんね」
そう苦笑し、馬の背に乗る。
私が収拾をつけようとしているのを悟り、ディアナも丸く収めることを選んだ。
「プリマヴィーラ嬢は、すでに立派な騎手ですのに、謙遜がお上手ですね」
「そんなことは。これからもグルーバー先生の教えを請いたいと、深く思っていますもの」
「それにはまったく同感です。プリマヴィーラ嬢、あちらのほうが広く空いていますし、一緒に走りませんか?」
「いいですね。ぜひ」
私はノワイエを見下ろし、「では、ごきげんよう」とその場を離れる。
ノワイエは私を見上げたまま、なにも言わなかった。
そのままディアナと走っていると、離れたところからアーノルドが馬を走らせてやってくる。授業の合間に、様子を伺いに来てくれたらしい。歩みを緩めた私たちの前で止まり、「大丈夫か?」と尋ねてくる。
「ノワイエさまが、また君を?」
「いえ。手を振り払われただけです」
「じゅうぶん失礼じゃないか」
アーノルドは憤慨していたが、詳細を知らないディアナは、目を瞬かせながら尋ねる。
「プリマヴィーラ嬢はラムールの使節団の一人でしたね。なにかあったのですか?」
「交流会のあいだ、折り合いが悪くて」
「プリマヴィーラ嬢に非はありません。事あるごとにノワイエさまが声を荒げて……はっきり言って、とても紳士のすることではなかった。彼女のなにがそんなに気に入らないのか」
「人の心とはわからないものですね」
「ミットライト嬢。なにか知恵をお貸しいただけませんか?」
「お力になりたいところですが、私はノワイエさまではありませんから」
「そうですよね……」
聖女に救済を求める声をさらっと
「プリマヴィーラ嬢、なにか心当たりは?」
お前がなにかしでかしたんだろうと暗に言われていた。アーノルドが私に非はないとフォローしてくれたのに。ディアナは私だけでなくアーノルドも信用ならないらしい。
「あれば困っていないわ」
私は肩を竦めた答えた。
その後、私はノワイエを避け、ノワイエも不用意には近づいてこなかったため、
「エミーリア嬢とイドナ嬢を口説き落とせたわ」
馬術を終え、着替えを済ませて教室に戻ってくると、カトリナが誇らしげに報告してきた。
その隣で、パトリツィアも訳知り顔をしている。
二人はさっきまで縫術を受けていたため、きっとタピスリを織る仲間についてのことだろうと悟った。
リューガーとヴォルケンシュタインは、去年の前夜祭でフェアリッテのタピスリを手伝ったメンバーだ。
「もう声をかけたの? 早いわね」
「タピスリを編むには、時間と人手がいるからね。早めに人材を確保しておかなきゃ」カトリナが悔しそうにする。「残念ながら、フェアリッテ嬢はお忙しいみたいで、今年は参加しないらしいのよ。彼女の技術も必要不可欠だと思っていたのに」
「王太子妃教育で手いっぱいなのよ、しょうがないわ。今年は私も戦力になるから、あんまり気を落とさないで」
パトリツィアもカトリナのタピスリを手伝うことにしたらしい。去年は派閥争いのおかげで互いに協力できなかったため、今年は二人揃ってタピスリを編めることを喜んでいた。
私はちらりとクラウディアを見遣る。
クラウディアは新しい友人と語らい、肩を震わせて笑っている。短くなった、けれど耳に落ちる細い黒髪を、そっと静かにかける。
私の視線の先に気づいたパトリツィアが、控えめに口を開く。
「……彼女もタピスリを織るのですって。刺繍だけでなく、織物の腕前もあるのね」
「そう」
クラウディアなら参加するだろうな、と思っていた。
フォルトナー領には製系工場があり、織り糸には困らない。また、商団から副資材を買いつけることもできるはずだ。去年の後夜祭で見事なタピスリを披露したガランサシャは、フォルトナーから支援を得ていた。
カトリナが私の手を取り、両手で握り締めた。
突飛なことに驚いた私は、目を瞬かせてカトリナを見る。
カトリナは強い眼差しで告げる。
「プリマヴィーラ。私、がんばるわ。今年の後夜祭を飾るのは、私のタピスリよ。絶対に絶対に、誰にも負けないタピスリにしてみせるから!」
カトリナの声には気合が入っていた。
たぶん、自惚れでもなんでもなく、私を励まそうとしてくれているのだと思う。あるいは、妬んでくれている。カトリナ・コースフェルトこそ、プリマヴィーラ・アウフムッシェルの友達なのだと、私に訴えてくれている。
私の頬は緩んだ。
「……じゃあ、私の供物が後夜祭で捧げられるのはどう?」
そう言うと、カトリナは目を丸め、パトリツィアが「いいじゃない」と手を合わせた。
私たちで今年の後夜祭を牛耳るのだ。なんだかそれは、とても最高なアイディアである気がした。考えるだけで胸が
カトリナも楽しそうに、けれど誰にも聞かれまいと声を潜めて、私に囁く。
「絶対よ。私たちもがんばるから、プリマヴィーラもがんばって」
「ええ。死力を尽くして狙うと誓うわ」
さて。狩猟祭に出ると決まれば、弓術の練習は欠かせない。一人のほうが身動きはとりやすいけれど、大物を狙うなら人手は欲しい。
どうしたものかと考えること幾日。
寮に戻る途中で、フィデリオが声をかけてきた。
「ヴィーラ。つかぬことを聞くけど、君、今年の狩猟祭に出る予定はある?」
フィデリオは少し困ったように私に尋ねる。
彼の遠慮がちな質問に、たちまちその意図を察する。
この男が私にお伺いを立てるなんて、珍しいこともあるものだ。しかし、下手に出てまで私を誘おうと言うのだから、その心意気は認めてやろう。
私は口角を吊りあげ、腕を組む。
「乗ったわ」
「ん? え?」
「どうせ貴方も今年の狩猟祭に出るつもりなんでしょう? 私もちょうど出るつもりだったから、貴方と組んであげる」
一も二もなく承諾した私に、フィデリオは目を瞬かせる。けれど、やがて弱ったように眉を下げ、なにやら口籠もりはじめた。
その反応は予想していなくて、私の口角は、すんと伸びる一直線の両端へと化ける。
「なによ」
「いや……うんとね」
「私を狩猟祭に誘いたかったんじゃないの?」
「誘うつもりでは、あるんだけど」
「だから、いいわよ、って。貴方なら足手纏いにはならないだろうし、貴方が私と出たいなら、出てあげるって言ったのよ」
なのに、なんなの、その態度は。
私は片足の爪先でタンタンタンと地を鳴らす。
どんどん機嫌の下降していく私に、フィデリオは困ったような顔をした。困っているのは私のほうなのに。いったいなにが不服なの。
すると、フィデリオは身を寄せるようにして近づいてきた。彼の柔らかな栗毛が、私の髪に触れる距離だ。
彼は口元に手を遣って、こそっと囁く。
「俺はノワイエ・ル・ジャルダンと出るんだ」
私は思わず「は?」とこぼす。低い声だった。
完璧に機嫌を損ねた私に、フィデリオは苦く目を瞑る。最初から予測できていたことが今まさに起きたのだという表情だった。
「彼がアインハルト殿下と一緒に狩猟祭に出るのは、君も知っていると思うけど……それに俺も加わることになったんだ」
「貴方も最高の布陣に選ばれたの?」
「監督生だから。ミットライト嬢は辞退したけど」
「貴方は何故辞退しなかったの?」
「する理由もないし」
「それで、どうして私を?」
「狩りの得意な人間を集めたいって、殿下が言ったんだ。何人か候補を挙げたところ、君にも声をかけてみようって話になって……俺は、どうだろうなって、言ったんだけど」
フィデリオは屈めていた身を持ちあげ、私から半歩離れる。そして、コホンと息をつき、蜂蜜色の瞳がどこともないほうを向いた。
「あー、そう。君も、狩猟祭に参加するつもりなのか。奇遇だな。よかったら、俺たちと一緒に出ない?」
「出ない」
私はきっぱりと断り、踵を返した。
フィデリオは「だよね」と気落ちしたふうにこぼして、私の隣へと並ぶ。
私がどれだけ足を早めても、フィデリオの歩幅には敵わない。今日ばかりはそれが癪だった。
「信じられない。どうかしてるわ。貴方、よく私に声をかけられたわね」
「俺だって困惑してるんだよ。まさか君を誘う案が通るなんて思ってなかった。ラムールでの件もあるし、君たちのあいだにある亀裂を考えれば、彼は君を拒むだろうと」
「そこまで考えたうえで私を誘う道理はなによ。フィデリオ、貴方、私をノワイエに売ったんじゃないでしょうね」
「君を売り飛ばすつもりなら、わざわざ彼がいることを伝えたりしないよ。狩猟祭の当日まで秘密にして、君を騙そうとしたさ」
「貴方が一縷の望みをかけて私を誘ったのだとして、どうせ例の件を謝罪する機会になるとでも思ったんじゃないの? 貴方は私に反省させるのが大好きだものね。私があいつにどんな態度を取られたか、知りもせずに、私を叱りつけるんだものね!」
私の声が廊下に響き渡る。私たち以外に人の気配がなかったのが幸いだった。思う存分吐きだす私に、フィデリオはため息をつく。
「悪かったよ。でも、少し話してみたけど、ノワイエさまは評判どおりの気さくな少年だった。そんな彼が一方的に怒るなんて想像もできないんだけど、君、本当になんにもしてないの?」
「してないって言ってるでしょ!」
私は足を止め、彼に突っ返す。
フィデリオは馬術ではなく武術を選択しているため、先日の授業でノワイエがどんなだったかを知らないのだ。
ノワイエの暴挙の一部始終を見せてやりたい。そうしたら、フィデリオだってこんな無神経なことを言ったりしないだろうに。
結局のところ、フィデリオは私を信用していないのだ。彼はいまでも、私のことを、愚かで醜く救いようのない人間だと思っている。
尽くせるかぎりの手を尽くして、面倒を見なければならない女の子。
幼いころから知っているというだけで、私の全部を理解した気でいる。
彼のそういうところが、ひどく腹立たしい。
「貴方は私を、人付き合いもまともにできない女だと思っているんでしょうけれど、私は私なりに誰かを愛して、愛されようとしているの。でも、誰からも愛されるなんて、到底無理でしょう? 私にとってのそれがあの男なのよ! どうして私ばっかり傷つけられて、それなのに傷つけ返してはいけないのかしら! 私は一度だって謝罪されていないのに、謝罪してやらなければならないのかしら! 貴方は知らないけれどね、」
死ぬまで知らせる気はないけれど、教えてやらないけれど、貴方のそばにいるというだけで私を憎まずにはいられない、私を絶対に許しはしない人間だっているのだ。
誰からも好かれるように上手くやるなんて、私にはできない。フェアリッテのようには生きられない。
他人からどのように嫌われようと、そんなのは私にとってはいまさらだけれど、それをまるで私のせいかのように扱われるのは業腹だった。
しかも、それを、他でもない貴方が。
ぶちまけてやりたいことが喉の奥でこんがらがって、それらのどれ一つとて言えずに、唇を噛み締める。
「……ヴィーラ」
フィデリオが私の名を呼ぶ。私を落ち着かせたいのか、真摯な目で見つめ、私の言葉の続きを待つ。
くれてやるものか。
私は踵を返し、フィデリオに背を向ける。
「貴方がノワイエにつくなら容赦しないわ。貴方たちよりもよっぽど上等な獲物を捕まえてやるから。骨折り損にならぬよう、精々がんばることね!」
まるで捨て台詞のようにそう言いきって、私はその場を去る。
全部ノワイエがリーベに来たりなんかしたせいだと、私は舌を打った。
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