(21)
「ザカライアさん、あの……商会の方に花を飾ってもらうことはできますか?」
「? それくらいなら、いつでも」
「そうですか! よかった。それじゃああとで手配させますので、受け取ってくださいね」
「……花なら、商会にも飾ってあるけれど――」
「その……わたしが贈った花を飾っていて欲しいんです。そしたら、ほら、商会にいてもわたしのことを思い出してくださるかなーって……」
「……ああ、なるほど。そうだね……それはいい考えだ」
「それならよかったです」
「夫婦をはじめましょう」と高らかに宣言したはいいものの、わたしはまず「夫婦」のなんたるかをさっぱり知らないわけで。それでもない知恵を絞って、ときには今まで読んできた本の知識を少しだけ拝借しつつ、一歩ずつ確実に進んで行くことにした。
目標設定はそう高くし過ぎない。わたしでも背伸びをすれば届きそうなところに設定して、それを徐々に高くして行く。一歩進んだと思っていたら、次には二歩下がっていたとしても、めげない。……ひとまずこれだけを心に命じて、わたしはザカライアさんの「妻」らしく振る舞おうとした。
今のわたしじゃ、まだおままごとみたいなことしかできていない自覚はある。けれども今はまだ、それでいいことにする。最初から理想を高く持ちすぎても、心が折れてしまっては意味がない。
目指すところは確かに、「理想の家庭」ではあるのだが、そこへのぼりつめるには今のわたしでは能力不足。だから、地道に力をつけて行って、いずれはザカライアさんと「理想の家庭」を築くのである。
花を贈るのはまず一歩。商会で仕事に追われているあいだも、いつでもわたしのことを考えていてとは言えないけれど、ふとした瞬間にわたしという「妻」がいることは思い出して欲しい……。そういうささやかなところから始めることにしたのだ。
一歩目で「それは重い」とか「面倒くさい」と思われたらどうしようと考えていたのだが、ザカライアさんは快く受け入れてくれた。……もしかしたら、それは表面上だけのものかもしれないが、たとえ仮に面倒くさく思っていたとしても、表に出さないぶんマシだと思ってしまう。
まず目指すところは「夫婦」であることに慣れること。相手のことを「夫だ」「妻だ」と自然と言えるようになれればいい。
そうは思っているのだが……わたしにはまず解決せねばならない喫緊の問題があった。
それは――。
「あの……ザカライアさん。……お話があります」
「? どうかしたかい?」
「その……どうしてザカライアさんは――わたしをリボンで縛るのでしょうか」
それは、夜の営みだ。避けては通れない夫婦の営み。その最中になぜかザカライアさんはわたしの手首をリボンで縛って拘束する。夫婦を続けるのであれば、真っ先に解決したい喫緊の問題が、これだった。
嫌ならば嫌だと、最初に意思表明をしておけばよかったのだが……わたしは初夜の緊張感も手伝って、流れで受け入れてしまい今に至る。
でも内心では嫌だった。我慢できないほどに嫌というわけではないのだが、微妙に嫌だという気持ちは強い。最中に手首を縛るというのは、どう考えてもアブノーマルであったし、なにより頭上で手首を固定されると、終わったあとに腕や肩がだるくなるのが嫌だ。
しかし、しかしもしかしたら、ザカライアさんにとっては、このわたしの手首を縛るという行為はなにか大きな意味を持っているかもしれない。それはあくまで可能性の問題であって、わたしが想像する最大の理由は、「ザカライアさんがそういうのを好き」という答えなんだけれども、こればかりは当人から聞き出さねばわかりはしないだろう。
だからわたしは真正面からザカライアさんに問うた。けれども。
「そうだね……。どうして、かな」
「え?」
ザカライアさんはわたしの問いに軽く目を丸くしたあと、手にしていたリボンに視線を落とす。そして出てきた言葉は、わたしへの問いというよりは独白めいたセリフに近かった。
だから、思わずわたしは間抜けな声を漏らしてしまう。「え? わかっていないの? 明確な理由がないの?」という戸惑いもあった。
ザカライアさんは何度かリボンを見て、わたしを見て、それから考え込むような仕草をした。わたしはそれをじっと見つめて、ザカライアさんがザカライアさんなりの答えを出すまで粘り強く待った。
「そうだね……どうして……。……逃げられたくないのかな……君に」
ザカライアさんの答えは、おどろくべきものだったということもなく、わたしの推測のひとつが当たった形となった。そのことに内心で安堵する。これでわたしが想像し得ないような突飛な答えが出てきたら、どうしようかと思っていたのだ。
けれどもザカライアさんの答えはわたしの想像の範疇に収まっていた。
完全な推測になるが、ザカライアさんは前妻さんに逃げられたことが、本人が思っているより堪えているのだろう。だから、短絡的に閨でわたしを拘束するという方法に出た……のかもしれない。繰り返すが、これは素人による完全な推測だ。けれども、当たらずとも遠からずな気配は感じている。
だから、それをやめさせたいのであれば、わたしはザカライアさんの信頼を勝ち取るしかないのだと考えた。信頼。言葉にするにはあまりに簡単すぎるけれど、他者からのそれを得るのはなかなか難しい。道理を語っても、得られるものではないだろうし。
ザカライアさんは本心では、わたしに「妻」でいて欲しいと願っている……のだと思いたい。確かに「浮気してもいい」というようなことを言ったが、特殊な性的嗜好の持ち主ではないのであれば、普通に考えて伴侶に浮気されるのなんて嫌なはずだ。それは、閨でわたしを縛るという行為から考えても、間違ってはいないと思う。
けれども、わたしは縛られるのは嫌だ。腕や肩が疲れるし、アブノーマルな趣味はわたしにはないのだから。
だから今わたしができるのは、ザカライアさんに対して言葉を駆使することくらいしかできない。そして言葉を駆使したあとは、じっくりと行動で示して行き、信頼を勝ち取るしかない。
この問題は、今すぐに対話のみでどうこうできるものだとは思えなかった。ならば、じっくりと腰を据えて地道に頑張って行くしかない。
「わたしは、正直に言いますとすぐにでもやめて欲しいです。でも、それができないのでしたら、少しずつやめて行けたらなと思っているんですが……ザカライアさんはどう思いますか?」
「そうだよね、嫌……だよね。……うん。できれば、やめたいけれど――」
「それに……その、縛られていると……わたし、ザカライアさんを抱きしめられないじゃないですか。わたしは、ザカライアさんを抱きしめたいです。……抱きしめさせてください」
ザカライアさんの返答の雲行きが怪しかったので、わたしは彼の心優しい部分につけ込むようなセリフを放った。実のところザカライアさんを最中に抱きしめたいだなんて、一度も思ったことはない。けれど、とにかく手首を縛るのをやめさせたいという一心から、わたしの口からそんなセリフが飛び出したのだった。
これは……ザカライアさんにはそれなりに効果があったらしい。ザカライアさんは目を泳がせたあと、またじっと手元のリボンを見つめた。
「そうだね……『夫婦』らしくする約束だから。約束、したから。……君が嫌がることは、やめるよ」
ザカライアさんにとっては、それは苦渋の決断だったかもしれない。けれどもわたしにとっては最高の答えだった。
わたしの脳内で勝利の旗がはためいた。ひとまず、「理想の夫婦」計画は一歩前進といったところである。わたしは心の中でぐっと握りこぶしを作った。
……その夜は、ザカライアさんは宣言通りわたしの手首を縛ったりはしなかった。けれども例の物騒なセリフは止まらなかった。その点は不満だが、この問題の解決は次回に持ち越したい。そう思いつつ、わたしはザカライアさんの背中に手を回したのだった。
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