TR-10 - Sittin' on a Fence [take 1]

 何故、こんなことになってしまったのだろう。


 さらりと口にする四文字言葉フォーレターワード、クールな言動。ヒップで中性的なファッションに、贅を尽くした頽廃的デカダンなライフスタイル。喇叭飲みするジャックダニエル、咥え煙草、そして麻薬ドラッグとセックス――時代後れなのは重々承知だが、一九六七年生まれのニール・ジョーンズにとってロックスターとは、やはりそういう存在だった。



 一九六七年、その反逆的なイメージを危険視されていたローリングストーンズのミック・ジャガーとキース・リチャーズが、サセックス州レッドランズにあったキースの自宅で、突然の家宅捜索により薬物の所持と使用で逮捕――しかもこの事件はMI5によるでっちあげであったらしい――されるよりずっと以前から、ロックは反体制側の音楽だった。

 ロックンロールの父と呼ばれるビル・ヘイリー&ザ・ヒズ・コメッツの〝Rock Aroundロック アラウンド the Clockザ クロック〟は、一九五五年の映画〈暴力教室Blackboard Jungle〉の主題歌になり、エルヴィス・プレスリーはおとなたちに眉をひそめられながらもセクシーに腰を揺らして歌い続けた。当時の人気番組エド・サリヴァン・ショーではエルヴィスの下半身が映されることはなく、ミックは〝Let's Spend theレッツ スペンド ザ Night Togetherナイト トゥゲザー〟の歌詞を一部変えて歌うことを要求され、カメラに向かって素っ惚けた表情で目をぐるぐると回してみせた。



 長期滞在向きな安ホテルの一室。片隅のTVは音をださずにつけっぱなしになっていて、今は子供向けのアニメかなにかをやっていた。その脇に無雑作に置かれたスマートフォンは、ずっと電源が切られたままだった。

 いつもは何冊も読んでいた雑誌もこのところまったく買っておらず、新聞も丸めて壁に投げつけたときのまま、床の上に放置されていた。解けて崩れ、まるで鳥の巣のようになった〈Daily Mailデイリー メール〉と〈The Sunザ サン〉の、皺の寄った紙面からは微かに『e Devee』という、特徴ある綴字スペリングの一部が読みとれた。

 世界中で絶大な人気を誇るロックバンド、ジー・デヴィール。

 そのジー・デヴィールがいま新聞で、雑誌で、TVでラジオで、そしてウェブ上のありとあらゆるサイトやSNSで世界中を騒がせ、叩かれているのは、ニールのちょっとした計算違いの所為だった。




       * * *




 五ヶ月ほど前――イギリス、マンチェスター。

 行きつけのパブで、ニールは上機嫌に二杯めのビールを注文した。滅多に注文しないリブアイステーキとチップス、オニオンリングの盛られた大皿をつつきながら、カウンターの上を悠然と歩いていく猫に手を伸ばし、そっと撫でる。このパブを棲家にしているブラウンタビーのトラヴィスは、ニールの指先に頭を擦りつけるようにして目を細めると、またカウンターの端に向かって歩いていった。他の客たちもトラヴィスがやってくるのを待っているので、に忙しいのだ。

 パイントグラスが差しだされ、ニールはそれをくいと呷ると満足げに息をついた。

 そのとき、からんからんとベルの音がして、店内に風が吹きこんだ。カウンターを闊歩していたトラヴィスがぴたりと動きを止め、入ってきた客に向かってにゃあと鳴く。

 ニールはトラヴィスをちらりと見はしたが、その客のほうには注意を向けなかった。が――

「やあ、ニール。久しぶりだな。しばらく見なかったじゃないか」

 声をかけられ、ニールはフォークにステーキを突き刺したまま振り返った。

「よお、ジェイク。相変わらずしけた面してやがんじゃねえか。かあちゃんとガキは元気か」

 そう云って、ニールはぱくりとステーキを頬張ると、声をかけてきた男の顔を見たままもぐもぐと咀嚼した。ジェイクは「ああ、うん」と曖昧な返事をし、ニールの隣の席に腰を下ろした。


 ジェイクは大学時代からの友人で、ニールと一緒に映画を作っていた仲間の一人だ。映画監督になることを目標にしていたニールは脚本、演出を得意としていて、ジェイクは撮影と映像編集担当だった。

 ニールたちの制作した映画はとある賞にノミネートされ、一行だけの褒め言葉と、その下にびっしりと書かれた辛辣な批評によって現実を突きつけられるという結果に終わった。ひとり、またひとりと減っていく人員や予算の問題で、夢は夢のまま諦めざるを得なくなり、ニールと僅かに残っていた仲間も解散、映画作りからは完全に手を引いた。

 そしてニールは雑誌記者、ジェイクはイベント会社という道へ進み、週末など、このパブで偶に顔を合わせるだけの付き合いが続いていた。


「まあ、元気さ。俺はで萎れてるがな」

「金欠病か。しゃあねえな、今日はおごってやるよ」

 ニールがそう云って追加の注文をすると、ジェイクはぱちぱちと目を瞬いた。

「なんだ、えらく気前がいいじゃないか……いつも俺の煙草を一本ずつ盗むくせに、ステーキまで食って。博奕バクチにでも勝ったのか?」

 ニールは声をあげて笑い、ああ、まったくそのとおりだと頷いた。

 あるファッション誌にメンバーの写真が掲載されたことをきっかけにブレイクし、今や世界中で人気を博している、ジー・デヴィール。そのジー・デヴィールのヨーロピアンツアーに同行し、密着してリハーサル風景や普段の様子などを撮影したのだと云うと、ジェイクは大層驚いたようだった。

「まじかよ、すごいじゃないか。……ああ、おまえんとこのかみさんは例の雑誌のお偉いさんだったっけか。くそっ、ラッキーだな」

「もうかみさんじゃねえ。元妻エクスワイフだ」

 ジェイクはルカとテディが載ったファッション誌の編集長がニールの元妻、エマであることからそのコネで撮影させてもらえたと思ったようだが、実際は逆だった。

 まだまったく売れていなかった彼らをみつけ、エマに紹介したのはニールだ。掲載された写真も偶々のスナップなどではなく、きちんとプロがコーディネイトし、メイクアップもしたうえで撮ったものだった。それを知り合いに頼み、SNSに投稿して拡散するよう煽ったのもニールの仕掛けたことである。しかし、自分が裏でそんなふうにバンドが売れるよう画策していたことは当然、誰にも云う気はなかった。

 それに、自分はちょっときっかけを作ってやっただけだ。その後セールスが順調で人気が安定しつつあるのはバンドが元々持っていたポテンシャルと、マネージャーであるロニーの手腕に因るものだろう。

 まあ、それもこれもやっぱり俺の耳が確かだったおかげだけどな、とニールはひとり悦に入り、ビールを呷った。

「で、その報酬で懐が暖かいわけか。羨ましいねえ。ちょっとおこぼれに与りたいもんだ」

「いんや、まだ経費として預かった金が少しあるだけさ。ついこのあいだツアーが終わったとこでよ、俺もこっちに戻ってきたばかりなんだ。まだまだ撮りためた映像をチェックしてる途中でな、とっととそれを済ませて編集しなきゃいけねえんだ。現実ほんとうにリッチになるのはこれからさ」

 ステーキを平らげ、グラスを空けながらニールが満足そうにそう云うと――

「やらせろ」

 と、ジェイクが喰いついてきた。

「俺にやらせろ。映像の編集はお手のもんだ、知ってるだろ。おまえにいくら入るのか知らないが、半分もよこせとは云わん……相場の報酬と、エンドロールに名前が刻まれるだけでいい。頼む、やらせてくれ」

 エンドロールに名前が刻まれるだけでいい――その気持ちは、ニールにもわかりすぎるほどよくわかった。

 餅は餅屋Every man to his tradeだ。すっかり任せる気にはならないが、自分ひとりでやるよりも手伝ってもらったほうが早く、良いものを作れるだろう――ニールが首を縦に振ったのは、実は金に困っていたらしいジェイクのためというわけではなく、偏に良い作品にしたいと考えた結果のことだった。





 嘗てエマと暮らしていたニールの住処は、マンチェスターではありふれたタウンハウスだった。どっちを向いてもずっと続いている赤煉瓦の長屋のなかのその一戸のポーチには、枯れ朽ちたまま放置されているテラコッタのプランターが、まるで目印のように置かれていた。

 部屋はずいぶんと散らかっていた。壁に掛けられたアートパネルやテーブルの真ん中にあるガラスの一輪挿しには埃が積もり、すっかり輝きを失っていた。モダンな柄のラグ、パリのカフェのような丸テーブルとチェアなど、ここにあるのはほぼすべてエマが選んだものだ。なにもかもが、ふたりで幸せに暮らしていた頃のままだった。あの頃と違うのはたったひとつ、仕事から帰宅した彼女がぶつぶつと文句を云いながら、部屋を片付けることがないという事実だけだ。

 いつも飲みながら眠ってしまう、ブランケットが置きっぱなしになったソファを横切り、ニールは奥の作業場になっている部屋へとジェイクを案内した。

 この部屋だけはそれほど散らかってはいなかった。入って左側の隅にはステレオコンポーネントシステムと、立て掛けられたギブソンのハミングバード、そして正面の壁には天井まで届きそうなシェルフが設えられていた。

 いちばん下の段はヴァイナル盤に合わせた奥行きと高さ、そして一段上はレーザーディスクと映画のパンフレットや本、雑誌――他にも、上に向かって薄くなっていく安定感のある造りの棚には、様々なメディアが隙間なく収められていた。8ミリビデオカセット、VHSビデオテープ、そしてCDやDVD。この部屋に詰まっているのはニールの人生、そのものだった。

 ジェイクはシェルフを見上げ、古いビデオテープやDVDのケースをじっと眺めた。ラベルにマーカーで書きなぐられた文字と、DVDのパッケージはそれらがすべて映画であることを示していた――〈The Bridge on戦場に The River Kwaiかける橋〉、〈Bonnie and Clyde俺たちに明日はない〉、〈The Third Man第三の男〉、〈Casablancaカサブランカ〉、〈12 Angry Men十二人の怒れる男〉、〈Psychoサイコ〉、〈Plein Soleil太陽がいっぱい〉、〈8 1/2〉……そんな誰もが知っているであろう名作を始め、まったく無名なタイトルまで数えきれないほどの映画コレクションがそこにあった。もっとも、ニールと同じく映画を作る側にまわりたかったジェイクにはそれほど驚くことでもなかったようで、彼は少し目を丸くしただけでこう云った。

「うちより多いな」

 ジェイクが驚いたのは、大きなデスクの上にあるPCのほうだった。最新型のMac・Proマック プロを見て、ジェイクは興奮気味に口笛を吹いた。

「すげえ、スペックは?」

「俺ぁよくわからねえが、いちばんいいやつにした」

「経費で買ったのか。さすが、な」

 リスニングポジションに置いたチェアをジェイクに勧め、自分はデスクチェアに坐ると、ニールは「さて」と話を始めた。共同で作業を始めるにあたって、先ず云っておかねばならないことがある――ニールは膝に両手を置き、大真面目な顔で話し始めた。

「いいかジェイク。今からおまえさんにも、この膨大な映像をチェックしてもらうが……こいつぁ、かなりの劇物だ。ストーンズの〈コックサッカー・ブルース〉を知ってるな?」

「あの発禁の映画だろ? もちろん知ってるが」

「このなかにはな、あんなふうなとんでもないもんが映ってる。だから、絶対にこれについての話を漏らすな。絶対だぞ。映画の公開前にそんなネタが流れたら台無しだからな。もちろん映像をコピーしたり、ここから持ちだしたりするのも厳禁だ。かみさんにもだぞ。絶対に口外するな。もしもちょっとでも漏らしやがったら、と脅かしたいところだが、もなしだ」

 俺ぁこいつに賭けてるんだ、と真剣な口調で念を押すと、ジェイクは少し困ったような顔で首を振った。

「そんなにやばい映像が入ってんなら、俺にどうこう云う前に消しちまえばよかったじゃないか」

 ニールは、おもむろに何度か首を縦に振ると、こう答えた。

「そりゃあもっともだ。だがな、そういうわけにもいかねえんだ……俺は、この映画をふたとおり作るつもりでいるんだ」



 〈コックサッカー・ブルース〉とは、ローリングストーンズの一九七二年の北米ツアーの様子を収めた、ドキュメンタリー映画である。

 プライベートジェットのなかでの乱痴気騒ぎ、素っ裸の女たち、ドラッグを使用しているシーン――初めは、そんな衝撃的なドキュメンタリー映画を意識していたわけでも、向こうを張ろうとしたわけでもなかった。

 だが撮影を続けているうち、ジー・デヴィールのツアーの舞台裏も似たような雰囲気になっていった。グルーピーを連れこんでの乱交こそなかったが、それはバンドの中心的存在であるヴォーカルのルカとベースのテディが同性愛の関係にあり、女性を必要としていなかったからという単純な理由に因るものだろう。その代わりにふたりの濃厚なキスシーン、テディとドラムのユーリ――彼もゲイだ――がじゃれ合っているシーン、そしてドラッグを摂取しているシーンなど、ふつうならとても使えそうにない、隠し撮った映像が増え始めた。

 そんな衝撃的なシーンを撮らずにはいられないのは、記者として沁み着いた性分なのかもしれなかったし、ニール自身もロックバンドのツアーという、非日常な雰囲気に毒されていた所為なのかもしれなかった。

 ――ニールは、そのある意味貴重なとんでもないシーンをカットしようという気になれなかった。

 そう、ローリングストーンズだけじゃない。レッドツェッペリン、ザ・フー、オアシス――程度の差こそあれ、みんなこんなふうだった。ロックってのはこういうものだったよなと、ニールは若かった頃の高揚感を甦らせた。

 そして、そんないかにもロックスターらしい頽廃的なシーンを無駄にすることなく、しかも公開停止などのペナルティも喰らうこともない、効果的に活かす方法を、ニールは思いついたのだ。



「ふたとおり?」

 ニールがなにを云いたいのかわからず、ジェイクは怪訝そうに眉をひそめた。

「ふたとおり、つまり、本当に公開できるバージョンと、発禁もののオリジナル、〈アンカットバージョン〉さ」

「……なんでそんなことをするんだ? 端から発禁になるとわかってるバージョンを作るなんて」

「ロックだからだよ」

 ニールは云った。「当たり前に公開して子供にも見せられるような映像なんて、なんの価値がある。そんなもんロックじゃねえだろ。そんな当たり障りのないもんが見たきゃ、TVショーでも視てりゃいい。俺は伝説になって、いつまでも語り継がれるようなもんが作りてえんだよ。だから、あいつらを仕切ってるねえちゃんが金庫にしまって絶対に世に出さないようなもんを、あえて作る。そんで、とても公開できたもんじゃねえ赤裸々な、頽廃的デカダンなロックスターの姿を収めた〈アンカットバージョン〉があるらしいって噂を真実ほんとか嘘かわからねえ程度に広めるんだ。ファンは公開されたバージョンを観て、妙にぶった切ったとこがあるから、やっぱり噂はほんとじゃねえかとかって盛りあがるわけさ」

「でも、公開しないんなら、わざわざほんとに制作まではしなくても」

「いんや。それじゃ嘘になっちまう。最初から見せられる部分だけ集めて作るのは、そりゃあ虚構だ。嘘もんさ。それじゃだめなんだ。でもよ、ちゃんと実際に存在はするが、発禁喰らうからカットしましたーってんならそりゃあ、嘘じゃねえ。それどころか、訳ありなシロモノだっていう曰くが付くのさ、そこに価値があるんだ。それに、二十年も経って落ち目になっちまえば公開される可能性だってなくはないしな。

 最近よく思ってるんだけどよ、今はSNSだのなんだのって、大スターやどっかの国の大統領までもが一般人に混じっていろいろ晒してるだろ? 王室もだ。ありゃあよくねえよ。なんでもかんでも明けっ広げに見せちまうなんて、スターのやるこっちゃねえ。スターってのはよ、なにかしら見せない部分、謎みてえな部分があったほうがいいんだよ」

 ニールの云うことに納得したのかどうか、ジェイクはこくこくと頷いただけで、特になにも云わなかった。


 ――そして約二ヶ月後。

 ジェイクとの共同作業は順調に進み、当初思っていたよりもずっと早くふたとおりのバージョンの仮編集が終わった。ニールにすれば完成と云ってもいいものだが、もちろんバンドの事務所サイドに試写を視てもらい、チェックを入れてもらわなければならない。

 そのため、ニールはコピーしたDVDディスク二枚を持って、プラハへと飛んだのだった。





 ――失敗だ。自分は間違ってしまった。失敗した。

 ニールは、血の通った人としての心をどこかに置き忘れていた自分を、ホテルに帰ってから深く反省していた。

 センセーショナルなシーンを余すところなく収めようとした所為だ。記録した映像をずっと視ているうち、ツアー中のあのハイな気分が甦ってきた所為もあったのかもしれない。まるで一九六九年か一九七二年にタイムスリップしたような、自分がショービズ界の大物にでもなったような気分でつい調子に乗って、やりすぎてしまった。

 試写は散々だった。子供の頃に遭った性的虐待の話を、酔ったテディがユーリに打ち明けていたシーン――あれだけは、外すべきだったのだ。

 テディ本人を始め、他のメンバーやチーフマネージャーのロニー、その場にいたスタッフたちは、ショックを隠せない様子で絶句していた。そして、テディの学生時代からの恋人であるというルカも、瞬きもできないほど凍りついていた。まさか彼までもがテディの過去を知らないなどとは、想像もしなかった。その可能性に気づいていたらいくらなんでもカットした、とニールは思ったが――しかし、なにをどう後悔してももう遅い。


 カレル橋から程近いところにあるホテルの、クラシックな趣のある一室で、ニールはこの世の終わりのような貌でソファに躰を沈めていた。持っていたピルスナーウルケルをくいと空け、ことんとテーブルに置く。テーブルの上にはもう七本ほどの小瓶が並んでいて、その脇にある灰皿も吸い殻で溢れかえっていた。

 ニールは、〈アンカットバージョン〉を先に上映した。当然、ロニーやバンドから批難されるとわかってのことだ。先ずその発禁間違いなしの作品を見せてから、自分の考えを語り、編集した公開できるバージョンをチェックしてもらうつもりだった――ところが、テディの件でそれどころではない騒ぎになってしまった。

 ユーリの拳をまともに一発喰らい、形の変わった左頬に貼ったガーゼを撫で擦りながら、ニールは深々と溜息をついた。

 テディは試写していた部屋から飛びだしていってしまい、ルカはそれを追いかけ、そしてユーリは誰よりも激昂していた。おそらく、あんな話をしていたところを撮られていたことに気づかなかった、自分に対しての怒りもあったのだろう。ニールは思いだして、はぁ、とまた重く息をつきつつ項垂れた。殺されるのではないかと思うほどの眼と拳になにも云えず、マレクとかいう大柄な男がユーリを羽交い締めにして止めてくれた隙に、這々ほうほうていで逃げるしかできなかった自分が情けない。

 ちゃんとロニーに話をして、あの発禁ものの映像とは別のバージョンがあるのだと説明をしなければならない――もちろん、問題のテディの話の部分もちゃんとカットすると。だが電話をかけてみても、なにやら他にも問題が起こっているらしく、ロニーはもういいとか今それどころじゃないとか云うばかりで、取り付く島もなかった。

 ほとぼりが冷めてからあらためて話をするしかない。そのあいだに、テディのあの問題のシーンだけはカットしてしまおう――そう思い、ニールはいったんプラハを離れ、マンチェスターへと戻った。





 マンチェスターの家に帰ると、どこかで張りこんででもいたかのようなタイミングでジェイクがやってきた。

 ニールは苦々しげな表情で、試写は失敗だったとだけ告げた。するとジェイクは驚き、焦った様子で声を荒げた。

「失敗ってなんだ、あの〈アンカットバージョン〉がやっぱりまずかったのか!? だから云ったろう、ほんとに作る必要まではないって……いや、そんなことはどうでもいい。どうなったんだ、編集しなおせばいいのか? まさかこのままおじゃんだとか云わねえよな?」

「や、落ち着けよジェイク……今あっちもなんかそれどころじゃないらしくてよ。で、ダメ出し喰らったとこだけちょこっと編集して、またあらためて行ってこようと思――」

「またあらためてっていつだ? ……なあニール。俺もこいつにかかりきりのあいだ、イベントのほうの仕事は蹴ってるんだよ。だからその……悪いが、そのぶんだけでも先にもらえないか。家を追いだされそうなんだ」

 しょうがないのでニールは、ロニーから預かったままの経費の残りをそっくり、ジェイクに渡した。


 その数日後。ニールはテーブル席に運ばれていくリブアイステーキを横目に、チキンバゲットサンドを注文した。いちばん安価で腹の膨れるそのサンドウィッチを平らげ、トラヴィスを撫でて店を出ると、そのとき見憶えのある番号から着信があった。ロニーだ。

「――ああ、もちろんさ。ちゃんとやる……その、すまんかった。今週中にでもまたそっちに……なんだって、イビサ?」

 再編集はもちろん、その進捗状況なども逐一連絡してほしいとの要求に、ニールはわかったと答えて電話を切った。なんでも、ロニーとバンドの面々は明日から二ヶ月ほどのあいだ、スペインのイビサ島に滞在するそうだ。次のアルバムの曲作りなどを、避寒も兼ねて集中してやるためらしい。スマートフォンをポケットに仕舞い、そのまま手を突っこんで歩きだすと、ニールは寒さに首を窄め、白い息を吐いた。

 とにかく、ロニーと話ができてよかった。帰ったら早速作業にかかるか……と思いながら、ニールはもう一度スマートフォンを取りだし、ジェイクの番号をコールした。

 しかし、彼は電話にはでなかった。

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