TR-06 - But Not for Me

 ロンドン、メイフェアにある贅を尽くした五つ星ホテル。そのなかにある落ち着いた雰囲気のバーに、ロニーはいた。

 熟成したワインのような深いボルドーを基調とした、格調高いインテリア。会話の邪魔にならぬ程度、しかし余計な雑音は消し去るくらいの絶妙な音量で流れるイージーリスニング。そのラグジュアリーなムードに見合うよう、普段よりもかなり奮発した――ブリットアワードのために新調したハイブランドの――フェミニンなスーツに身を包んだロニーは、スツールに腰掛けて組んだ脚を深いスリットから惜しげも無く覗かせていた。履いているハイヒールがフェラガモと一目でわかるヴァラと呼ばれるリボンが、まるで蝶がとまっているかのように足先を飾っている。

 タキシードにボウタイという正装のバーテンダーがグラスを差しだす。ロニーはそれを手に取ると、まるで苦いシロップ薬でも飲むかのような、色気もなにもない仕種でくいと呷った。流しこまれた液体が喉をちりちりと焼いていく感覚にふぅーっと息をつき、カウンターに頬杖をつく。少しスツールを回してちらりちらりと目につく二人連れの客たちを眺め、ロニーはつまらなそうに唇を尖らせた。


 ブリットアワードに出席し、ジー・デヴィールはインターナショナルグループ部門でめでたくトロフィーを獲得した。明日はそれに伴った音楽雑誌などの取材があるため、今夜はこうしてロンドンに宿泊しているのだが――ルカとテディはふたりして部屋に籠もったまま出てこないし、ジェシもエリーとなにやら学生のような微笑ましさでずっといちゃいちゃしているし、ドリューも知りあった新人女優とデートだとか云って、思いきりお洒落をして出かけてしまった。

 今回は同行していないが、ターニャとマレクも結婚を控えているという幸せ真っ盛りな時期だ。冬が終わるのはまだもう少し先だというのに、ポムグラネイト・レコーズは既に春爛漫だった。

 しょうがないのでユーリでも誘って飲もうと思い部屋を訪ねたのだが、いつの間にか出かけていたらしく、応答はなかった。つまり、せっかくこんなゴージャスなホテルに部屋をとったというのに、今夜は一緒に過ごす相手がいないということだ――否、意味ではないけれど。まだ眠るには早いこの時間、バーで飲むにしても部屋で過ごすにしても、独り。これまでバンドもスタッフも揃って賑やかに過ごすことが多かった所為か、なんだか皆が自分のことを忘れて置き去りにしていったようで、せっかく喜ばしいことがあったというのに気分は沈み気味だった。

 せめて、あなたがいなくて寂しいわ、と電話でもかける相手がいればいいのだが――。


「……ふん、だ。いいもん、いいもん、私には仕事があるんだから……」

 自分の春はいったいいつから来ていないのだろうと、ふと思う。少し考えて、レーベルを起ちあげる前まで遡らなければならないことに気づくと、ロニーは自分が憐れになった。――四年以上は経っている。

「嘘でしょ……、いくらなんでもちょっとやばくない……?」

 薔薇の花のようなスモークサーモンのカナッペを摘まみ、ロニーは勢いよくグラスを傾けた。からん、と氷が粋な音を響かせる。自棄酒には少々贅沢過ぎるバーだが、飲まなきゃやっていられない。かまうものか。どうせ経費だ。

 事務所の人手を増やして、自分の時間をもっと作らないといけないな、とロニーは思った。このまま仕事にだけ生きて年老いていくなんて、いくら成功の代償だとしてもそれはあんまりではないか。自分だけではない。ターニャも結婚することだし、仕事量を調節し、給料は上げてやらなければいけない。新たに役職を設けるのがいいだろう。そうして自分の仕事を少し任せれば――そんなことを考えながら、ふとこれも仕事の延長のようなものだと気づいて少々げんなりする。

 頭のほうを仕事から引き離さないと、どんな場所でどんなお洒落をして過ごしていてもだめだわと、ロニーはグラスに残っていた琥珀色の液体を一息に飲み干した。

「――こんばんは……ここに坐っても?」

 空にしたグラスを両手に包み、何の気なしに見つめていると、突然そんな声が降ってきた。ロニーは声のしたほうを向き――その顔を一目見た瞬間、ぽーっと頬に熱が集まるのを感じた。

「え、ええ、どうぞ……」

 自分を見つめている、その涼しげな瞳。厭味のない微笑み。品のいいダークブルーの三つ揃えスリーピースを着熟した、まるで銀幕スクリーンから抜け出てきたかのようなハンサムな男がそこにいた。

 ロニーは慌てて組んでいた脚を下ろし、坐り直すような仕種で背筋を伸ばした。男が隣の席に腰を下ろし、グラスを磨いていたバーテンダーがさりげなく前に立つ。

「グラスが乾いてるね……僕も同じものを頼むついでに奢らせてもらいたいんだが、かまわないかな。これは?」

 ロニーが両手に包んだグラスをそのままぎゅっと隠すようにしながら、「こ、これは……ハ、ハーフアンドハ――」と云いかけたところで、バーテンダーが代わりに答えた。

「こちら、山崎18年でございます」

 それを聞いて、男は少し驚いたのか目を丸くし、ロニーは降参をするようにグラスから離した手をあげた。

「そりゃまたずいぶん渋い……じゃあ、僕もそれを。君はロックか、僕はストレートで」

「かしこまりました。チェイサーは如何いたしましょう」

「水で」

 慣れた様子で男がそう答えるのを、ロニーはなんとも云えない表情でちらりと見た。

 ――ばかばかばか、どうしてハーフ&ハーフだなんて嘘をつこうとしたの私。かえってかっこ悪くなっちゃったじゃないの……っていうか、なにこの人、超弩級の男前じゃない! 歳は少し上っぽいけれど……そうね、三十代後半くらいかしら。ああでもそれなら男盛りってやつよね……着ているスーツもいいし、袖からちらりと見えてるあの腕時計のフォルムはパテックフィリップだわ!

 チャンスよ、これはチャンスだわロニー。今日の私は最高の服を着て最高の靴を履いて、これ以上ないくらいにいるし、髪のセットだってまだ崩れてはいないはず。こんなチャンスは滅多にないわ、捕まえるのよ、捕まえなきゃ……ええと、どうやるんだっけ。そうだ、飲みながらいい感じに会話して、頃合いを見て酔ったふりをするのよ。間違っても相手を先に酔わせちゃだめよ、今まで何度それで失敗したことか……。今度こそ巧くやるわ、絶対この男前を落としてやる……!

 心のなかでそう気合を入れると、ロニーはとっておきのいい女オーラを纏う微笑みを貼り付けてグラスを掲げ、乾杯に応えた。





「――じゃあ、子供の頃は弁護士になりたかったんだね。それは、憧れで終わってしまったの?」

「まあ、まだ子供の頃の話だけど……でも自分ではけっこう真剣な決心のつもりだったのよ。だけどそれを親に云ったら、犯罪者の味方なんかなにがいいのかさっぱりって云われて、まったく相手にされなかったの」

 何故か、話はロニーが子供の頃に憧れた職業の話になっていた。

 初めは確か、ロンドンへは仕事でよく来るんだと云った男に、さりげなくなんの仕事をしているのかと尋ねたはずだったのだが――なにがどうしてこうなったのか、男の仕事どころか名前さえも聞けないまま、自分のほうがあれこれ訊かれている状態だった。

「まあ単純に、犯罪者かもしれない人間と密接に関わり合う仕事っていうのが心配だったのかもしれないね。きっと君は、子供の頃からとても魅力的なお嬢さんだったろうから」

 あれこれ訊かれるといっても、別に根掘り葉掘りという感じでもなく、厭な気はしなかった。男は頗る聞き上手だった。会話のなかにさりげなく女心を擽るような言葉を織り交ぜ、次第に愚痴混じりになるロニーの話に、まったくつまらなそうにすることなく頷いた。

「でも、それでもう法律家への道は諦めたの?」

「ううん、私、成績は良かったし、ロー・スクールに合格すれば親も諦めて認めてくれるんじゃないかと思って、しばらくは勉強してたんだけど……途中でちょっと劇的なシーンに遭っちゃって。今度は医者になりたくなったの」

「へえ? 劇的って、どんな?」

「まあドラマなんかだとよくある話よ。バス停で倒れた人がいて、その場に偶々居合わせた医療関係の人たちふたりが呼吸や脈を確認したり、心臓マッサージを始めたり……すごく迅速で、でも落ち着いてて……見事な連携でずっと目が離せなかった。でね、その倒れた人、けっこう危なかったらしいんだけど、処置が早かったおかげで救かったって、その日の夕方TVのニュースで視たの。それであらためて感動して、私にもできるかなあって……単純でしょ?」

「それだけ君の心に響いた出来事だったんだろう。じゃあ、ロー・スクールじゃなくて医学のほうに?」

 そう云いながら、男は「ちょっと失礼」とポケットからスマートフォンを取りだした。Eメールでも届いたのだろうか、男は暫しのあいだ眩しい光を発する画面を眺め、タップしてなにか文字を打つと、指を鳴らしてバーテンダーを呼んだ。

 すぐに近寄ってきたバーテンダーに、男は画面を見せ、なにやら尋ねていた。

「かしこまりました」

「頼む」

 ロニーはその端正な横顔を見つめ、思った――スーツといい腕時計といい、話し方や仕種といい、なんて素敵な男性なのだろう。爪の先まで清潔に手入れされている細い指も、ぺたりとしすぎない程度に撫でつけられた淡いブラウンの髪も、まったく完璧だった。はぁ、とうっとりしつつロニーが見つめていると、男も気づいてかふと見つめ返し、微笑んだ。

 ――まるで初めて恋をした少女のように、ロニーの頬が薔薇色に染まる。

「ごめん、話の腰を折っちゃったね。……医学のほうには結局、進まなかったの?」

 そうだ、そういえばそんな話をしていたのだったと、ロニーは我に返ったように話の続きに戻った。

「ええ、それも親に反対されてね……立派な仕事だけど、おまえがやらなきゃいけないことか? なんて云われて。感染のリスクがあるとか、ミスして訴えられると大変だとか、そんなことばっかり。だったら、と思って心理学や精神病理のほう目指して勉強を始めたの。でもそれもそのうち、なんで頭のおかしな患者を相手にするような仕事がしたいんだとか、酷いことを云われるようになって……それで私、もうなにをやろうとしてもケチつけられるんだ、もう知らないって、なにもかも嫌になっちゃって」

 新たに差しだされたグラスを片手に、男は眉をひそめ、ゆるゆると首を横に振った。

「そりゃあ嫌にもなるな。わかるよ、行きたい道を次々と通せんぼされたみたいで、途方に暮れてしまったんだね」

「そんな感じ……。それで私、すっかり怠けてしまったの。勉強もなんにもやる気がしなくなってしまって、ただごろごろTVを視たりして過ごすようになったの。頑張ったってしょうがないって思っても、無理もないでしょ? そしたら、親がね……なんて云ったと思う? 毎日毎日勉強もしないでなにをしてるんだ、だらしない、ですって! ふざけないでよって、とうとう私そこでブチ切れちゃったの。片っ端から私のやる気を奪っておいて、この人たちはいったいなにを云ってるんだって思ったわ。……で、家を出たの」

 肩を竦め、おどけたような笑みを浮かべながら、ロニーはからからとグラスを回した。ノスタルジックな淡いオレンジの光を氷が散らし、きらきらと琥珀色の液体に溶ける。

「……いくつのときに?」

「十九……になる少し前だったわ」

「ちなみにどこに住んでて、どこまで行ったのか訊いてもいい?」

「家はスプリトよ」

「スプリト……クロアチアの?」

「ええそう。スプリトから、なけなしの貯金と入るだけ荷物を詰めたバッグだけ持って、とりあえずザグレブまで行ったの」

「……どうして家出すると、皆決まって都会のほうへ行こうとするんだろうね。けっこう田舎のほうが暮らしやすいのに」

「田舎にうんざりしてるからじゃないかしら。で、ザグレブでアルバイトをみつけて、ちょっとのあいだ暮らしてたんだけど……そこへ親が迎えに来て」

「仕事場からばれちゃった?」

「そう。で、散々説教されて、翌日一緒にスプリトに帰るって云われたんで――」

「……夜中に逃げた?」

 ふふっと笑ってロニーはグラスを空けた。男も倣うようにグラスを傾け、そのままバーテンダーに合図を送った。

 ずっとこんなふうにペースを合わせて飲んでいる男に、ロニーはますます惚れこんだ。――お酒が強くて、女に注文させない気配りができるなんて、今までこんな人いなかった! なんて最高な男なの――。

「……ええ、ウィーンまで行ったの。長距離バスでね。でも、直通であまりにも簡単に辿り着いちゃったから、ここじゃだめだと思ったのね。それに言葉も通じなかったし。それでブラチスラヴァへ行こうか、それともブルノまで行っちゃおうかって迷って、チェコだったらいっそのことってプラハまで行ったのよ。チェコなら言葉もクロアチア語と似ててけっこう通じたし、暮らしていけると思ったの」

「……なるほど。それでプラハに」

 口許に笑みを湛え、男がロニーを見つめる。ロニーも身の上話などして緊張が解けていたからか、素の表情でにこっと笑った。

「やりたいことをやらせてもらえなくてなかなか大変だったみたいだけど、でも、そうやっていろいろ齧ってきた知識は、今の仕事にもけっこう役に立ってるんじゃない?」

 思いがけずそんなことを云われ、ロニーは目をぱちりと丸く見開いて、じっと男の顔を見た。

「え……ええ、そうね。そうかも。法律はきちんと学んだわけじゃないけど、相手が要求してきたことが正当かおかしいかくらいはわかるし、あんまり喋らない子の本心を読むのも、ある程度材料があれば……」

「ああ……うん、なかなか肚のなかを見せない奴の扱いは大変だな……。でも、君はしっかりやれてると思うよ。今までに勉強してきたいろいろなことも、無駄じゃなかった。君は本当によくやっているよ。君にだったら、これからもみんな安心してついてくるはずさ。自信を持っていい」

「……初めて云われたわ、そんなこと」

 ロニーは安堵感と嬉しさから、思わず目頭が熱くなるのを感じた。


 プラハで暮らし始めてしばらくして、偶々英語のできる人手に困っていたレコード会社が、自分を雇ってくれた。今でも思う。あれはラッキーな出来事だった。そして、ストリートライヴをやっていたルカたちをみつけたあの日からは、ずっと必死に、がむしゃらにやってきた。

 ルカたちバンドは世界に認められたけれど、ロニー個人としては特に誰かに認められたり、そやされることも労をねぎらってもらうこともなかった。苦労に見合う以上の報酬は得たが、それだけだ。眠っている時間以外はずっと仕事に費やして、気がつけばおやすみを云いあう恋人もいない。

 そんなことをふと考えてしまい、ロニーは思わず滲んだ涙をさりげなく指で拭いながら、それをごまかすようにグラスを呷った。――嬉しかった。今までのことは無駄じゃない、君は間違っていない、よくやってきたと誰かに認められることが、こんなにも自分のなかで凝り固まったなにかを解してくれるなんて、まったく知らなかった。初めてだった。なにか暖かいものが、自分のなかにひたひたと満ちていくような気がした。

 ――だから、バーで少し話しただけの男が、何故そこまで云えるのかと疑問を感じたりはしなかった。





 そして仕事の話から切り替えて、男が行ったことがあるという西アフリカやインドの話なども雑えてたわいも無い会話を楽しみながら、揃って何杯めかのグラスを空けた頃。ロニーはからからとグラスを弄び、ぼうっとそれを見つめていた。さすがに酔いが廻ってきたのを感じはじめ、ああそうだ、酔ったふりをしなくちゃ……と、のことを思いだした。

 ――そろそろよ、ロニー。ちょっと飲みすぎちゃった、って甘えて撓垂れ掛かっちゃうのよ。そして部屋まで送ってもらうか、正体を失くしたふりをして彼の部屋に連れこんでもらうのよ! 大丈夫、この人はやることだけやって逃げたりするようなタイプじゃないわ。話をしていてとても楽しかったし、聞き上手だし仕事もできそうだし確実にお金持ちだし、真面目そうだし……。さえ作ってしまえば、そのまま真剣なおつきあいに発展するはず……!

「はぁ……、ちょっと、酔っちゃったみたい……」

 そう云ってロニーは男のいる側に頬杖をついて、ぐったりとカウンターに凭れかかった。すると男は、ぱちんと指を鳴らしてバーテンダーの注意を引き「こちらに水を」と頼んでくれた。その気配りや洗練された仕種に、またきゅんとくる。ロニーは差しだされた水をひとくち飲み、そして溜息とともに云った。

「ありがとう……、あなたとお話するのが楽しすぎて、ついお酒が進みすぎてしまったのね」

「じゃあ、今夜はもうお開きだね。大丈夫? 部屋まで送ろうか」

「ええ、そうね……おねがいしようかしら」

 やった! と心のなかでガッツポーズをし、ロニーはくるりとスツールを回して男の腕に掴まった。が、そのとき――

「おっと失礼、ちょっと待って」

 微かに低い振動音が聞こえ、男がポケットからスマートフォンを取りだした。小さな画面の発する光が、男のブルーヘイゼルの瞳を美しく照らしだす。一瞬見蕩れ、そして何気無く視線を落とし――ロニーは、その画面に記された文字を見てしまった。



My Luv愛しい人



 ――ほろ酔い気分も、この最高の男前をゲットするぞという気合もなにもかも、一気に冷めた。なんだ、いるんだ……そうよね、これだけ素敵な人なんだもの、いないほうがおかしいわよね……と、ロニーはそう思い――あれ、じゃあなに? この人はちゃんとそういう相手がいるのに、浮気して遊ぼうと思って私の隣に坐ったってこと? と、機嫌が急降下した。

 冗談じゃないわ、そんなふうにお手軽な感じに見られてたなんて、頭にきちゃう。まったく、恰好良いと思っても男ってみんなこうなんだから。ふん、期待した私が莫迦だったわ。そうよね、いい男はもうすっかりソールドアウトなのよ、わかってたわよそんなこと――

 ロニーは男の腕にそっと触れていた手を離し、すくっと立ちあがった。

 気にしてないわ、平気よ。私には世界的な人気を誇るバンドのマネージメントっていう、立派な仕事があるんだもの。もう、仕事が恋人でいいわ。何処の誰よりも幸せなんだから!

 通話中のスマートフォンを手で押さえ振り返った男に、ロニーはにっこりと微笑んでみせた。

「悪いね、もう切るからちょっと待――」

「いいのよ、ごゆっくり。……ごちそうさま、楽しかったわ。ひとりで戻れるから気にしないで」

 そう云ってロニーは、スマートフォン片手に自分を引き留める男に背を向け、かつかつとヒールの足音を響かせてバーを後にした。




       * * *




「――まったく、あとでこっちからかけるって云ったのに。……そんなに気になるなら、今度プラハまで行くかい? ……ああ、君の強情さをわかったうえで云ってるのさ――大丈夫だよ、なにも心配いらない。少し話したけど、真面目で真っ直ぐな、とってもいい人だった。……ああ、俺が云うんだ、間違いないだろ? だから、ルカのことは任せておいて大丈夫だよ――」

 心配そうに何度も念を押す声に、男はそう宥めるように答えて電話を切った。

 眼の前できゅっきゅっとグラスを磨いているバーテンダーとなんとなく目が合い、苦笑を漏らす。

「いや……しかし、参ったね。まさかロックで七杯も飲んで、ああもしゃんとしたまま帰られるとは思ってもみなかったな。危うく潰されるところだった――ありがとう。おかげで無事が済んだ」

「初めは驚きましたよ。女性にだけ飲ませて、いったいどうなさるおつもりなのかと」

「ふっ、君が想像したようなことをするつもりなら、こんな常宿は選ばないさ」

 男がそう云うと、バーテンダーは意味深な笑みを浮かべた。

「余所ではなさっているように聞こえますよ、ブランデンブルクさま。ところで、おかわりになさいますか? を、ストレートで」

「もう部屋に戻って寝るだけだ、ビールをもらうよ。ああ、がまだだった」

 男――クリスティアンはそう云ってジャケットのポケットに突っこんでいた手を出し、指に挟んだチップというには些か多いさつ数枚をカウンターの上で滑らせた。そして、きっちりと締められていたタイを緩め――ついさっきまでロニーに向けていたのとはまったく違う、ニヒルな笑みを浮かべた。









◎𝖡𝖮𝖭𝖴𝖲 𝖣𝖨𝖲𝖢/ 𝖳𝖱-𝟢𝟨 - 𝖡𝗎𝗍 𝖭𝗈𝗍 𝖿𝗈𝗋 𝖬𝖾

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