第10章 暗黒の誕生日

第1話 預けられた大型犬


 安齋は、いつもなら七時過ぎには出勤をしている。しかしなぜか、今朝は悠長に構えている節があった。田口は早く職場に行きたかった。保住の顔が見たいからだ。一人で歩いて行くと言っても、安齋が阻止するかのように文句をつけてくる。制約ばかりの生活に苛立ちが募っていた。


 土曜日の夜に安齋宅にやってきた田口。企画の立案をせよ、という指令の元に話し合いを重ねていたが、いつもにも増して彼との意見の相違が壁となり、話は一向に進まなかった。

 当初の見立てでは、週明けには企画の初案ができるであろうと思っていた田口は、焦燥感に駆られていたのだ。


 腰の重い安齋を急かし、やっとの思いで出勤をすると、すでに保住の姿はなく、大堀が浮かない顔でそこに座っていた。


「おはよう」


「あ、田口」


 彼はどことなしかよそよそしい。不可思議に思いながら座ると、観光課長の佐々川が顔を出した。


「保住はいるか」


「おはようございます。室長は既に副市長室へ向かいました」


「そうか。出遅れたようだな」


 彼は頭をかく。田口はその手を見て首を傾げた。


「佐々川課長。手、どうされたんですか」


「え、いや。これはさ。ドジしたんだよ。そうだ、ドジだよ、ドジ」


 彼は疑問の残る様な曖昧な返答を繰り返しながら、廊下に出て行った。


「佐々川課長、元気そうでよかったね」


「大堀、なにか知っているのか?」


 田口の問いに大堀は口元を押さえた。安齋は呆れた顔をして大堀を嗜めるように見ている。


 ——なにかおかしい。やはりおれの知らないなにかがあったんだ。しかもそれは、佐々川課長の怪我と関連しているということか。月曜日の朝一から澤井さんのところだなんて。


 なんとなく自分のデスク周りが綺麗すぎるのも気になった。土曜日の出勤を控えただけで、まるで浦島太郎のようだ。腑に落ちない。そんな気持ちのまま仕事に身が入るはずもなかった。



***



「いやいやどうもすみませんね。どうにも鎮痛剤を飲むと眠くなるたちでして、寝坊ですよ」


 今回の一番の被害者である佐々川が顔を出して、本日の会合のメンバーが揃った。


 この部屋の主、澤井が部屋の中を見渡す。澤井の後ろには、副市長付き秘書課の天沼。応接セットには、市長私設秘書のまき。財務部長の吉岡。人事課職員の根津。観光課長の佐々川。そして保住がいた。


「さて、先日のくだらない子供染みた案件についてだが」


 澤井の視線を受けて、天沼が口を開く。


「二日前の十七時過ぎ。市制100周年記念事業推進室において、書類に刃物が混入されるという事件が起きました。被害者は観光課の佐々川課長ですが、そもそもは、推進室職員田口のデスクが現場です。佐々川課長は三針を縫う怪我です。当時、現場に居合わせたのは、被害者である佐々川課長、保住室長、推進室職員の安齋と大堀です。

 副市長と私は、保住室長からの電話で駆けつけました。その後、吉岡部長がいらっしゃいました。人事課の根津さんは佐々川課長の通院先へ駆けつけた——以上になります」


 天沼の説明に、槇が声を上げた。


「澤井さん。これは市長への攻撃ですか? 100周年記念事業を潰したいやからでは」


「槇さん。そう慌てることはない。この件に関しては複数の動機が予測できるのだからな」


「事業を潰したいのか? それとも、田口くん個人への恨みなのか——ということですよね」


 吉岡は考え込んでいる仕草を見せながら呟いた。


「そうだ。なにせ犯人の目的が不明確だ。事業潰しが目的であれば、おれや市長への攻撃ともとれるが、純粋に田口個人への恨みという線も捨てがたい」


 槇は不愉快そうな顔をした。


「この選挙前の大事な時期に。迷惑千万だ」


「だからだろう? だがしかし。それにしてはやり口が姑息で幼いとは思わないか」


「確かに。カミソリを仕込むなど、中学生のいじめですね」


 槇は相当苛立っている様子だ。それもそのはずだ。十一月に控えている市長選前の大事な時期だ。どんな些細なことでも神経質にならない訳にはいかない。なにせ安田は続投が絶望的と言われているからだ。


「事業潰しであるならば、田口くん以外の職員の身も心配だね」


 吉岡の意見に澤井は保住を見る。


「大堀は実家暮らしだと聞いている。安齋は田口に張り付かせているが、それで両者の身の安全が確保される。お前は実家に帰れよ。なんならおれの家に来るか?」


 実家に帰るなど、考えただけでも不便で迷惑な話だ。不本意ではあるが、ここで否定しても仕方がない。保住はその件を無視して話題を変える。


「——なにはともあれ、これで終わりなのか、これが始まりなのか。様々な可能性を含めて検討をしなければなりません。市役所内の事件です。外部の者の犯行の可能性は極めて低いです」


 保住はそう言い切る。ここにいる者全てが同意見なのであろう。誰からも反論は出なかった。


「それぞれに憶測はあるだろうが、先入観はよくない。まあ、もう少し経過を見ていくことにしようではないか。月曜の朝から時間を取らせた。それぞれ業務に戻るように。それから、くれぐれも他言無用だ。いいな」


 この場を治めるような澤井の発言に、一同は散会した。しかし副市長室を退室しようとした保住を澤井が呼んだ。



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