第116話 グリーンメイル・グリーンソード(2)
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……目の前にいる無数の人々が、あたしに向かって拍手を送る。
女の人も男の人も、老若男女問わず、みんな拍手を送る。
そんな中、あたしはお父さんとお母さんに挟まれる。当時、6歳のあたしが。
「誕生日おめでとう!麻沙美ちゃん!」「おめでとう!」
「誕生日おめでとうございます!」「娘さん!おめでとう!」
四方八方から、あたしを祝う言葉が聞こえる。そう、これだけの人々があたしを祝うため『だけ』に集まっている。
2人の人脈を持ってして、隠してこれだけの人々が集まった。
あたしはまだ、小学校にも通っていない子供なのに。出来ないことの方が多いのに。気の利いた言葉ですら、何も言えないのに。
でも、それでもあたしは『嬉しい』と、ニコニコ笑顔を浮かべながら『嘘』をついた。
本当は申し訳ない気持ちの方が勝っていたのに、だって、『見ず知らずの子供をお祝いしてくれ』と言われても、普通の人間なら困るだろうに、それでも集まってくれたのだから。
あたしはキャビンアテンダントのお母さんと、市議会議員のお父さんの間に生まれた。自分で言うのもなんだが、なかなかない血筋だと思う。
でも……いや、だからこそ、お母さんとお父さんはあたしに『善意』を注がずにはいられなかったのだろう。
それが、たまらなく嫌だった。それが、たまらなく憂鬱だった。
小学校に上がってからも、あたしは特別だった。
ランドセルはオーダーメイドの特注品。靴も運動シューズもどちらもオーダーメイド。給食がない日は弁当を持参するのだが、その弁当も特別。一流の料理人が作った、一流の弁当。
普段食べている給食は、とてもおいしかった……のだが、
「普通の小学生の給食なんて、舌に合うの?」
と、先生にまで言われる始末だった。
当然、ランドセル、靴、運動シューズ、弁当……すべてがお母さんの善意によるもの。あたしに対する善意。それだけしかなかった。
だからこそ……あたしの思いとはかけ離れていった。
「お前はいつだって特別なんだろ?羨ましいなぁ」
目の前にいる男の子が話しかけてくる。
「いや、そんなことないよ。あたしだって、みんなと一緒に遊びたいもん」
これは嘘ではなく本心だった。でも……
「ダメだよ。麻沙美ちゃんの靴、汚れたら大変じゃん」
「そーだよ!あれ確か高い靴なんでしょ?大変だもん!」
みんながあたしと、普通に遊ぶと言うことですら拒む。
あたしの中では、それが普通になり始めていた。だからこそ、家に帰ったら……
「今日も友達と一緒に遊んだんだ!」
と、嘘をつく。誰もこれが『嘘』だなんて気付かなかった。
それもそうだ。小学生であるあたしが、友達と遊んだなんて嘘はつかない。そう、お父さんもお母さんもタカをくくっていたからだ。
こんな風にあたしは、昔からお母さんの『善意』をたっぷりと受けて、育ってきた。
旅行で、いろんな国にも行った。色んな思い出も作った。
色々な料理も食べた。色々な経験もした。そのたびに……
「すごい!色んな所に行ってるんだね!羨ましい!」
最初こそこのように反応してくれる人もいたが、次第に反応してくれる人はいなくなってきた。それもそうだ。
おいしい牛肉も、3日連続で食べれば飽きる。ものすごく顔のいい俳優も、毎日毎時間見続けていれば見飽きる。
……気が付くと、あたしの周りには誰も寄り付かなくなっていた。
まるであたしのことを、届かない位置にあってしかるべき雲のように、遠くから見つめる人々。
だが、お母さんを責めることは決してできない。お母さんの明確な悪意ではなく、明確な善意の上の結果がこうなのだから。だが……
だが、なんだろう。この空虚感は。
そんな生活が続いて、小学校4年の時の三者面談の時だ。
「麻沙美は完璧です。ワタシ自慢の娘ですわ」
と、お母さんが言う。それは本心だろう。このころのあたしは、勉強も出来れば運動も出来た。
当然、それもあたしのためを思ったお母さんの働きによるもの。あたし専属の家庭教師が付きっ切りで教えてくれるし、あたし専属のトレーナーが運動も教えてくれる。
靴が汚れるかもと言ったら体育の時間用の靴ですらオーダーメイドで作ってくれた。
何もかも、何もかもを妥協せずに作り上げられた。それがあたし……緑川 麻沙美と言う人間だ。
だが、もう遅い。あたしの周りには誰もいないし、あたしを見つけてくれる人も誰もいない。結果的にあたしはひとりぼっち。あたしを疎む人も、うらやむ人もいない。
「確かに通知表も素晴らしいですね。あなたが完璧と言いたくなるのもわかります。ですが……」
先生がある紙を取り出す。
「{将来の夢}の欄に何も書いていないのが少し気になります」
「あらあら、麻沙美とそう言った話は一切しないもので……申し訳ありません。……麻沙美は何になりたいのですか?」
お母さんが純粋無垢な顔をこちらに向けてくる。混じりっけのない、『善意』たっぷりな顔。
……あたしが、一番苦手な顔だった。
「あたし……あたしは……特別な何かになりたい」
だから、あたしはこういった言葉を口走った。
すでに特別で、お母さんは満足をさせているつもりだったのだろう。だが、あたしは違う。という事を母さんに示そうとした。
示せた……つもりだった。
「特別……?あらあら、あなたは自慢の娘ですよ。それで何の不自由があるのですか?」
まるでお母さんには効いていなかった。それどころか、また『善意たっぷりの笑顔』をあたしに向ける。
自慢の娘?その言葉は嬉しい。不自由?あるはずがない。生まれるはずもない。なにせ、他の人から見ればあたしは満ち足りているのだから。
でも……実際には満ち足りている。と言うことから遠い状態だった。
だが……
「う、うん。不自由なんて……ないよ」
またあたしは嘘をついた。それで自分自身の存在を守ろうとした。いや、それでしか守れないと思った。
だから、あたしには……嘘が最大の武器で、嘘が最大の防具で。あまりに不安定な人間、緑川 麻沙美は、この時点で完成していた。
それからさらに時は流れ、中学校に入ってからは、お母さんは仕事が忙しくなり、ほとんど家に帰らなくなった。それでも、お父さんはお母さんの考えを継いでいた。
お母さんとまでは行かないが、あたしを叱ることはほとんどなかった。
「ただいま……」
そしてあたしは、化けの皮が剥がれだした。
無理矢理に頭を良くさせられた家庭教師は中学校に上がる際に解任され、トレーナーもいなくなった。その結果が……これだ。
平均点程度しか取れないテストの成績。平均的な運動神経。出来ていた小学校の頃の反動からすれば、大きくマイナスになっているくらいだ。
そんなあたしを見たお父さんは……
「それでもいいじゃないか。お前の努力だろう?私は何も言わないよ。ひなちゃんが知ったらどうなるかは……わからないけどね」
やっぱり叱らなかった。それも、お母さんから受け継いだ『善意』の上なのだろう。だからこそあたしは、余計に追い込まれてしまう。
小学校の頃は高嶺の花で近付かなかった他の生徒たちが、今度は路傍の石となった状態で、誰も見向きもしない。
特別に普通で、最高に普通で、とにかく普通。そんなあたしは……
この中学生活をそれなりに楽しいと思えてしまった。
作られた『特別』より、自分でつかみ取った『普通』の方がいい。そう思っていた。
……だが、それも『嘘』に変わった。
「じゃあ、また明日ねー」
「うん、バイバーイ!」
目の前で、楽しそうに別れを告げている女の子2人。あたしはというと……そんな風に別れを告げる相手が誰1人いない。相手に向かって手を振ることも、『またね』と手を振る相手自体もいない。
いつもやることは同じ。茜色に染まった空の下、1人でトボトボと帰ってきて、カードキーでオートロックを解除して、そして自分の家に帰る。
「お帰り、麻沙美」
玄関先で出迎えるお父さんの顔が、いつもいつもあたしに影を落とす。また、言わないといけないのか。
「今日は学校はどうだった?」
「うん。今日も楽しかった。友達の佐藤がね……」
そう、『嘘』と言う名前の剣を抜刀して、お父さんに向ける。それに対してお父さんが『本当』と言う言葉の剣を向けて来るので、あたしは『嘘』と言う鎧で守る。
本当はその鎧も砕けて、塵に返りそうなほどの不安定さだった。だけど、それでもお父さんの武器に対しては、不思議と守り切れる気がした。
そんなある日、お母さんが帰って来た。
「ただいま~」
「おお!ひなちゃーん!お帰りー!」
あたしはその様子を、お父さんの影に隠れながら見ていた。
「麻沙美も、ただいま」
「う、うん。お帰り……」
本当はお母さんに合わせる顔がなかった。善意の上に善意を重ね、さらに善意を重ねたお母さんの事を裏切るようなこのテストの点数を前にして、さすがのあたしも危機感を抱いていたからである。
「そう言えば風の噂に聞いたんだけど、今日のあなたのテスト、どうだったのかしら?」
しかし、あたしにいとも簡単に聞いてくる。こんなに踏み込んだことを。
もう隠すことは出来ない。あたしは覚悟を決めて、テストを見せた。
「……」
それを見せた瞬間、お母さんはにこりと笑みを見せて、
「でも、平均点は取っているじゃない。頑張っていると思うわ」
「……」
やはりお母さんはあたしを、善意の上で起こらなかった。頑張っている?確かに頑張っている。あたしなりに、頑張っている。
だけど……だけど、お母さんが言っているほど、あたしは頑張ってはいない。
そしてそんな時、事件は起きた。
エプロンを作り、授業参観の日に披露することになった。そう、その授業参観に、お母さんも参加する。
だが、あたしは手先はそれほど器用ではない。この日も……
「あぁ、まただ……」
ミシンの縫い目が少し歪んでしまった。
そう、これがあたしの本来の実力。それだけの実力しかもっていない、あたしの実力だった。
もう、あと2日しかない。こうなったら、このままでいくしかないだろう。そう、腹をくくった。
しかし翌日、あたしは違和感を覚えずにはいられなかった。
「え……?」
昨日まで散々歪んでいた縫い目がきれいに、まっすぐに補正され、他の部分もきれいに完成しつくされている。丁寧に、アップリケまでつけられている。
すぐさま、誰が手直しを行ったのかわかった。そして当日……案の定、あたしのエプロンはみんなから注目を集めた。
普段はあたしなんてどうでもいいのに、こんな時だけ、あたしに注目を集める。
それがあたしには……たまらなく嫌だった。
結果的にあたしは、中学校の頃は本当に驚くほど普通だった。普通と言う言葉も恥じらうほど、普通だった。
『特別』でも『普通』でも変わらなかった。なにも、変わらなかった。
結局あたしはひとりぼっちで、誰からも見向きもされなくて、何かあった時だけ誰かが寄ってくる。そんな毎日を過ごしていた。
それにくわえ、お母さんはその授業参観以降さらなる善意を向けてきた。
誕生日には必ずフォアグラやキャビア、最高級の紅茶など、世界を飛び回って高級品をあたしの家に送る。
本来はみんな、そのお土産に歓喜するのだろう。でもあたしは……違う。
あたしはお母さんに何もしてあげられないし、『無償でしてもらう』ということに抵抗がある。
だけどそんなあたしにもお母さんは、無償の善意を送り続けた。
そのたびにお母さんに嘘をつき続ける。あたしがあたしでなくならないように。
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「人の気持ちを知らずに善意を送り続ける……そんなお前の母親が、ずっと嫌いだったんだな」
こくりとうなずく緑川に、俺は腕を組みながらその顔を見つめた。
緑川の気持ちも、まして日菜子さんの気持ちもわかるので、俺はどちらが悪い。とは言えなかった。
「で……高校に上がってからも続いたのか?日菜子さんの善意は」
「はい。でも……高校に入ってからは少し落ち着きました。でも、善意自体は続いたんですが……」
緑川はゆっくりと、再び語りだした。
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