第16話 魔王村の異変
フィルが何とも答えられずにいるうちに、不意に空気が鳴った。
クォォォン、という高い反響のような音色に、瞬時にバルバザールが身構えて腰の剣に手をやる。鋭く引き締まった表情は、成程、少し前まで名の知れた冒険者だったということがよくわかるようだ。
けれどフィルは、その音に聞き覚えがあるような気がした。
同時に魔王とリッチが顔を上げる。
「……クインですな。魔王様へ伝達ですか」
「ええ。…………成程」
首を傾けて耳を澄ますようにしていた魔王が、小さく呟く。フィルたちにとっては鳴き声にしか聞こえない、魔王には意味を持って伝わっているらしいそれは、クイン……魔王村にいた小さなドラゴンの鳴き声だった。
リッチが伝達、というように、何かを魔王に伝えようとしているのか、幾度かに分けて澄んだ鳴き声が響く。それからしん、と再び空気が鳴りやんで、少し遅れてぴちち、と周囲の小鳥が鳴き出した。
顎に手をやった魔王が、うっすらと眉を寄せている。
「……おや」
「ふむ。どうなさいますか、マイマスター」
「リッチ、すみませんが一足先に戻って確保を。番犬たちはそのまま待機させます」
「承りました。……村長殿、衛兵殿、これにてリッチめは失礼をいたしますぞ」
「え、あ、はい? ……っ!!」
呆けた返事をフィルが返すその時には、家令姿のリッチはかき消えていた。ぽかん、とするフィルの前で顎に美しい手を当てて魔王は考え込む。
「……どうするべきでしょうか」
「あの……魔王様、クインは何て?」
恐る恐る尋ねたフィルに、魔王は困ったように眉を下げて首を傾げた。
「村に来客……なのだそうですが……」
「ええ?」
「どうも、冒険者のようなのです」
「いきなり!?」
「はい。ただ、何というか……」
珍しく歯切れが悪い。困惑しているようにさえ見えるその表情に瞬くフィルに、魔王はその美しい指先でついと空間に縦長の楕円形を描いた。
ぐにゃり、と空間が歪んで、ゆらゆらと何か映像が結ばれていく。目を見張るフィルの前でその映像は魔王村の入り口を映し出した。
まだ見慣れるには迫力のありすぎる二頭の番犬が胡乱気に何かを見降ろしている。
「……え?」
「そこに倒れているのが、冒険者なのだそうです」
「ま、まさか番犬さんたちに……」
「いえ、それが……」
魔王が再び手を動かす。映像がぐっとその「何か」に近づいて、大きく映し出した。それを見て、思わずフィルは呟く。
「……気持ち悪いくらい、幸せそうですね。気絶しているみたいですけど」
「そうなのです」
それは魔王様とて困惑するだろう。
転がっているのは、年の頃フィルより少し年下に見える、眼鏡の女性だった。濃い赤のこぶし大の石がついた杖が隣に落ちているあたり、魔術師か何かだろうか。みつあみの長い髪が二本、地面に散っている。灰色のローブの細身の女性は、目を閉じて倒れているのだが、恐ろしく幸せそうな笑みをたたえている。
「……恐怖のあまり、おかしくなったんでしょうか」
わからないでもない、と気の毒に思ったフィルが頷くと、それなら申し訳ないのですが、とさらに困惑を深めたような声で魔王は続けた。
「幸せすぎてもう無理、と叫んで倒れた、とクインは言っています」
「…………は?」
何ならもう一度言ってほしい。幸せすぎて……何と?
おかしくなりすぎて一周回って大変なことになってしまったのだろうか、と思うフィルの前で、眉をひそめたバルバザールが「幸せすぎて?」と繰り返した。
「幸せすぎてもう無理……? その小娘がそう言ったんですか? 番犬の前で?」
「ええ、クイン……うちのドラゴンはそう言っています」
「……」
より眉間の皺を深くしたバルバザールは、数歩魔王の手元に結ばれた映像に近づいた。よくよく覗き込むようにして確認し、心から嫌そうな溜息を吐く。
その反応に瞬き、フィルは首を傾げた。
「……バルバルさん、もしかして知り合いですか?」
「あー……まあな……多分、つかほぼ間違いなくだが、そいつはクラリッサ・フローウェルって冒険者で、まあ見た通り魔術師だ。昔、っつっても六年くらい前か、一度パーティを組んだことがあってな」
「なんでそんな苦い顔なんですか? ええと、悪い人、だとか……?」
恐る恐る、といった様子のフィルの問いに、悪いの定義によるが、と断ったうえでバルバザールは面倒そうに後頭部を掻いた。
「性格は悪いやつじゃない。ないんだが……面倒くさい特徴があってな」
「特徴、ですか?」
「ああ。……大の魔族、魔物オタクなんだよ。特に、レア度やら脅威度高めなら、なおさらだ。そんなあいつにとっちゃ、ケルベロスとオルトロスなんざ、垂涎の魔物だろうよ」
「……魔族、魔物オタク……待ってください、ってことは」
「ああ。リッチやら……そうだな、魔王様なんか見た日には、手が付けられなくなるだろうさ」
きょとん、と不思議そうな顔をしている魔王を思わず見て、フィルは頭を抱えた。どうしてこう、面倒ごとが向こうからやってくるのだろうか。いや、こちらからも近づきたくはないが。
「魔族、魔物がお好きな方なんですか? それはまた、珍しい方ですね」
「まあ、学者なんかだと珍しくもないですが、あいつの場合完全なフィールドワーク型でしてね。背中に英雄も殴り殺せそうなほど分厚い魔物事典をしょっていますが、そこに載ってる内容に自分が実際に見たり体験したりして知ったことを書き込むのが三度の飯より好きな変わりもんです」
「魔族や魔物を狩るのが好き、というわけではなく、知ることが好き、ということですか。それは確かにとても変わっていますね」
くすり、と笑って、魔王が瞳を和ませる。おっとりと笑っている場合ではないと思うのだが、大丈夫だろうか。
魔王よりも落ち着かず、フィルは無意味に右往左往してしまう。
「で、でもですよ、どうして隣村まで辿り着いたんでしょうか。自慢じゃないですけどド田舎ですよ、ド辺境ですよ? いくら何でもフィールドワークで適当に歩いていて辿り着くような場所じゃないですよね?」
「本当に自慢にならないな」
「放っておいてください、辺境には辺境の良さがあるんですよ、夜静かだとか」
「いや、それがよくて辺境赴任したんだから文句があるわけじゃないが」
ともかく、問題はそこである。いや、偶然見つかった、というのも可能性としてないわけではないが、フィルの村も、小一時間ほどの距離にある魔王様の村も、基本的には小型のほぼ無害な魔物くらいしか出ず、魔族など来ることもない辺鄙な辺境村である。
そんな魔族や魔物を好むような人間が目指してくる場所ではないと思うのだが。
「さっきのリッチの爺さんも言っていたが、強い魔力を感知する魔法ってのがあるんだよ。クラリッサはそれが使える。たぶん、それで村の辺りに山ほどの強力な魔力を感知したんだろ」
「ああ、成程……」
「でなきゃ、森の入り口からならこっちの村の方が近いんだ、こっちに来るだろう」
「それもそうですね……ってことは、最短距離で道なき道を突っ切っていった、ってことですか? この森の中を?」
「珍しくて強い魔族や魔物を見られるってなれば、そのくらいは平気でやる。まったく不思議じゃない」
「うわあ……」
根性が据わっている。整備されていないから辺境なのだ。フィルたちのように森歩きに慣れているのならばいざ知らず、町に住んでいる人間がひょいひょい歩けるような場所ではない。
勿論冒険者ならばある程度旅慣れているかもしれないが、うっそうと茂った森の中をかき分けて、森の奥、辺鄙を極めた場所にある魔王の村に辿り着くなど、並大抵ではない。
「でも、魔族狩りがしたいわけじゃないなら、安全は安全、なんでしょうか」
「安全……なあ……。あの変人にまとわりつかれるのは、安全っていうのかねえ……」
懐疑的な口調で呟いて、バルバザールは首をひねった。ともかく、一度村に帰ります、という魔王に短く頷く。
そのバルバザールの腕を掴んで、フィルは真顔になった。
「バルバルさん、俺たちも行きましょう」
「はあ?」
「フィルさん?」
「バルバルさんはそのクラリッサさんって人を知っているんですよね? 何かあったら対応してくれますよね?」
「はあ!? なんだって俺が」
「人間が魔族に迷惑をかけようとしているとか言語道断でしょう!! それでうちと魔王様の村の関係がこじれたらどうしてくれるんですか!!」
「そりゃ俺の所為じゃないだろ」
「打てる手を持っていながら手伝わなかったら戦犯です。それが嫌なら手伝ってください」
我ながら無茶苦茶かもしれないが、そんなわけのわからない冒険者に対しての対応策などフィルにはわからないし、魔王やリッチに迷惑をかける可能性が極めて高い人間を放置して村でのほほん、と待っているというのもすわりが悪い。
ならば旧知の中であるらしいバルバザールに押し付けもとい任せるというのが合理的な判断であろう。
「……お前、そんな押しが強かったか?」
いぶかしげではあるが、仕方なさそうに頷いてバルバザールは同行を承諾してくれた。それから順序が逆だったことに気付き、フィルが慌てて魔王を見やる。
「じゃ、じゃなくて、魔王様、お邪魔していいですか?」
「……ええ、勿論。心配してくださってありがとうございます」
「いえあの、そんな」
もぞもぞするフィルに、けれど、と優しい声音で魔王は続けた。
「もしもその冒険者さんが私たちに何かの不利益をもたらしたとしても……フィルさんたちを恨んで、この関係をこじらせるつもりはありませんよ。どうかそれだけは、忘れないでくださいね」
「……はい」
何と答えたらいいのかわからず、それでもフィルは何とか頷き返す。
ありがたいことだと思う。隣村で復興の手伝いもまだ十分にできているとは言えないただの人間の村長である自分に向けられた魔王の信頼は温かく、優しい。
ともすれば魔王という存在であることを、忘れてしまいそうなほどに。それがいいことなのか悪いことなのか、フィルにはよくわからないが。
「と、とにかく急ぎましょう。バルバルさんの言う通りなら村に冒険者的な意味での危険はないんでしょうけど、何だかそれ以外の騒動の可能性が高いような気がして怖いので」
そもそも魔王がそのクラリッサという冒険者に発見された時の反応が一番怖いような気がするが、村長が村のために帰らないわけにはいくまい。いざとなったら何とかしよう。全く手段が思いつかないが、その場合にはバルバザールに頑張ってもらうまでだ。
フィルは無力な村長A、腕の立つ冒険者におとなしく助けてもらうのが筋だろう。
ともかく、何やら嬉しそうな魔王と気乗りしなさげなバルバザールを連れて、フィルは急ぎ徒歩一時間弱ほどの魔王村へと急いだのだった。
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