進撃の魔獣

 勢い良く、カーテンが開けられる。


 上は赤茶色の軍服。下はやや短めのスカートを履き、薄いタイツで素肌を隠した新しい装いのアンが、軽やかに登場して見せた。

 女性陣から、思わず「おぉ」と声が漏れる。


「如何かな?」

「えぇ、よく似合ってる。何なら、この国の軍人以上に着こなしてるんじゃない?」

「フム。女性とはいえ、軍服でスカートもどうかと思ったが、悪くない。寧ろ女の強かさがより表れていていいやもしれん」

「素敵です、アン様」

「ありがとう、エリアス。其方のレインコートもそろそろ新調せねばなるまいな」

「ま、まだ大丈夫です……これは、アン様が下さった初めての物ですから……」

「そうか。だが、破れてしまったりしたら遠慮なく言いなさい。大事に来てくれるのは嬉しいが、私は其方の身が大事なのだから」

「……はい、アン様」


 レギンレイブに来てから、かれこれ十日が経った。

 未だ敵は影すら見せておらず、奇襲の気配も見せていない。


 「来ないのならばその間、ゆっくり休ませて貰おう」などとアンは周囲に休息を促したが、普段涼しい顔をしている裏で、未だ体に残る熱と痛みと戦っている事を知っている。

 誰もいなくなったと確認するとようやく魔眼を収めて、息を乱し、脂汗を掻ける体に自ら改造し、皆から隠れて一人苦しんでいる事を、他の大罪は本人も知らないところで知ってしまった。


 故に暴食は己が大罪に従ってより多くの知識を喰らい、嫉妬は己が大罪に従って自分と同じ背丈の子供達と一緒に遊び、食べ、寝る事でここまで巻き込んでしまった子供達を励まし、怠惰は瞑想すると言いながら国の警備に尽力した。

 そして傲慢は、自分自身に憤る傲慢な大罪つみを叱責する。


「あんたはどうしようもねぇなぁ、姉御。休めって言ってる人間が一番休まなきゃいけねぇってのに、休まねぇ。もう十日だ。いい加減ちゃんと休め」

「湯治に定期的マッサージ。健康的食生活は置いておくにしても、きっちり休んでいるぞ?」

「嘘付け、もう騙されねぇぞ。姉御の目が赤いのは元からじゃあねぇ。ずっと魔眼を開いてるからだって、もうみんな知ってるぞ。起きてる間ずっと周囲を警戒し続けて、そんなんで休めるはずがねぇだろうが。なぁ、姉御」

「私には、この戦いに其方達を巻き込んだ責任がある。碌な飯も食わせてやれず、まともな寝床も用意出来ず、好きな服も買ってやれない。栄光さえも与えられないのだ……これくらい、自己満足と笑って見過ごせ」

「エリアスやアドレーが見たいのは、英雄を倒すために戦場を駆け抜けるあんただ。満身創痍で毎日やつれていくあんたじゃない。だから、あんたは休むべきだ。俺達のために」

「そうだなぁ……」


 まぁ、言ったところで結局は曖昧のまま終わらせて、無理し続ける事はわかっているのだが。


 一度、自分達を信頼してないのかと問い詰めたが、「信頼してなければ誘ってなどない。そういう拗ね方は止せ。信頼を置くからこそ、護るために尽力するのであろうが」と返されてしまっては何も言えなくなった。

 アンは周囲を護る事ばかり考えて、自分自身を護ろうだとか、自分を助けようだなんてこれっぽっちも思ってないのだと、わかってしまったからだ。


 では一体、誰がアンを助けるのだろう。

 もしも大罪の皆や、破戒僧らやシャルティらにまで見捨てられたら、彼女はこの先どうするのだろう。それこそこの先裏切られたりしたら、自分自身を護らない彼女を、一体誰が護るのか。


 収まることを知らない自己嫌悪。自分に対する憤りを、他人を護る事で何とか払拭し、持ち堪えているようだが、それすらも出来なくなったら、アンはきっと風船のように破裂して、死んでしまうのではないか――そう思うと、恐怖さえ感じた。


「それはそうと、ガルドスはまた偵察か? あの男にこそ、休みを与えるべきだろうに」

「あんたもどっこいどっこいだろ!? いいからその目を閉じろ! 横になって、息をする事だけ考えてやがれ!」

「わかったわかった。いいから其方も休め。これだけ長期の休みなど、今後取れるかもわからぬのだからな」

「へいへぇい」


(ダメだこりゃ……)


 だが、考えて見れば難しい話だ。


 彼女の計画の全貌こそ聞いた事がないが、おそらくは七つの大罪が揃い、それに連なる戦力が整ってから英雄に挑む手筈だっただろう。

 しかし聖母の教会地下で凄惨な現場に出くわし、アドレーを助け出すため、聖母と戦った。結果、アンの存在が英雄らに漏洩し、現在の状況に至っている。


 流れとしてはあまり良くない。

 当初の計画からはきっと、大幅なズレが生じているはずだ。


 だからアンは休めない。生じてしまった大幅なズレを修正するために、あれやこれやと考えている彼女に休めだなんて、一方的な自己満足にしかならないのかもしれないけれど、自己満足だと思って笑えという彼女に、自己満足でいいから休んで欲しかった。


 が、確かに現状で休めと言うのも難しいのは事実。

 せめてアンの体が完治するまで、何事も無く済んで欲しいものだったが――災難は常に重なって降り掛かるのが常、と言ったのはアンだっただろうか。


「魔獣が森から出て来ただと?!」


 ガルドスと共に入れ替わりで休憩に入っていた青年の一人が、通信機に対して怒鳴っているところに、ベンジャミンは偶然通りかかった。通りかかってしまったのだ。


「よりにもよって、交代で一番手薄な時に……! ガルドスさんは?!」

「わからない! なんであの人への回線が繋がらないんだ……まさか――」

「馬鹿! 縁起でもない事を言うな!」

「でも、俺達が知らない間に、一人で観測場所に言ってるような人だぞ?! 一人であの魔獣に立ち向かった可能性だって……」

「とにかく、落ち着け……! 魔獣は真っ直ぐこっちに向かって歩いてるらしい。今からなら、まだ逃げられる。シャルティに頼んで、女子供を優先に……!」

「その話、もう少し詳しく聞かせてくれねぇか」


 と、つい、口を出してしまった。

 聞いてしまったからには、口を出さずにはいられなかった。少なくともこのときのベンジャミンは、そういう状態だったのだ。


 *  *  *  *  *


 地平線の広がる荒野を、鼻歌交じりに闊歩する一人の男。

 ワインのコルクを抜く瞬間を想像して浮かれる仕事終わりのような雰囲気は、これから人を殺しに行くだなんてまるで思わせない。

 ただし、彼の両手に滴る血を見ず、生じる鉄分の臭いに気付かなければ、という前提条件付きではあるが。


 新聞さえも届かない俗世から切り離された森にいた魔獣は、楽しみだったのだ。

 魔導女王ヴィヴィアン魔剣帝アロケインが直接動くほどではなくとも、目障りだと思わされる程の敵が現れた。かつての七つの王国をも巻き込んだ大戦以降、そんな敵は出て来なかった。

 出て来たとしても魔剣帝の騎士団が倒してしまうし、大抵は聖母アリアの方に行ってしまうから、暇で暇で仕方なかったのだが、魔導女王ヴィヴィアンのお墨付きとなれば、ある程度には楽しめるだろう。


 だから念入りに準備して来た。

 魔導女王ヴィヴィアンがやって来た日から三日間。戦うために必要最低限のポテンシャルにまで戻すための筋力トレーニングを行い、仕上げて来た。

 そんな事しなくとも、あなたなら問題なかったでしょうとか言われるだろうが、久々の実戦。とことん楽しみたかったのだ。


 相手が盲目の魔導剣士と聞いた時には怪しんだものだが、聖母アリアを追い詰めたと言うのなら多少は期待出来る。


「アン・サタナエル、どんな奴が……ン?」


 畑を護るため立てられた案山子かかし

 扉を開けぬよう、掛けられた閂止かんぬき。もしくは突っ張り棒。

 きっと、用心棒という表現をして欲しいのだろう仁王立ちで待ち構えていたが、グレゴリーからしてみれば、用心棒と呼ぶには若干の物足りなさが否めなかった。


 が、無視するのももったいないので、一応は止まる。


「アァ。一応、確認はしておこうカ……俺はこの先にイル七つの大罪ってのに用があるんダガ、おまえはそれヲ知っててここにいるんだヨ、ナァ」

「あぁ、間違いねぇぜ」

「ソウカ……同族相手は、さすがに気が引けル、ナァ」


(デカっ……!)


 大人になってから、相手が飛んでいない限りは他人ひとを見下ろしてばかりだったベンジャミンは、子供の頃以来に人を見上げた。


 わかりやすく、単位をアンの前世と同じにして測る。双方、二足で立っている状態だ。

 ベンジャミンは身長三六〇センチ。獣人族全体で見てもかなり大きい方で、獣の特性を多く有した獣人は高身長になりやすいのだが、それでもベンジャミンほどのサイズは稀らしい。

 では、目の前に立つ黒い壁の高さは、稀どころか希少なのだろう。


 軽く見積もっても五〇〇センチは下らないだろう圧倒的サイズの巨躯。

 熊の毛と皮とに覆われた漆黒の肉体はまるで鋼の様な、とにかく硬い筋肉の塊。

 二足歩行をする動物は、必然的に腕より脚の筋肉が太くなり、単純計算でも筋力に三から四倍近い差が生じると言うが、そんな話は嘘っぱちだと思ってしまいそうになるくらいに太い腕は、ただでさえ太い脚とほとんど変わらない。

 胸板も腹筋も硬く、肉の鎧をまとっているかの様。


 熊の獣人にして魔獣、グレゴリー・ベディベアは、誰もが見上げる高き壁。

 筋肉という生物の原始から始まる力の象徴を鍛え上げて作られた、黒い城壁であった。


「ンン……一応訊くが、おまえがアン・サタナエルってわけじゃあネェよ……ナ?」

「あぁ、そういやまだ名乗ってなかったか。俺は七つの大罪は傲慢の大罪つみ、ベンジャミン・プライド。悪いがここから先、あんたを行かせるわけにゃあ行かねぇ。大人しく、尻尾撒いて帰って貰おうか」

「アァ……そいつぁ、困ったナァ……!」

「――!!!」


 大木が台風か何かで飛んできて、突き刺さったようだった。

 だがそんな突風が吹き付けきたわけではなく、何かが飛んで来たわけでもない。ただグレゴリーが、その巨大な拳を振り下ろし、地面を打ち砕いただけの話。

 辛うじて躱しながらも、ベンジャミンは焦った。

 魔法による強化など一切なく、純粋な腕力のみで、乾ききった大地の岩盤を砕いたのだから。


 文字通りの、怪力。


――“獣王之咆哮ウォークライ”!!!


 後ろに跳んで躱したベンジャミンは、そのまま真正面に向かって咆哮を放つ。

 ベンジャミンの十八番。咆哮と共に解き放つ獣人の秘術。

 蒼穹を貫くかの如く放たれた咆哮は一直線に駆け抜け、グレゴリーと衝突した。


 沈黙。

 やけに気分を逆撫でる嫌な静けさの侵略に屈しまいと、敵を睨んでいたベンジャミンは、次の瞬間に吹き飛ばされた。


 三メートルを超える巨体が浮き上がり、舞い上がる砂塵と共に吹き飛ばされる。

 体勢を立て直す間もなく背中から着地。起き上がった時にようやく、自分が今と気付いた。


「アァ……アァ、アァ、アァァ。ンン……久し振りで調子が悪いナ」

「調子が、悪いだと」


 威力としては充分過ぎる。

 なのにまだ全力ではないと、目の前の怪物は自分の喉の調子を確かめながら言った。

 信じ難い事実に虚勢を疑ったが、目の前の熊は不意打ちは出来ても、嘘を付けるまで賢そうには見えない。


 お互いにまだ相手の体に触れてすらいないと言うのに、明らかにされた力の差。

 引くは易い。屈するのはもっと容易い。

 だが、そんな選択をするのなら、元々この場に立ってなどいない。そうだろ――そう、自分を鼓舞する。


「にしても効いたヨ。今の、“獣王之咆哮ウォークライ”ダロ? 今まで喰らった中デ、一番効いたゼ」

「そりゃどうも」


 今のも、嘘ではないのだろう。

 ただしダメージに関しては、無傷の体を見る限り、言葉通りに受け取るのは難しい。大小ではなく、まずは有無のところから疑うべきだ。

 防御の魔法も加護も何も無い。持ち前の肉体一つで防がれた。


 かつてアンを倒すため、怪物と化した貴族を思い出す。

 あの時の怪物の肥満体とは正反対の強靭な肉体は、美という概念に疎いベンジャミンでさえ、神話の神々を模った彫刻を想起させる。

 初めからわかっていた事ではあったが、見せかけだけの肉ではない事が改めて証明された。


「サテ、と……」


 ベンジャミンが今まで見た事のない準備運動らしき動きを、グレゴリーはし始める。

 転生者から見れば相撲の四股しこ以外にないのだが、見た事のないベンジャミンからしてみれば未知の動き。そこからどのような攻撃が繰り出されるのか、想像も出来ない。


「待ったナシダ」


 今のも相撲から発生した用語であり、ベンジャミンには聞き馴染みの薄い言葉であった。が、何となく意味を察する事は出来た。

 咄嗟に両手を突き、四足獣の形で身構える。


「ヌゥン!!!」

「――!?」


 肩で風を切り、巨大な肉塊が突進してくる。

 咄嗟に側面へと飛び退いたベンジャミンだったが、躱したと思った直後に脚を掴まれ、五〇〇センチ以上の高さまで持ち上げられて振り回される。

 獣人をも遥かに凌駕する力で振り回されて生まれた遠心力が、一切の抵抗を許さない。


 横に向いていた力が突然縦に方向を変え、ベンジャミンは地面に叩き付けられた。

 右へ、左へ、もしくは左へ、右へ。もはや方向もわからないほど何度も叩き付けられ、頃合いを見計らって投げ飛ばされる。

 地面を抉りながら転げたベンジャミンは、後れて襲って来た痛みに歯を食いしばって耐えるしか出来ず、まるで動けなかった。


 が、それでもグレゴリーの強襲は止まらない。

 四つん這いになりながら何とか立ち上がろうとしているベンジャミンへと、鉄塊のような拳を振り下ろす。


 全身を走る衝撃と、襲い来る重量とに肉が泣き、骨が呻く、が、ベンジャミン自身は歯を食いしばり、泣かない。呻かない。

 むしろ眼光をより鋭く光らせ、笑う肉塊をめ上げる。

 見下ろすグレゴリーは嬉しそうに、二撃目を振り下ろした。


「イーネェ……!」


 二撃目を受けても、尚死なない。むしろより鋭く光る敵意剥き出しの眼光は、グレゴリーの体に鳥肌を立たせた。

 大抵、一撃振り下ろしただけでも死んでいた。生命活動が続いていたとしても、一撃受けただけで心が死んで、二度と歯向かって来ようとしなかったものだが、目の前の狼男は、未だ敵意を向け、睨み付けている。


 興奮しないわけがない。


「ソゥラ、三発目ダ。防がないと死んじまう、ゼ――!!!」


 刹那。


 グレゴリーの拳が振り下ろされた瞬間に、ベンジャミンの体から冷気が放たれる。

 拳にはすでに力が乗り、巨体による自重までが加わって、グレゴリー自身止められない。その拳を含めた太い腕を凍える風が絡め取り、体毛の先から凍らせる。

 空振りに終わった拳が地面に突き刺さると拳が凍って、地面に張り付いて剥がれない。その隙に懐へと跳び込んだベンジャミン渾身のアッパーカットが、グレゴリーの下顎を打ち抜いた。


 “悪名高き聖人殺しフローズヴィトニル・ベオウルフ”。

 凍える冷気をまとった獣が吠える。ゼロ距離で撃ち込んだ“神獣王之怒号フェンリル・カノン”が、漆黒の巨体を吹き飛ばした。


「舐めんじゃあねぇ熊野郎! 魔獣だか何だか知らねぇが、傲慢な野郎だぜ! 傲慢の大罪つみが狩ってやるよおぉ!」


 ゆっくりと両脚が持ち上がり、振り下ろす勢いと腹筋を使って、グレゴリーは立ち上がる。

 殴られた下顎をさすりながら凍らされた右腕を見て、と口角を持ち上げた。


「狩ってやる、カ……いいネェ。さすがは傲慢の大罪つみってところ、カ」


 と、グレゴリーはその場でゆっくりと右腕を振り上げ、風を切って振り下ろし、地面に叩き付ける。腕を覆っていた氷が砕け散って、体温を上げるための反射で体を震わせた。


「時に、そっちには異世界転生がいるんダロ? だったら、こんなコトワザは習わなかったカイ? ……『』」


 地の奥底から腹の底へと響くような重厚感のある音が、震動と共に響く。

 グレゴリーが片腕を落とし、前傾姿勢を取って明らかな突進の構えを見せたのだ。


「サァ……尻尾撒いて逃げるのは、どっちカナァ?」


 グレゴリーの漆黒の肉体が、より大きく膨れ上がった。

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